第一章:廃夢(3)

 血や死を連想させるものが怖かった。

 小さい頃、とある事件に巻き込まれて、父を亡くした。

 事件のこと自体はもう朧気にも覚えてないけど、しばらくはショックで口もきけなくなるほどの酷い有様だったらしい。

 それ以来、血を見たり、死を間近に感じたりすることに忌避感を抱くようになった。

 猫が車にかれて死んでいるのを見かけて、その場に倒れ込んだこともある。

 そんなアタシを救ってくれたのは、意外にも名前に「死」を冠するデスメタルだった。

 そして、そんな音楽を紹介してくれたのが、高校生になったばかりのアタシを軽音楽部に勧誘してくれた、一学年上の塞門さいもんミキだった。


「ウチのバンド、ちょっと特殊でさ。でも、聴いて損はさせないから!」


 初めて聴いた暴力的なまでの音の洪水は驚愕であったとともに、頭の中のわだかまりを洗い流してくれる感じがした。

 メロディをかなぐり捨てたような絶叫が、剥き出しの心の声が、不安や恐怖を薙ぎ払ってくれる気がしたんだ。


「別に『死』を歌うだけがデスメタルじゃないから。日常のちょっとした苦痛とか、苦悩とか、そういうのを音に乗せてぶっ飛ばしてやろうってのが、私たちの音楽なんだ」


 ミキはそう言って笑った。

 そのあとすぐ、体調を崩して離脱したヴォーカリストの代わりに、アタシはバンドに入ることに決めた。

 声質が少し低めのアタシには、グロウルのスタイルが良く合っていた。不安や恐怖を織り交ぜた詞に感情を乗せて叫び、頭の中の苦悶をぶちまけるのがたまらなく心地よかった。

 アタシ以外は既にある程度キャリアを積んだメンバーだったから、アタシが加入して半年もたたないうちに小さなライブハウスでもライブをやるようになった。メンバー全員が女子のデスメタルバンドって言う物珍しさもあって、人気は徐々に上がっていった。

