第一章:廃夢(4)

 幻夢境にも、『月』があった。

 それは現実の月を模して作られたまがい物ではあるにせよ、大きさは現実の月と全く同じで、現実の地球と同じだけの距離を隔てた場所に浮かんでいた。

 違うのは、月にも住人がいることだ。

 その住人は、かつて幻夢境に生息していたレンと言う亜人種を隷属させ、月に広大な都市を築いていた。

 幻夢境が灰と化したとき、月の都もまた灰燼かいじんしたが、そこにいた住人の僅かに少数は、辛うじて生き残った。

 覚醒の世界に顕現することの出来ない彼らは常に飢え、悪夢という回廊を開いた屍食鬼グールに鋭敏に反応して狩り喰らうのだという。

 飢餓により理性を失った、狂える民。

 その名を、『月獣ムーンビースト』という。





「おかえりなさい、マリィ」

「…………」


 変身も解かず、多量の返り血を浴びたまま、マリィは廃夢はいむへと帰還した。

 ノードレッドの挨拶にも無言のまま、憔悴しょうすいしきった表情で玄関口に立ちすくむ。

 しばしの沈黙のあと、彼女の口からポツリと言葉がこぼれた。


「……何も分かってなかった……ミキのこと、何も……」

「……はい」

「……それなのに、救ってあげたいなんて……勝手なこと言って……何も、何も出来なかった……」

「……はい」

「……怖かったって……苦しかったって言ってたのに……最後にあんな……あんな目に遭わせてまで、アタシは…………!!」


 光を失った目に、小さな灯が宿る。

 それは慚愧ざんきか、それとも義憤か。

 小刻みに震える彼女の右肩に、ノードレッドはそっと手を添える。


「それでも……頑張りましたね」


 それが、限界だった。


「うぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」


 一度は封じ込めた感情が、マリィの中で爆発する。

 覚悟はしていた、はずだった。

 悪夢を再訪する前、ノードレッドから警告されていた。

 屍食鬼を餌とする怪物がいる。

 彼らは飢えを満たすため、どんな些細な匂いも嗅ぎつけ、必ずやってくる。

 一度捉えられたら二度と逃げることはあたわず、醜悪なる異形に恐怖と狂気を植え付けられながら、残虐に貪り食われることになる。

 だから、彼らが来る前に決着をつけねばならない。

 救うにせよ、殺すにせよ。

 ミキが廃夢への誘いを断ったときは、彼女を殺すつもりでいた。異常な回復力をもつ屍食鬼でも、首をはねれば殺すことは出来るとノードレッドは言っていた。

 だが、出来なかった。躊躇ってしまった。

 怪物的な屍食鬼の姿だったからこそ、四肢を断つ判断が出来た。だがあのとき、血を流し、ひととき少女のかたちを取り戻したミキの首を落とす決断を、マリィには出来なかった。

 出来なかったのだ。

 安住の地に救うことも。

 安楽の内に殺すことも。

 泣き崩れるマリィに、虚空から現れたニッグが寄り添った。

 マリィをニッグに任せ、ノードレッドは居城の扉を開く。

 出口を得た清浄な空気が灰を巻き上げ、哀れな少女を覆い隠した。





 しばらくして落ち着いたあと、変身を解いたマリィは再び応接間に通された。座るよう促されたが、何となくそんな気になれず、壁に寄りかかってノードレッドと向かい合う。

 ミキとの対峙は、ノードレッドも廃夢から見ていたらしい。どういう原理かは分からないが、それも蕃神ばんしんとしての能力の一つだという。

 月獣は、今回のように悪夢を生み出した屍食鬼を見つけ次第、廃夢の月より這い出て捕食しているのだという。何体が生き残っているのかは分からないが、どの個体も常に飢えており、餌とあれば容赦はしないのだと。

 これまでも、銀鍵ぎんけん派によって屍食鬼となったものたちがことごとく餌食になっている。そう言って、ノードレッドは真剣な表情をした。


「マリィがここに流れ着いたのは、偶然ではなく運命だと思っています。私は、ここで覚醒の世界の様子は見れますが、ここから動くことは出来ません」

「現実には干渉出来ないってこと?」

「そうです。詳細は省きますが、今ここにいる私も本体ではないのです」


 幻夢境が滅ぼされた際、彼は自らの体を礎として『ついのカダス』を築き上げたらしい。そのため、彼の本体は今は廃夢の地下深くに封印されているという。


「銀鍵派は屍食鬼を増やすため、『悪夢の種』をばらまいています」

「『ヒロ君』ってやつが、ミキに渡した……」

「そうです。その名の通り、植物の種のような外見をしています。これを経口接種することで、人間は『悪夢の主』となり、屍食鬼と化すのです」


 ミキの顔が、頭によぎる。

 クールな顔で快活に笑っていた彼女が、爛れた顔で狂気に嗤う。

 いかに彼女が歪んだ感情に支配されていたとしても、アレは人間が変貌していいものではない。


「……なんで、銀鍵派はそんなことを」

「彼らの目的は、全ての人間を滅ぼすことです」

「全ての人間を、滅ぼす……?」


 途方もない目的が開示され、マリィは戸惑う。

 しかし、ノードレッドは至極真面目な表情で続けた。


「悪夢の主に選ばれる者は、ほとんどの場合は別の誰か、特定の集団、あるいは世界そのものに対して何らかの負の感情を抱いています。そういった者たちは、屍食鬼になると自我を失い、対象を悪夢に引きずり込んで殺し始めます」

