第2話 不本意な結婚

 あれは10年前の春。


 私は、ミストラル商会に就職した。


 繁盛している大きな商会への就職に、私の心は希望に踊る。


「今日からお世話になります、エレノアです」


 私は14歳だった。


 貧しい家に生まれた私は、必要最低限の事を学べる平民向けの学校を卒業するのと同時に就職。


 平民としては珍しい事でもなく、計算が得意だったため不安もない。


 給料も納得のいくもので不満もなかった。


「ああ。しっかりやっとくれ」


「はい」


 まだミストラル男爵を、小柄で太った老人が務めていた頃の話である。

 

 この頃の大旦那は、車椅子を必要とせずに自分の足で歩いていた。


 だが、この頃から椅子に座っている事は多かった。


 ミストラル商会の商売が上手くいっていた時代のことだ。


 仕事はいくらでもあった。


 執務机に向かって忙しそうにペンを動かしている大旦那は、こちらをチラリと見たが、その視線はすぐに手元の書類へと戻っていく。


 新しく雇用された平民の少女には、商売上手な貴族の気を引くようなモノは何も無い。


 対して、貧しい家に生まれた私は、少しでも多くお金を稼ぎたかった。


 心からの気持ちを込めて深く頭を下げる私。


「よろしくお願い致します」


「うむ」


 深く礼をとる私を見る事もなく、おざなりに返事をする大旦那。


 就職した時点では、私は沢山いる従業員の一人でしかなかった。


 あんな事になるなんて想像すらしなかった私は、希望に満ち溢れていて良くなっていく未来しか考えてはいない。


 やる気満々の私が配属されたのは事務。


 文字を書くのも計算も得意だった私にとって、ストレスの少ない仕事だ。


 先輩も苦労人の平民で、私を優しさのある厳しさで仕込んでくれた。


 乾いた土に水が染み込むように、様々な事を覚えていく私。


 お金を稼ぐ。


 それが目的である私は、働き始めてすぐに気付いた。


 事務だけを覚えても、給料は増えないという事に。


 だから、少しでも手が空くと他の仕事を手伝いに行った。


 みんな忙しいから、手伝いを断られることもない。


 他人がしている仕事も目で追って、ひとつでも多くを覚えようとした。


 器用だったわけではない。


 必死だっただけだ。


 幸い、私には商才があったようで。


 意外な事に物事は上手く転がり始めた。


 雑務のような事務から帳簿付けのような責任のある内容へと仕事が変わっていき。


 商品の在庫をチェックする程度だった雑用は、客先への納品に変わっていく。


 軽くて高い商品は、丁寧に扱う女性の手による納品の方が喜ばれた。


 客先には愛想よく。


 職場の先輩には真剣に。


 真面目に働く少女が、取引交渉の場に呼ばれるようになるまでには、そう時間は必要なかった。


 若い女が商売の場に同席する事は珍しい。


 それは意外なことに取引先からも好評で、交渉が有利に進んでいくことが多かったからだ。


 それが大旦那の知る所となるのも早く、彼が大胆な提案をしてくるのも早かった。


「エレノア。息子の嫁にならないか?」


「いえ、大旦那さま。私など……」


「いや。息子にはキミのような優秀な女性が必要なのだ」


「いえ……大旦那さま……」


 やがて嫁にと求められるようになっていく。


 ミストラル商会の跡取り息子であるトーマスは、容姿には恵まれていたが才覚には恵まれていなかった。


 ハッキリ言ってしまえば馬鹿で愚か。


 裏で笑っている使用人も多かった。


 しかも、年下に年上、未婚に既婚、相手構わず来る者拒まずの遊び人として有名な男である。


 そんなトーマスが10代の娘にとって、魅力的な伴侶候補に映るはずもない。


「悪い話じゃない。考えておいておくれ、エレノア」


「……」


 しかし。


 平民であり、雇われている身でもある私に、選択権などあろうはずがない。

 

 曖昧な笑顔でかわしていていても、回りはドンドン固められていく。


「いいお話じゃないか、エレノア」


「そうよ、エレノア。大きな商会の奥さまになるのよ? 断る理由がないわ」


「ああ、母さんの言う通りだ。そりゃね。『妾に』と、言われたのだったら、父さんだって断るよ? でも、息子の嫁に、という話なんだ。良い話じゃないか。断る必要はないさ」


「父さんも、こう言っているし。アナタも前向きに考えてみたら?」


「……」


 父と母は、突然持ち上がった商会の跡取り息子との縁談に大乗り気だった。


 私は長女。


 下には三人の弟と四人の妹がいる。


 娘が大きな商会の嫁になれば、弟や妹の仕事や結婚が有利になるし、援助も期待できるだろう。


 両親が、そう思ったのも無理はない。


 だけど、私は、その『商会の跡取り息子』が、どんな人物なのかを知っている。


 正直、乗り気ではなかった。


「まだ結婚には若すぎて早いので……」


 曖昧な返事で断り続けていたが、それも限界がある。 


 私は18歳になるのと同時に、ミストラル家の嫁として迎え入れられる事になった。


「結婚式はしないの?」


「結納金はないのか?」


 母と父の言葉に、私は首を縦に振るしかなかった。


 結婚は手続きだけで終わった。


 私がウエディングドレスを着ることはなかったし、実家に贈り物が届くこともない。

 

 こうなる事は、大旦那の性格を知っている私にとっては予想の範囲だった。


 結婚しても仕事は続けるのだし、私の生活はたいして変わらない。


 そう思っていた事は、私の甘さだった。


 荷物など無いに等しい引っ越しは簡単に終わった。


 そして、私には屋敷内に部屋が与えられる。


 だが、そこはいわゆる奥さま部屋ではなく、使用人が使うような部屋であった。


 結婚は私の名前がエレノア・ミストラルになり、実家からの通いが屋敷内の使用人部屋への住み込みに変わっただけで終わる。


 そう思ったが、それすら甘かった。


 結婚を機に、実家へは私の僅かな給料が入る事すらなくなった。

 

 しかもミストラル家の屋敷に、私の家族が訪問することも禁じられたのだ。


 納得できない条件であったとしても我が家は平民。


 男爵家と交渉することなど出来なかった。

 

「約束通り、お前が今日からミストラル男爵だ」


「ありがとう、父上。オレ、頑張るよ」


 トーマスはハンサムな顔に上機嫌な笑顔を浮かべた。


「エレノア。お前はミストラル家の者として恥ずかしくない働きをするように」


「はい……大旦那さま……」


 上機嫌な二人を部屋に残し、私は一人、夏暑く冬は寒い小さな部屋へと下がった。


 私は平民出身であるし、舅である前男爵にも、夫となった現男爵にも、物が言えるような立場ではない。


 ミストラル男爵である夫にとっても、納得のいく結婚ではなかった。


 引き換えに得る物が有った者と無かった者、その違いはあるけれど。


 彼らにとっては、些細な問題なのであろう。


 部屋に下がった私は小さなベッドの上で一人、泣いた。

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