狩りの始まり

 翌朝、教室のドアを引くと教室は一瞬にして静まりかえった。


「え、えっと……」


 予想通りの反応だというのに、いざ直面してみると戸惑いを隠せない。顔はこわばり、足がブルブルと震え始める。

 僕が席に着くまでの間に、教室のあちこちからヒソヒソ話が聞こえてくる。

 何を言われているかは大体のところは想像できる。


 机にびっしりと落書きされていた。


 およそ言葉に発することを躊躇うレベルの単語の数々。

 シャーペンで書かれたものが多いけれど、油性ペンで書かれたものは消すのが大変だなぁ……。

 最も厄介なのは、金属製の何か尖ったものでガリガリと削られたような『バカ』の二文字。これは絶対に消えないなぁ……。

 学校の机を傷つけたら弁償しなければならないと聞いたことがあるけれど……僕が弁償することになるのかな……母さんにまた迷惑をかけてしまうなぁ……。

 

「はあ……」


 僕はため息を吐いて突っ伏した。

 ある意味これほど順当で、ある意味肩すかしの感もある報復に、ため息の一つや二つは出てもおかしくはないだろう。


 昨日あれだけの騒ぎになったのだから、今日はもっと直接的に嫌がらせをされるかと身構えていたのに……。


 いやいやいや。

 これは一日の始まりとしては、充分なレベルの嫌がらせじゃないか?

 僕は不幸体質に慣れきってしまって、その辺の感覚がおかしくなっているのかもしれない。


「ちょっと、あんたたちやり過ぎじゃない? クマセンに気付かれたらヤバいよ?」

「そうそう。それに亀山のバックにはあの子が付いているんでしょ? 阪本さんに目を付けられたら厄介だよ?」

「大丈夫だって。あの二人、別に仲が良いって訳じゃなさそうだぜ」

「ああ、それ俺も聞いた。阪本さんがクマセンに連れられていくときに亀山を罵倒していたってさ」


 ヒソヒソ話にしてはずいぶん大きな声だった。

 僕本人に聞こえていようが聞こえていまいが一向に構わないという感じの会話。

 彼らにとって僕なんてどうでもいい存在なんだ。


「喧嘩したのかな?」

「いやいや、元々仲間でも何でもないだろあの二人。出身中学もぜんぜん違うだろ?」 

「ま、どうせ何かの気まぐれだろ。不良やってるやつの頭なんかたかが知れているさ」

「実際、なーんにも考えてないんだろうな!」


 品のない笑い声が教室のあちらこちらから聞こえてくる。

 これは仕方がないこと。

 人は自分達よりも能力の低い者を見つけると、寄って集って蔑むようになる。そして自分達の有意性を高めていく。

 それは能力の高い低いに関係ない。全人類に共通する性質なんだ。

 だから仕方がない。

 この場はスルーに限る。スルー一択だ。


 なのに。


「ちがう……よ」


 なぜか僕は立ち上がっていた。

 皆の『はあ?』という間の抜けた声がする。


「阪本さん……は……ちがう……よ」

「なーに亀山? 今度は阪本さんに告白でもする気なの? キモっ」


 斉藤さんの友達がつり気味の目を更につり上げて言った。

 えっと……彼女の名前は……名前は……また思い出せない。


「昨日の続き、始めようかー!」


 男子生徒が声を上げると、それに合わせて『ウェーイ!!』と集団が応じ、あっという間に僕は取り囲まれてしまった。


 その時、ガラッと勢いよくドアが開かれ、茶髪パーマの阪本さんが入ってきた。


「おっ、いいねー、またまた面白そうなことになっているしゃないか! いやー、朝からガッコに来るのもいいもんだなー。三文の得ってやつだー!」


 薄い鞄を肩にかけて、軽い足取りで入ってくる。

 そして僕の机の前に立ち、じっと表面を凝視しながら呟いた。

 

「おー、あんたの机、めっちゃイケてるじゃん! 朝、あたしが彫ったときよりもめっちゃスゲー書かれてるじゃん! あははははは、笑えるぅー!」

「……え?」

「バカって彫ったの。それあたしの仕業だよ!」


 ニッと犬歯を見せて笑う阪本さん。

 清々しさすら感じさせる笑顔だった。


「ど、どうして……」

「いやー、謹慎明けの初日にガッコをサボった罰として、花壇の水やりを頼まれちまってよー。本当はクマセンの当番なんだぜ? 非道くない?」

「ち、ちが……そっちじゃなくて」


 呆然としていると、彼女は『ん?』と表情を変え、茶髪に染めたカールした髪をくしくしと触りながら―― 


「だってよー、あんた人の弱みにつけ込んで……あたしのか、からだを……その……とにかくそんな外道な要求をした罰だ! まー、でも冷静になって考えたら、あたしもちょっぴり強引に迫っていたなぁーと反省してなー……そのぐらいで済ませてることにしたんだから感謝しろよ! いいか!」


「あ、はい……」


 最後は勢いに任せて言い切られ、僕は何が何だか分からないうちに納得させられてしまった。

 阪本さんはパンと手を叩いて、皆の方に向き直る。


「んじゃ、あたしに気を遣わずに続きをやってくれ」


 ざわめきが広がる。皆互いに顔を見合わせて、どうしたら良いか考えあぐねている様子だ。 


「ん? あたしは手出ししねーよ? あたしが許さねーのは、弱いやつを集団で狩る行為だ。だから弱いやつをタイマンで狩るのは全然オッケーだ! 弱者は強者のエサとなる。これが自然の摂理ってやつだかんな!」

「ぎゃははは、そういうこと?」

「阪本さん、サイコーなんだけど!」

 

 悪魔のような台詞を堂々と吐く阪本さんと、それに呼応して盛り上がる集団。


 喧嘩の強そうな、柔道部に所属する男子が指をポキポキと鳴らしながら歩み出た。


 今理解した。彼女は僕を許す気なんてさらさらない。これは僕に対する報復の続きなんだ。

 理由は分からないけれど、昨日の彼女はそれほどまでにひどくキレていた。


「あたしがこの狩りを見届けてやんよ。えっと……名前何だっけ?」


 僕の肩にポンと手を乗せて、彼女はつぶやく。


「か、亀山良太……」


 のんきに名乗っている場合ではない。というか、彼女は僕の名前すら知らなかったという事実に軽くショックを感じていたら――


「そっか、リョータかー」


 女子に初めて下の名で呼ばれた瞬間だった。

 死にゆく僕に二階級特進の栄誉が与えられたという解釈でいいのだろうか?


 しかし、その後に続く彼女の言葉は僕の想像を遙かに凌駕していた。


「相手はリョータを完全に舐めているだろ? いいかリョータ、舐めているやつを狩るのは簡単なことなんだ――」


 やんややんやと盛り上がっている教室の中で、僕にだけ聞こえたその言葉は、これまで僕が生きてきた世界のものとは全く方向性の異なる言葉だった。


「さあ、狩りの始まりだよ!」


 阪本さんが声を上げると、集団が『ウェーイ!!』とこの日一番の盛り上がりを見せた。


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