 一年がたつ頃には、固定のファンもかなりつくようになっていた。

 今思えば、この頃にはもう、ミキは狂い始めていたのかもしれない。


「明らかマリィ狙いのファンが増えたよなー。別に良いんだけどさ」

「そんなことないと思うけど……ヒカリとかコール凄いし」


 耳聡みみざといギタリストのヒカリがこっちにウィンクを飛ばしてくるのを軽くあしらった横で、ミキが一瞬眉根を寄せたのは、多分見間違いじゃなかったのだろう。

 その後も、バンドは表面上うまくいっていた。

 そこから更に半年。

 アタシが襲われた日、ミキはバンドの定期練習に顔を出さなかった。





 再訪した『悪夢』は、屍臭で満ちていた。

 見知った街の建造物は破壊され、蹂躙され、瓦礫と粉塵が無造作にばらまかれている。

 奇妙な色合いの風景の中、動くものは一つもなかった。

 マリィにとって幸いだったのは、壊されているものは建物だけで、彼女以外に悪夢に巻き込まれた人や動物はいないことだ。

 ならば、この屍臭はいったい誰のものか。

 その答えは、廃墟と化した街の中央部にあった。


「……アレが、ミキなの……?」


 積み上げられた瓦礫の上に、屍食鬼かいぶつが座っていた。

 もともと倍近かった体躯は、更に膨れ上がっている。特に両腕は丸太のように太く、鉤爪を備えた手は大型の肉食獣を連想させた。

 全身の皮膚が真っ赤にただれ、肩や背中から骨とも角とも言えない突起が生えている。金色の髪が失われた頭部は変形し、まさに鬼のごとき角を有していた。

 近づきにつれ、臭気が濃くなっていく。

 そしてついに、爛れた怪物の爛々らんらんと輝く深紅の瞳が、マリィを捉えた。


「……どうして生きてるの、マリィ」


 地を這うようなおぞましい声が、屍食鬼と化したミキの口から漏れた。

 もはや、少女の声すらも失われている。


「さぁ、どうしてかな」


 なるべく平静を装って、マリィはミキと相対した。見上げる位置にいるミキを黒い太陽が照らしており、逆光で表情は見えない。

 ただ鈍く光る瞳だけが、明確な殺意をマリィに向けていた。


「悪夢が終わらないの」


 そう言って、ミキはマリィを指さす。


「きっとアナタがまだ生きてるからね。アナタを殺さないと、悪夢から覚めないんだ」

「……違うんだよ、ミキ」


 苦しげに、彼女の言葉を否定した。


「これはただの夢じゃないんだ。ミキが生んだ、『悪夢』って名前のもう一つの世界なんだよ。だから、もう二度と覚めないんだ」

「夢の中でも卑怯な嘘をつくのね、マリィ。そんなに私を苦しめて、楽しい?」

「そんなわけない! アタシはミキを救いたくて――」

「救う? それなら、早く死んでよ。そうしたら、悪夢は終わるんだから!」


 激昂とともに、ミキは瓦礫を蹴りつけてマリィに向けて飛びかかった。

 迫り来る巨体を哀しげに見つめながら、マリィは首から提げたペンダントを右手で掴み、握りしめる。

 バチン、と音を響かせて蓋が閉まり、彼女の体がペンダントから吹き出した霧に包まれた。同時に、爛れた怪物が彼女を押し潰すように覆い被さる。

 地響きを立て、ミキの巨躯が大地に穴を穿った。土煙が舞い上がるが、そこに期待した成果がないと知ると、彼女は辺りを見渡す。

 瞬間、強い光の柱が先ほどまでミキのいた瓦礫の上に立ち上った。

 まばゆさに目を細める中、分解していく光の中に徐々にシルエットが浮かび上がる。

 黒い甲冑と深紅のドレスを組み合わせたような可憐な衣装。身長よりも高い柄を持つ巨大な大鎌。燃えるように真っ赤な髪を揺らしながら光を切り裂き、ふるき神性をまとった愛創マリィは顕現けんげんした。

 舞うように瓦礫の山から降り立つマリィを見て、ミキは鼻を鳴らした。


「なにそれ。コスプレの趣味なんかあったの?」

「アタシも正直、この格好はどうかと思うよ」


 ノードレッドから話を聞いてすぐに試したときもマリィは物申したが、力のもととなる神性の意向を大きく反映するらしく、変更は利かないらしい。

 ただし、その力は本物だった。


「……でも、これで!」

「!?」


 マリィの体が一気に距離を縮め、ミキは咄嗟とっさに両腕で防御姿勢をとる。

 突進の勢いで突き出された大鎌の峰が両腕を強打し、巨体は後方に吹き飛んだ。

 辛うじて体勢を崩さぬまま両足から着地するミキを、マリィはじっと見据えて言った。


「ミキと、対等に話が出来る」

「ふざけないで。話すことなんてない」


 吐き捨てるように言うと、ミキは地面を踏みしめた。

 両脚が膨張し、弾丸のごとく跳躍した巨躯がマリィに襲いかかる。

 直前で回避し、振り下ろした大鎌を丸太のような腕が弾きかえす。

 視線が交差し、繰り出される拳の嵐と大鎌の乱舞が火花を散らす。

 途切れない暴力の中、マリィはなんとか声を絞り出した。


「話を聞いて、ミキ!」

五月蠅うるさい、話すことなんてないって言ってるでしょ」


 素気すげなく切り捨て、ミキは更に攻勢を強める。


「早く目覚めて、ヒロ君に慰めてもらうんだから。こんな醜い姿になる悪夢なんて、早く終わらせたいの。分かるでしょ?」

「だから――!!」


 マリィの懇願にも似た叫びを、冷たい声が握りつぶした。


「だから、早く死んで」


 限界まで引き絞られた筋肉から放たれる強打を、マリィは辛うじて大鎌の柄で受け止める。柄を握る手にも相応の衝撃が走り、落雷に打たれたような激痛が走った。

 こんなのを受け続けたら、すぐに保たなくなる。

 一撃一撃に致死の威力が乗る打撃をなんとかいなしながら、マリィは苦み走った表情を塗りつぶして覚悟を決めた。 

 ギリギリまで引きつけて躱した右腕に向けて、大鎌を引き寄せる。

 抵抗感はわずかだった。


「ガアアアアアアアアァァァァッッッッ!!」


 獣のごとき咆吼が、血しぶきとともに撒き散らされる。ゴトンと音を立てて落ちた爛れた腕が、痙攣しながら血の海を広げた。

 むせかえる返り血の臭いに吐き気を堪えながら、マリィは地面に膝を折ったミキの前に立つ。歯を食いしばり、失われた右腕の断面から血が噴き出すのを押さえながら、ミキはうめいた。


