第一章:廃夢(1)

 目覚めたのは、柔らかなベッドの上だった。


 びっしりとかいた冷や汗に奪われた体温を少しでも取り戻すように、体を震わせる。

 視界が定まってくるにつれ、マリィは安堵と違和感のぜになった感情を抱いた。

 上体を起こし、周囲を見渡す。

 やはり、自分の部屋ではない。

 落ち着いた色調の室内は、自分が寝ていたベッドと小さなテーブル、椅子、アンティーク調の卓上ランプ以外に調度品がない。八畳程度の広さだが、そのせいか酷く殺風景に感じる。

 床に足を下ろすと、ひやりとした木の床の感覚が足裏に伝わった。見下ろすと、着衣は普段着のTシャツとデニムパンツだが、足は素足らしい。

 左右に差のない足を確認してから、恐る恐る左肩に右手を当てた。布越しに鎖骨から肩甲骨のなめらかな接続を感じ、次いで左腕が上がることを確認する。

 傷はない。

 四肢の無事は喜ぶべきことだが、依然として不安は解消されない。


 ここは、どこ?


 マリィはゆっくり立ち上がると、室内を再度確認した。

 長方形の室内。ベッドは長辺の一方に置かれており、反対側にはさっき見た家具一式。ベッドから見て左手には木製のドア、右手に恐らく窓がある。恐らく、というのは、分厚いカーテンが垂れ下がっていて窓自体を確認できないからだ。

 音を立てないように歩き、カーテンの前に立つ。そっと開くと、やはりそこには窓があった。思い切ってカーテンを開ききり、窓の外を眺める。


「……なに、これ」


 外には、一面の灰が広がっていた。

 見える範囲内に、構造物は何もない。ただ、荒涼たる砂漠のごとく灰が降り積もっているだけだ。

 これはまだ夢の続き? それとも、ここが死後の世界?

 不意にドアがノックされ、マリィはびくりと振り返った。自分の家ではない以上、第三者が存在するのに不思議はないが、どうしても先ほどの記憶がよぎってしまう。

 もし、ドアの向こうにいるのが、ミキの姿をした怪物だったら。

 身構える合間にもう一度、今度はゆっくりとしたノックがあった。息を潜め、窓の外をチラリと見る。今いる部屋の高さは分からないが、最悪、窓から飛び降りる覚悟をしなければならない。

 だが、聞こえてきたのは穏やかな男性の声だった。


「もう起きていますか、マリィ」


 少なくとも知り合いの声ではない。しかし、声の主は自分の名前を知っている。

 マリィは最大限警戒しながらも、ドアの方へと足を進めた。途中、右手で卓上ランプを掴み、簡易の武器とする。

 離れていく足音がないことを確認しつつ、そっと左手で内開きのドアを開く。


「あぁ、良かった。目覚めましたね」


 そこにいたのは、黒いスリーピーススーツを着込んだ長身の男性だった。ドアから一歩引いた場所で穏やかな笑みを浮かべている。

 若干虚を突かれながらも警戒心を緩めないマリィの様子に、男性は笑顔を崩さぬまま更に半歩後ろに下がった。


「色々と混乱されているでしょう。階下の広間にいますから、落ち着いたら来てください」

「……分かった」


 なんとかそれだけ返事をすると、マリィはドアを閉めた。足音が遠ざかっていくのを聞いて、ふぅっと長い吐息をつく。

 敵意があるようには見えなかったが、得体がしれないことには変わりない。

 テーブルにランプを戻すと、もう一度深呼吸した。汗まみれの服は着替えたかったが、この部屋には着替えはおろか、それを収納するような家具もない。

 覚悟を決め、マリィは部屋を出た。

 廊下は室内とは違い、青を基調とした毛氈もうせんのようなものが敷かれていた。滑らかな感触が素足に心地よい。いくつか他にも部屋があるようだったが、人の気配はなく、しんと静まりかえっていた。

 角を折れてしばらく歩くと、映画でしか見たことのないような大階段が目に飛び込んできた。階下には広い空間があり、そこに先ほどの男性が立っている。

 拳を握りしめ、マリィは階段を降りた。毛氈に吸収されて足音はほとんどしないはずだが、男性は気づいた様子でこちらを振り仰ぐ。


「具合は大丈夫ですか」

「……うん」


 広間に降りると、男性は軽く頭を下げた。

 間近で見ると、奇妙な印象を抱かせる男性だった。やや彫りの深い顔立ちは青年のように見えるが、後ろ手に編み込まれた銀髪のせいで壮年か、あるいは老人のようにすら見える。立ち居振る舞いの落ち着き方も、そう見せる一因かもしれない。


