第3話 浮気性の夫

「お前みたいな女が妻なんて。……やってられるかっ」


 それはトーマス・ミストラル男爵の口癖のようなものだった。


 結婚を機に爵位を譲られたトーマスは、自分が爵位を得られた理由である妻を尊重することも愛することも無かった。


「白い結婚で十分だろ。なぁ、ミストラル男爵夫人?」


「……」


 嫌味な口調で言われれば、ハイともイイエとも言い難い。


 食事すら一緒に摂ることはない、白い結婚とも呼べないような生活である。


 私はトーマスの事を夫とは思えなかったし、自分が結婚しているという自覚もなかった。


「夫婦生活など必要はない。エレノアには仕事をして貰う為に嫁に来てもらったのだからな」


「そうそう。この女に仕事以外を求めるのが間違いだ」


「トーマス。口が過ぎるぞ」


「ハイハイ。でも、オレは約束を守ったんだ。後は好きにさせて貰うさ」


 そう言って、トーマスは家を出て行った。


 彼がいつ家を出て行って、どこに行き、いつ帰って来るのか。


 それは、私には関係の無い事だった。


 彼の時間の殆どが他所の女に使われているのだとしても、私が口出しするような事でもない。


 私には私ですべき事があったからだ。


「エレノア、お前はこの仕事を処理してくれ」


「はい、大旦那さま」


 爵位を譲ったといっても、大旦那の生活はそのままだった。


 元ミストラル男爵である舅は、当主として屋敷に君臨している。


 小柄な体ながら、抜け目ない目を屋敷中に光らせる老人を粗末に扱う者はいない。


 トーマスですら、自分の父親を邪険に扱う事などしないのだ。


「父上の言う事をよく聞いて働けよ。お前に出来る事などその程度だ。間違ってもオレからの愛を期待するなよ」


 その代わりとでも言うように、トーマスは痩せこけた妻を粗末に扱った。


 自信の無さと傲慢さが彼にそのような行動をとらせるのだろう、と、私は思った。


「はい。分かっています」


(アナタの愛など要らないし)


 言わなくても良い事は口にしないが、感情は黙っていても勝手に湧く。


 私はトーマスに魅力を感じた事はないが、よそ

 トーマスの魅力は、裕福な商家であるミストラル家を継ぐ立場にあることだけではない。


 茶髪茶目と髪や瞳の色は地味だが、彼の容姿は整っていた。


 高くてスッと通っている鼻梁、少し垂れ目の魅力的な目、力強いが余計な肉の付いていない顎。


 甘いマスクの美丈夫は、身長も高いし若さに溢れている。


 社交上手で口も上手く、手も早い。


 トーマスは溢れる若さでアグレッシブに恋をした。


 それは私との結婚後も変わらない。


 放蕩三昧であっても、財産をたっぷり持っていて十分過ぎるほど稼ぐ商会を抱えるミストラル家が彼の後ろにはあるのだ。


 トーマスは自信に満ち溢れていた。


 それでいて、優秀な人材として父に認められている『私』という存在を恐れているようにも見えた。


 彼の持たない才能を、私は持っていたからだ。


 だからこそ、『私』は蔑ろにされた。


 恐れていた、と、言っても良いと思う。


 彼は『私』という存在を蔑ろにする事で、その恐れと戦っているようにも見えた。


 私は彼の事が好きではない。


 だから、蔑ろにされても何とも思わなかった。

 

 しかし。


 商会の仕事を一切せず、浮気に明け暮れるというのもいかがなものだろうか。


 彼は商会の仕事を全て私に押し付けて浮気相手の元へと通っていた。


「アレは病気だ。仕方ない。放っておけ」


「ですが、大旦那さま」


「女好きなのは仕方ない。子供が出来たら引き取ればいい」


「ですが、大旦那さま」


「エレノア。それもこれもミストラル商会があればこそ出来ること。商売の方は、お前に任せよう」


「ですが、大旦那さま」


「金があれば大体の事は何とかなる。アレに期待するのは無理だが、エレノア。お前は違う。商売の才があるのだ。それを存分に活かしておくれ。我が家のために」


「……」


 お前の幸せなど考慮に入れるほどのものではないのだと、言外に語りながら大旦那は私に商売の指示を出す。


 確かに、男爵夫人となった私には出来ることが広がった。


 従業員、しかも女性であれば出来る事は限られる。


 それが未来の当主夫人ともなれば話は変わるのだ。


 薄っすら予想はしていたが、実際になってみると予想以上の効果はあった。


 商売と私の相性も良い。


 楽しい事には身が入る。


 トーマスは浮気に精を出していた。


 それについて、私に思う所はない。


 元々、望んで結婚したわけではないのだ。


 浮気したからといって、嫉妬の気持ちが湧くということもない。


 立ち回りの上手いトーマスは、浮気相手とトラブルになることなど無かった。


 だったら、気に病むだけ損である。


 トーマスの好きにさせておいたらいい。


 私は私で、出来ることをするだけだ。


 商売は楽しい。


 楽しく回る商売は、私が思っていたよりも利益を生み出していく。


 その利益で膨らむ男爵家の財産を湯水の如く使って行われるトーマスの浮気は、至って順調だ。


 幸か不幸か、子供が出来たという話も聞かない。


「跡取りは欲しいのだがね」


 大旦那は言うけれど。


 トーマスと会う機会すら殆どない私に、子供が出来ようはずもなく。


「子供は……難しいかもしれませんね」


 浮気相手との間にも、子供が出来る気配はない。


「そうか……それは残念だな……」


「……」


 大旦那が求めているのは何なのか。


 時折り、不思議に思うことがある。


 私に子供を産ませるつもりはないようだ。


 なのに。


 なぜ、子供の話などするのだろうか?


