深淵の廃夢の少女たち

序章:悪夢

 なぜ自分が走り回っているのか、愛創あいそうマリィは分からなくなっていた。

 昇り始めていた月が、暗黒に溶けていったのを覚えている。

 光が反転し、世界がまるで昔見たネガフィルムのような歪な色彩に変わり果てたとき、目の前に現れたのはよく見知ったはずの少女だった。


「……ねぇ、どうして? どうして怯えているの、マリィ?」


 力強いドラム奏者には一見見えない華奢な体も、ハスキーだけど可愛らしいよく通る声も、マリィのよく知っている少女・塞門さいもんミキのものだ。

 ただ、その顔だけが、別の何かに置き換わってしまっていた。

 醜くただれ、鈍く輝く赤い瞳を宿す顔は、おぞましい怪物のそれだった。

 自慢だと言っていた金色の髪を振り乱し、こちらに向かってくるミキの面影を宿した怪物から、マリィは本能的に逃げ出した。

 後ろを振り返ることもなく走り続ける。見えずとも、気配だけはずっと感じる。いや、それは気配と言うよりはもっと原初的な感覚だった。


 屍臭。


 生命の終わりを告げる、いとわしい臭気。

 這い寄ってくる死の気配を背に負いながら、マリィは一心不乱に走った。辻を曲がり、裏路地を抜け、広い街道に出ても誰一人いないことを疑問に思う間もなく。

 そうして、いつしか何から逃げているかも曖昧になってきたところで、逃走劇は唐突に終わりを迎えた。

 世界が、分断されていた。

 歪な色彩の世界と、正常な色彩の世界。その境目に、見えない壁が出来ている。その壁は遥か高く、どんな力を加えても壊れることはない。

 屍臭が、頬を撫でる。

 不可視の壁を背に、逃げ場を失ったマリィは異形と相対した。爛れた顔のミキは、わずかに残る少女らしい輪郭を歪める。

 舌なめずる相貌。それは獲物を追い詰めた愉悦か、あるいは恍惚か。


「ミキ!? ミキなんでしょ!? どうしてこんなことするの!?」


 絶望の淵に立たされたマリィは、彼女の中に理性が残っていることを期待した。同時にそれは、彼女が抱く純然たる疑問でもある。

 何故、変わり果てたミキが自分を追いかけるのか。


「どうして……? どうしてか分からない……? 本当に……?」


 ミキの声で、怪物が嗤う。

 愉快と不快を混ぜ込んだ声色が、じっとりと答えた。


「……アナタが人気を独り占めするからよ、マリィ?」

「……!?」


 予期せぬ答えに、マリィは言葉に詰まった。


「おかしいよね……同じバンドにいて、同じ音楽をやってるのに、アナタだけが注目される……不公平だと思わない……?」

「そんなこと……!」

「ないとは言わせないよ……知ってるよね? バンドメンバーで私設のファンクラブがあるの、アナタだけだって」

「…………!!」


 言葉に詰まるマリィに向けて、歪んだ表情が更に狂気を増していく。


「このままじゃ、全部アナタにとられちゃう……ファンも、ヒロ君も……だから」


 そしてついに、彼女の総てが爛れた化け物になった。


「ここで、死んで?」


 倍以上の体積に膨れ上がった体が、マリィに向けて飛びかかった。咄嗟とっさかわせたのは、運が良かったに過ぎない。


「ミキ! やめて!!」


 両腕の擦り傷に顔をしかめながら、マリィは震えを押し殺して呼びかける。

 足に力が入らず、よろけるように後ずさる彼女を、怪物と化したミキは躊躇うことなく殴りつけた。今度は避けきれず、左肩に巨大なハンマーで殴りつけられたような衝撃が走る。

 宙に浮く感覚に次いで、マリィは見えない壁に叩きつけられた。肺が潰れ、まともに呼吸できない。左肩は冗談のようにへしゃげて、腕はぶら下がるだけの飾りになっていた。

 喘ぐマリィの目の前には、爛れた怪物。もはや原形をとどめぬ異形の少女は、壊れた玩具おもちゃに落胆するように溜息を漏らした。


「つまんないな……私のこれまで感じてた不安と恐怖、全部吐き出すつもりだったのに」


 そう言って、怪物はマリィの右足を踏み潰す。

 血を吐きながら声にならない声を上げる彼女に、怪物はわずかに悦楽を見いだし、そしてすぐに倦厭けんえんした。


「もういいや……それじゃあ、バイバイ、マリィ」


 巨大な腕が、マリィの頭上に振り下ろされる。

 暗転する視界の中、マリィは朦朧とする意識に身を任せながら、ぽつりと呟いた。




 あぁ、これは夢だ。

 きっと、悪い夢だ、と。

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