熊は亀を助けない

 気がついたら僕は保健室のベッドに寝かされていた。個室のように仕切られたカーテンの向こう側から養護の先生の声がする。話の内容から推測するに、どうやら僕の家に電話をしている最中のようだった。


 ああ……僕はまた母さんに心配をかけてしまったんだな……

 僕は本当に駄目だなあ……

 天井を覆うロックウール化粧吸音板の模様が涙で歪んで見えた。


「おっ、気が付いたか亀山ー!」

   

 突然カーテンが粗雑に開けられ、強面のスキンヘッドの男が入ってきた。

 それに慌てた僕は跳ね起きてベッドの上を後ずさりする。

 その結果、背中をベッドのパイプに強打してしまう。


「あうっ」


「おい、慌てなくていいんだぞ、亀山? ここは安心安全な保健室だー! そして、ここに俺が来たー! ……ん? ひょっとしてお前、まだ意識が朦朧もうろうとしているのか? おい、俺が誰だか判っているか?」


「た、担任の……く、久間井くまい先生……です……」


「よーし、頭は・・正常のようだなー! ガハハハハハハハ」


 心臓がバクバク鼓動する合間を縫って答えると、それのどこに笑いのツボがあったのか謎だけれど、先生は僕の肩をバンバンと叩きながら豪快に笑い始めた。

 大学柔道で日本一になった経歴をもつ巨体の持ち主で、名前とその見た目から生徒達からは〝クマセン〟と呼ばれている。


「そんで亀山ぁー、腹の具合はどうだー?」

「……はらの……ぐあい?」

「お前、阪本のヤツに腹を殴られたそうじゃないかー」

「ど、どうしてそれを?」


 阪本さんが僕の腹を殴ったことは、当事者の僕ら以外に知らないことのはずだった。もしやあの場に目撃者がいたということだろうか?

 アゴに手を当てて考えていると、クマセンは「ああー、そうかー」と呟いて、説明を始める。


「お前が倒れたって、職員室に駆け込んで知らせに来たのが阪本だからなー! そんで、実際のところどうなんだー? ヤツは軽くお前の腹を小突いただけと言い張っているのだがー……小突いただけではさすがに病弱のお前でも倒れないだろー? 本当はどうなんだー? 強く殴られたんじゃないかー? 腹がまだ痛むのなら救急車を呼ぶぞー?」


 まくし立てるように言いながら、クマセンはグイッと顔を寄せてくる。

 心なしかその顔は口角が少し上がっているように見えた。


「きゅ、救急車ですか? そ、それはちょっと待ってください!」


 僕は上体を後ろに逸らして、クマセンの顔の前で両手を左右に振った。


 僕にとって救急車なんてタクシーよりも乗り慣れたものだけれど、クラスの女子に殴られて救急車で運ばれたなんて聞かされたら、母さんが卒倒してしまう。


 それに――

 僕の脳裏に、阪本さんの動揺した顔が焼き付いて離れない――


「ぜ、全然大丈夫……です。も、もう全然痛くないです……から!」


 実際、触らなければ何とか我慢できそうなぐらいに、殴られた場所の痛みは引いている。


「そうか、それは良かったなー、亀山。まあーでも、一応俺に見せてみろー!」


 そう言いながらクマセンは僕の腹部に手を伸ばす。ごつい指先が脇腹に触れるとズキンと痛みがぶり返してくる。そしてトドメの一撃のようにグイッと押された。


「うぎゃああああー!」


 たまらず悲鳴を上げてしまった。すると異様な雰囲気を感じ取った他の先生までドタドタとやってきて、保健室は大騒ぎになってしまった。


 結局、僕は迎えに来た母の車で、かかりつけの病院へ向かうことになった。本当に申し訳なく、情けない気持ちでいっぱいになる。

 検査では打撲以外に異常は認められず、湿布と痛み止めを処方されてすぐに家に帰れたのだけれど、夜には熱が出て寝込んでしまった。


 翌日の夕方に高校から連絡があり、阪本さんは2週間の自宅謹慎処分が下されたことを知った。

 僕からの証言と、彼女自身の自白内容を照らし合わせた結果、『何の前触れもなく暴力を振るった』という〝事実〟が出来上がってしまったのだけれど、よくよく考えたらそれは事実と大差ないものだった

 実際のところ、同級生どうしのケンカで自宅謹慎処分というのは、清林高校ではよくある処分らしい。


 僕が再び登校できたのは〝事件〟から3日後のことだった。


 クラスは何ごともなかったように平常運転。久しぶりに教室に入っても誰からも声はかけられなかったし、休み時間に廊下の窓から外を眺めていても誰からも声をかけられることはない。

 これでは有名人とまではいかなくても、話題の人ぐらいにはなっているかと緊張していた僕が馬鹿みたいじゃないか。

 もちろん注目を浴びたかったわけではない。でも、これを切っ掛けとして友達ができれば良いなと考えていたことは否定できない。


 ああ、恥ずかしい。

 まったく注目をされることなく、僕のぼっち生活は続く。

 果てなく続く――


 昼休みになると、僕の足は自然とあの体育用具倉庫裏へ向いていた。

 あれから1週間毎日来ているけれど、猫は一度たりとも姿を見せることはなかった。


 いったい彼女はどうやって猫を呼んでいたんだ? 召喚んでいたのか?

 まあ、居ないならそれでいい。僕に世話を焼く義理はない。


 コンビニで買った猫用おやつのチューブをフェンスに挿して、古くなった昨日の分をゴミ袋に入れて鞄に放り込む。そして椅子代わりのビール瓶の箱に腰をかけて、膝の上に弁当を広げた。


「なあ、僕と一緒に食べるかい?」


 自嘲気味にくすりと笑う。名も知らぬ黒い甲虫が、カサカサと落ち葉の上を歩いている。

 朝方まで降っていた雨で地面が濡れている。

 母さんは僕がこんなところで弁当を食べているなんて知らない。ただ、優しい笑顔で弁当を渡してくれるだけで、何も訊かれないから嘘をつかないで済んでいる。


 ふと思う。


 あの時――

 阪本さんに何でもすると言われたとき――


 一緒にお弁当を食べてと願っていたら?

 

 もしかするとあれは人生最大級のチャンスだったんじゃないか?


 僕は首を振る。

 それは正義に反する愚行だ。

 人の弱みにつけ込んで叶える願いに、何の価値があるというのか。

 

 でも……それでも母さんは安心するかな?

 僕は再びフルフルと首を振る。


 唯一の弁当仲間が不良少女で、それからまかり間違って友達にでもなって、さらにはカノジョになって家に連れて行って紹介するなんてことになったら、母さんは卒倒してしまうだろう。


 まあ、この世界線にそんな未来は存在しないので考えるだけ無駄だ。きっと数多の平行世界にさえも存在しない未来だろう。


「ごちそうさまでした……」


 手を合わせ、空になった弁当箱を鞄にしまい込む。

 ちらと腕の時計をみると、昼休みはまだ半分しか経っていないことが分かり、僕は深くため息をついた。  

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