「子供が出来たら、エレノア。育てるのはお前だ。立派な跡取りに育ててくれ」


「……」


 トーマスとの結婚が形ばかりのものであるのなら、私にも見返りがあってよいと思う。


 そうあるべきだと思う。


 だが、その見返りというのは。


 外でトーマスが作った子供を育てる事なのか?


 ふと、疑問に思う。


「女は子供を育てて一人前だ。お前だって子供は欲しいだろう?」


「……」


 私が子供を欲しがっていたとして。


 誰の子でも良いと、本気でこの人は思っているのだろうか?


 どこをどうすれば、そのような結論に辿り着くのか。


 疑問に思った。


 同じように疑問に思う事がある。


 それは私の屋敷内での立場の微妙さだ。


 私がトーマスに愛されていない事を、屋敷の使用人たちは知っている。


 だから、私の世話など誰もしない。


 それはいい。


 私は自分の事は自分で出来るのだから。


 しかし、食事の内容などにまで影響が及ぶのは、いかがなものだろうか。


 妙に粗末な食事を自室で摂りながら、私は思う。


 屋敷に居る事も多いが、私は商会での仕事もしている。


 お飾りの女主人ではない。


 商会での仕事は、商会で雇った者たちで行われている。


 私がそこで粗末に扱われることはない。


 なぜなら、私は仕事の出来る人間だからだ。


 雇い主の身内であり、仕事の出来る私が粗末な扱いを受けることはない。


 それは不思議な事でもなんでもないのだ。


 屋敷の使用人たちが、私という存在を無視したり、軽視したりする方が不思議だ。


 あの人たちは自分たちが困らないと、本当に思っているのだろうか?


 私の方はと言えば、自分の事は自分で出来る平民育ちだから、何も困ってはいない。


 仕事に出掛ける時にも、必要最低限の身だしなみ程度は自分で維持できる。


 基本的に派手さは必要ない。


 私は店頭で売り子をするわけでもないし、接待をするわけでもないからだ。


 男爵夫人であり、次期ミストラル商会代表の配偶者なのだ。


 見た目は品よくを求められているから、地味なくらいで丁度いい。


 必要があれば、それに応じた外のサービスを利用すれば良いのだ。


 ヘアメイクにしても、ドレスにしても、手配はつく。


 商売をしていれば、そのようなサービスを提供している店との取引が生まれることもある。


 頼りになる商売相手は、自分で作っていけるのだ。


 必要になった時には、そこを頼れば良い。


 だから商談上の付き合いで困る事もない。


 屋敷を一歩出れば、私は商会を背負う有能なミストラル家の一員だ。


 周囲の人たちも、それなりの扱いをしてくれる。


 私は優秀さを惜しみなく使って付き合いをしたし、相手も私を尊重してくれた。


 その事は私にとって利益を生み出してくれる。


 私にとって利益のある事は、ミストラル家にとっても利益となる場合が多いので、大旦那は黙って見ていた。


 黙って見ていれば私が、ミストラル商会にとって利益を生み出す金の卵を生むガチョウのような存在になって稼ぎ続けると思っているからだ。


 そうとも限らないのだが、それは私だけが知っていればいい。


 商会での働きが私への評価となり、私の価値を生む。


 少なくとも、私の損にはならない。


 私は仕事に打ち込んだ。


 夫に何かを求めるつもりなどない。


 私にとって必要な事に集中できれば、他の事はどうでもよいと思っていた。


 だが、屋敷で働く者たちの受け止め方は違うようだ。


 髪をひっつめて、地味なドレスを着て、侍女にお手入れをして貰うこともない。


 髪を振り乱して働くしか能の無い、魅力に乏しい女という所か。


「お可哀想な奥さま」


 私の事をそう呼んで、クスクス笑っているのを聞いた事は数えきれない。


 夫から宝石もドレスも贈られない妻など、使用人たちにとって怖い存在ではないのだ。


 夫に愛されていない妻が女主人として使用人たちに敬われることはない。


 彼らは私に何をしても自分たちには影響がないと考えているのだろう。


 だが、屋敷の使用人たちが本気でそう思っているのなら愚かだ。


 粗末な食事をひとり自室で摂りながら私は思う。


 なぜなら、実際に稼いでいるのは私だからだ。


 老齢の舅は、少し前から車椅子生活に入った。


 いずれ大旦那の立場からも退くだろう。


 その時、商会を率いるのは私だ。


 夫ではない。

 

 その時になってもなお、私が黙って我慢するように見えるのだろうか?


 いま屋敷の使用人たちが私に向けている扱いに何も言わないとして、将来もそうであると決めつけられるのは何故だろうか?


 もっとも。


 いまは屋敷の使用人たちから軽んじられても仕方ない状況に、私はいる。


 この部屋だって、屋敷の女主人が使うような物ではない。


 ひとり部屋ではあったが狭く、隙間風が気になるような部屋だ。


 冬は寒く、夏は暑い。


 正直、実家の方がマシだ。


 少なくとも皆で体を寄せ合って過ごす冬は、この部屋で過ごすよりも暖かだった。


 その家族とも結婚以降、会ってはいない。


 私の現状を知られたくないのか、あるいは、一銭たりとも与えたくないためか。


 理由は知らない。


 私の家族がこの屋敷に招かれることはない、という事実があるだけだ。


 トーマスが浮気相手を連れ込むのは良くて、私の家族が来るのは許されないのは理不尽だと思う。


 浮気性の夫の考える事は分からないし、貴族の思考はもっと分からない。


 あんな男が夫だなんて、やってられるか。


 そう私は思ったが、黙るしかない。


 言葉にした所で誰も聞いてはくれないのだから。


 今の所は。

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