「聞きたいことは多いでしょうけれど、まずは自己紹介をさせてください。私の名はノードレッド。この館の主です」

「愛創マリィです。……もう知ってるみたいだけど」


 軽く牽制するつもりで付け加えると、ノードレッドと名乗った男性は苦笑のような表情を浮かべた。


「えぇ、知っています。それも合わせて説明させて欲しいのですが、その前にもう一人の住人も紹介させてください」


 そう言うと、ノードレッドは軽く手を叩く。

 パン、と乾いた音がしたと同時、マリィの足下にふわっと黒い塊が姿を現した。驚いて思わず足を引っ込める彼女の前で、塊はぐっと伸び上がる。

 よく見ると、それは黒猫だった。碧い右目と金の左目を皿のようにしてマリィを見上げると、「ニアー」と間延びした声を上げてから彼女の足に頭を擦り付ける。

 身をかがめておずおずとその頭を撫でると、黒猫は満足したようにもう一度鳴き、現れたときと同じようにふわっと空中に溶けるように消えた。


「私の古い友人、ニッグです。是非、彼女とも仲良くしてあげてください」


 一連の流れるような出来事に驚くことも忘れ、マリィはこくりと頷く。

 ノードレッドは穏やかに微笑むと、彼女を促すようにして歩き始めた。

 階段の正面には、玄関とおぼしき一際大きな扉がある。ノードレッドはそちらに向けて歩を進めながら、落ち着いた声で話し始めた。


「結論から言いますと、あなたは塞門さいもんミキに殺されました」

「……そっか」


 軽く嘆息してからポツリと漏らすマリィに、ノードレッドはわずかに意外そうな表情をする。


「もう少し驚かれると思いましたが」

「夢で片付けるには、現実感が強すぎたってだけだよ」


 爛れた少女の悍ましい顔が、潰れた肺から零れた血の味が、壊れた左肩と右足の激痛が、今も脳裏に焼き付いている。

 夢だったら、どれだけ良かっただろう。

 苦み走ったマリィの横顔を一瞥して、ノードレッドは続ける。


「ですが、あながち『夢』でないとは言えません。ただし、それはあなたの『夢』ではありませんが」

「……どういう意味?」

「あなたを殺したのは、塞門ミキの『悪夢』です。正確には、塞門ミキが構築した『悪夢』の中で、屍食鬼グールと化した塞門ミキが、あなたを殺した」

「屍食鬼……?」

「『悪夢』と現実を重ね合わせ、自由に往来できる怪物……今はそう理解してください」


 彼の説明は今ひとつピンとこないものだったが、マリィはひとまず飲み込んだ。

 どういう理屈かは分からないが、ミキは怪物になり、自分を殺した。

 それだけで十分だった。


「『悪夢』の中で殺されたあなたは、そのまま現実にも死体という結果で残ります。ですが、あなたの精神だけはここに漂着しました」


 ノードレッドは大きな玄関扉の前で足を止め、両開きのそれをゆっくりと押し開く。

 ひやりとした風が吹き込み、マリィは身震いした。

 乾いた灰の匂いが鼻腔を刺激し、息が詰まりそうになる。

 ノードレッドに続くように開かれた扉の外へ歩み出たマリィは、現れた景色に息をのんだ。


「……なに、ここは……」


 マリィがいたのは、断崖の上に建てられていた洋館だった。玄関扉を開けてほんの数メートル先は、目もくらむ絶壁になっている。

 そして眼下には――破壊され、蹂躙され、降り積もる灰の中に沈められた、世界。


 「『深淵の廃夢アビサル・ハイム』。かつて『幻夢境げんむきょう』と呼ばれ、神々の住まう壮麗な都市であった、その成れ果て」


 無残に折れた尖塔、崩落したドーム、薙ぎ払われた家々、そして、大地に穿たれた無数のクレーター。

 灰に覆い隠されているものの、そこから覗く破壊の痕跡は、今なお生々しかった。

 そんな中で、ノードレッドの住まう屋敷だけが、白亜の輝きを保っている。

 いつの間にか再び現れていた黒猫・ニッグが、玄関扉の前に前足を揃えて座っていた。

 マリィに向けて、歓迎を示すように「ニアー」と鳴く。

 ノードレッドは軽く笑むと、マリィに向けて言った。


「我々はあなたを歓迎します、愛創マリィ。『悪夢』に殺されたあなたが『廃夢』に辿り着いたのは、決して偶然ではない」


 そして恭しく頭を下げると、彼は迎え入れるように白亜の城へと手を向けた。


「ようこそ、我々の安住の地『ついのカダス』へ」

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