「ムカつく! ムカつく!! ムカつく!!!! おとなしく殺されなさいよ、マリィ!!」


 殺意剥き出しの視線を、正面から受け止める。

 もう、幾ばくも猶予はない。ノードレッドから事前に忠告された制限時間が迫っている。

 訊きたいことがたくさんあったが、マリィは最も気になる短い質問にとどめた。


「……ヒロ君って、誰?」


 最初にミキに殺されたとき、彼女は「ヒロ君を取られる」と言っていた。恐らくそれがミキの動機の一つだが、マリィには当該人物に心当たりがなかった。

 その名を耳にした途端、ミキは殺意とは別の強い感情を秘めたうなり声を上げた。


「私のことを認めてくれた人……私の、真の理解者」


 そう言う彼女の顔には、ひととき少女の面影が戻った気がした。

 しかし、すぐに別の感情が彼女を怪物へと引き戻す。


「それなのに、彼はアナタにも興味があるなんて言って……! 私だけを! 私だけを見て欲しいのに!!」


 恍惚、嫉妬、憤怒。

 渦巻く感情の中で醸成されたもの。それが、彼女の感じていた不安と恐怖の正体。

 再び苦い顔をするマリィだったが、さらなる衝撃が彼女の耳朶を打った。


「そう言ったら、ヒロ君がくれたの……思い通りの悪夢を見る薬を」

「え……!?」


 思わぬ情報に、耳を疑う。

 ノードレッドが追っていたという『銀鍵派ぎんけんは』。その一員が、まさにミキをたぶらかせていた?


「悪夢の中で起こったことは、現実にも影響するってヒロ君は言ってた。だから、きっと目が覚めたら、アナタのいない世界があるの」

「待って、ミキ!」


 制止するマリィの声も届かず、ミキはゆらりと立ちあがる。

 血を垂れ流していた右腕が、ずるりと音を立てて再生した。


「もういいでしょ? アナタが死ねば全部解決するんだから。早く死んでよ。早く、早く、早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く!!」


 ミキの全身が、更に膨隆していく。爛れた皮膚があちこちで破れ、覗く筋組織がはち切れんばかりに蠢動しゅんどうしている。

 これ以上はもう、会話にならない。

 せめて、動きを止めなければ。


「ヴァアアアアアアアアアアアァァァァッッッッ!!」


 出鱈目でたらめな絶叫を引き連れて、死の怪物が迫る。

 轢かれれば即死の吶喊とっかんを、マリィは正面に見据えた。

 大鎌を眼前に構え、叫ぶ。


「狂える星辰せいしん、闇夜におうせ!」


 同時に、マリィの体が五体に分身した。

 それぞれがすべらかに宙を舞い、狂乱の屍食鬼に牙を剥く。

 右腕、左腕、右脚、左脚。

 四肢を切り落とし、最後に残った大鎌が、背骨を貫いて胸部に突き立つ。

 全身から血を吹き出し、それでも死ねない哀れな怪物は、この世のものとは思えない悍ましい叫喚きょうかんをあげた。血だまりが広がるにつれ、屍食鬼の体は少しずつしおれていく。