「でも、ミキは自我が……」

「塞門ミキは、平気で殺人を犯すような性格でしたか?」

「……!!」


 呈した疑問を即座に打ち返され、マリィは言葉を失った。


「理性のたがが外れる、と言い換えても良いかもしれません。屍食鬼と化すと、人のことわりから外れ、罪の意識が曖昧になるのです」


 原因不明の集団失踪、犯人不明の連続殺人。そういったものの大半に、屍食鬼が関与しているとノードレッドは言う。

 そして、それを行った屍食鬼は悪夢から出るすべもなく、月獣によって食い殺される。

 覚醒の世界が、誰も知らぬ間に悪夢に侵されていく。

 他ならぬ、人の手によって。


「私は、銀鍵派の目論見もくろみを止めたい。そのために、協力者が欲しいのです」

「……そっか」


 ミキの件は、試金石でもあったのだ。彼女が協力者に値するか否かの。

 そして、結果はどうあれ、マリィは力を手にした。

 屍食鬼に対抗しうる、旧き神性の力を。

 再び、ミキの顔が思い浮かんだ。

 月獣に喰われる間際の、彼女の恐怖に歪んだ顔が。

 マリィは知ってしまった。

 この世界に侵食する、おぞましい悪夢の存在を。種をき、悪夢をはらませる組織の存在を。

 そして、悪夢に囚われ、人知れず怪物に喰われる哀しい屍食鬼の存在を。


「……アタシは、これ以上ミキと同じ運命を見たくない」


 静かな、決意の言葉。


「だから、やるよ。ノードレッド、あんたに協力する」


 マリィはそう言って姿勢を正すと、右手を彼に差し出した。ノードレッドは安堵したように微笑み、その手を取る。

 見守っていたニッグが「ニアー」と鳴き、歓迎の意を示した。


「さて、早速ですが、いくつか話しておくことがあります」


 ノードレッドは手を離すと、再びマリィに着座を促す。今度は素直に従って席に着く彼女の対面に座し、彼は両手を虚空にかざした。

 空中にいくつかの映像が現れ、マリィの前に並べられる。「こんなのが出来るなら紙要らなかったんじゃないの」とこぼすマリィに「雰囲気も大事ですから」と愛想笑いを浮かべつつ、ノードレッドは説明を始めた。


「まず、マリィにお渡ししたペンダントですが、これは悪夢だけでなく、覚醒の世界でも活動出来る体を提供します」

「現実にも行けるってこと?」

「そうです。当然、そちらでは死んでいることになっているので、行動は慎重にする必要がありますが」


 銀鍵派を追うためには、覚醒の世界で動き回れる方が都合が良いということだった。

 基本的には、屍食鬼になってからでは手遅れだ。人間に戻すすべはなく、廃夢でノードレッドの庇護の元おとなしく過ごすか、月獣に喰われるしか道がない。

 ただ、銀鍵派も基本は普通の人間であり、社会に溶け込んでいるため特定が難しい。今回のように一人に絞れるケースは珍しいという。


「ミキの言ってた『ヒロ君』ってやつは、結局どうするの」

「恐らくはもう名も顔も変えているでしょう。そちらは再び追うことにしますが、それとは別に、マリィにはやっていただきたいことがあります」

「やっていただきたいこと?」

「『星の智慧ちえ派』の捜索です」


 映像が流れ、屍食鬼とも月獣とも違う奇妙な怪物が現れる。同時に、聖職者めいた服装の男女が映し出され、その下に『星の智慧派』の文字が流れた。


「『星の智慧派』……」

「百年以上の歴史を持つ、とある宗教団体です。銀鍵派とは別の『悪夢の種』を持っています」

「別の?」

「はい。彼らの持つ『悪夢の種』は、そのペンダントと同じ効果を持っています。飲み込むことで、屍食鬼ではなく、旧き神性の力を得るのです。ただし、マリィのように人の形を保てる保証はありませんが」

「……結局、怪物になるってこと」

「そういうことです」


 頭の痛い話だった。銀鍵派だけでも面倒なのに、同じような組織が他にもあるとは。


「『星の智慧派』は、かつてこの星を支配していた蕃神、いわゆる旧支配者の復活を目的としています。選ばれた人類以外を殲滅せんめつするために」

「やることは銀鍵派とほとんど一緒なんだ」


 選民思想があるところなどは、銀鍵派よりも宗教団体らしい。

 かつてこの星を支配していた蕃神の復活、と言うのも気になったが、マリィは敢えて無視した。他の宗教とは違い、額面通りなのだろう。ろくでもないことが起こるに違いない。

 手分けして二つの組織を追うのが当面の仕事になるのだろうか、と思っていたが、ノードレッドの意図は少し違った。


「銀鍵派と違い、彼らの持つ『種』は神性ゆえに、同じ神性の私には動きの把握が容易です。一つは既に特定し、少なくとも三つが日本国内にあります。マリィには平行してこれらの『種』を回収して欲しいのです」

「回収って、持ってる人から奪えってこと?」

「有り体に言えば、そうなります」


 どっちにしろ荒事になるのか、とげんなりしたマリィだったが、屍食鬼を相手にするよりは気楽だと思うことにした。

 現時点では『ヒロ君』の行方も含め銀鍵派の情報は無いため、マリィの最初の目標は特定されている星の智慧派の『種』の回収だ。


「とはいえ、マリィに今必要なのは休息です。この屋敷の部屋は自由に使っていただいて構いません。今日はゆっくり休んでください」

「うん……そうさせてもらう。最初の部屋を借りるよ」


 ノードレッドの気遣いに感謝して、マリィは応接間を後にした。

 階段を上がり、最初に目覚めた部屋に戻る。

 いつの間にかきれいに整えられたベッドに座り、そのままごろりと横になった。

 目を閉じるとミキのことを思い出しそうで怖かったが、どこからともなくやってきて添い寝しようとするニッグを撫でてやっている内に、ゆっくり微睡まどろみへと沈んでいった。



 悪夢ゆめは、見なかった。

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