 やがておよそ人間に近い体躯まで縮んだとき、爛れた顔は僅かにミキの輪郭を取り戻した。


「どうして……どうして死んでくれないの……」


 大鎌に貫かれたまま、ミキはごぽりと耳障りな音を立てて哀願するように呟く。

 マリィは自ら握る刃の先で変わり果てた彼女の姿から目を反らしたくなるのを必死で堪え、苦悶の表情で応えた。


「アタシは、ミキに救われて欲しいんだ。アタシが死んでも、ミキはこの『悪夢』から出られない。それどころか、もっと恐ろしい目に遭うんだよ」

「……今、アナタに遭わされているよりも……?」

「ッ……! そうだよ……だから、選んで。アタシと一緒に来て現実を諦めるか、それともここで――」

「私を殺す?」


 躊躇ためらった言葉を事もなげに補うミキに、マリィは胸を締め付けられる。

 現実を諦め、幻夢境に来れば辛うじて屍食鬼として生きてはいられる。だが、屍食鬼と化した動機が現実にいる以上、彼女がそれを選択するとは思えなかった。

 だからそれは、当たり前の言葉だった。


「殺しなさいよ……恨んでるでしょ? どうせ戻れないなら……生きてる意味なんてないもの……」


 そう言って、ミキはだらりと項垂うなだれる。

 ついに目を伏せ、マリィは震える声でこぼした。


「こんな結末しかなかったの……? そんなに邪魔なら、アタシなんてバンドから追い出してくれたら良かったのに……!」


 後戻りの出来ない悔しさと、ほんの少しの憤りを乗せた彼女の言葉を、力なく顔を上げたミキは弱々しく、しかしはっきりと否定した。


「アナタには分からない……後から来たアナタに人気を取られる恐怖……それを追い出しても、人気が回復する保証もない……大事な人もついて行って……返ってこないかもしれない……怖かった……苦しかった……ずっと、ずっと……!!」


 あぁ、知らなかった。

 彼女がそんなにも恐怖し苦しんでいることを。

 いや、そうじゃない。知ろうともしなかったんだ。

 半年前に感じていたはずの小さな違和感を、マリィはそのままにした。それが今、致命的なズレを生んでしまっている。

 そしてもう、戻らない。


「ミキ、アタシ――」


 続きに、なんて言えば良かったのだろう。

 その機会は、永遠に失われてしまった。


「……ヒッ!?」


 引きった悲鳴が、か細く響く。

 マリィを見るミキの表情が、敵意と殺意しか刻んでこなかった爛れた顔が、明らかな恐怖に染まっていた。鈍く光る瞳は小刻みに震え、焦点を掴み損ねている。

 どうしたの、と口にする間もなく、ミキが発狂した。


「イヤァァァァッッッッ!? 化け物ォォォォッッッッ!!」

「!?」


 突然のことに動揺するマリィの前で、ミキの両腕が急速に再生されて自らを大鎌から引き抜いた。

 自由落下で地面に叩きつけられながらも、再生の追いつかない足をばたつかせてその場から逃げようとする。

 飛び出さんばかりに見開いた目でこちらを見ながら後ずさるミキに手を伸ばそうとして、マリィは頭上から伸びる巨大な影に気づいた。

 振り仰ぎ見て、その異形に愕然とする。


「……なに、これ……」


 それは、巨大な蜥蜴とかげか蛙のような形をしていた。

 二十メートルはあろうかという巨体を宙に浮かせ、黒ずんだ皮膚に銀を散りばめたような躯体をゆっくりとのた打つようにうごめかせている。

 異様に伸びた四肢は本来の役割を忘れたようにバラバラに動き、まるで何かを探っているように見える。

 太く節くれた首の先にあるはずの頭はなく、代わりに無数の触手が生えている。触手は様々な長さを取り、こちらも周囲を探るようにせわしなく蠢いている。

 そして、触手の群れの根元には、ガチガチと歯を鳴らす巨大な口が開いていた。

 汚らしく垂れた唾液が、悪夢に満ちる屍臭よりも強い腐臭をあたりに放つ。流れ落ちた唾液は酸のごとく地面を穿ち、立ち上る粉塵が地獄めいた風景をつくりあげた。

 屍食鬼と化したミキがかわいらしく見えるほどの、正真正銘の化け物。

 いとわしく這い回る触手が、ついにミキを捉えた。

 ようやく再生した両脚で逃げる暇も与えられず、ミキは触手に絡め取られ、空高く放り投げられる。狂ったように手足をばたつかせて悲鳴を上げる彼女に向けて、化け物の口腔こうくうが狙いを定めた。


「イヤッ!! イヤァァァァッッッッ!! 助けて!! 助けてマリィ――――」

「やめ――――!!」


 ミキの懇願と、マリィの制止を、ブツリという咀嚼そしゃく音が断ち切った。

 胸から上が、次いで全身が、異形の腹に収まる。

 呆然と立ち尽くすマリィには一顧たりともせず、化け物はそのまま虚空へと消えていった。

 主のいなくなった悪夢を、静寂が支配する。

 ノードレッドが警告していた、残酷な時間切れ。

 選択を許されぬ喪失に、マリィは膝をつく。


「アァ――――――――!!」


 絶望に途切れた声が、静寂とともに悪夢を打ち破った。 

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