魔法少女は惑星の悪夢を見る

Clown(黒ノ倉雲)

オードブル

とある悪夢の断章

 夢を最後に見たのは、いつだろうか。

 あるいは、今まさに悪い夢の中にいるのかもしれない。


「おい、明日提出の報告書が出来てないぞ! 何やってんだ!」

「す、すぐ提出します」

「取引先の連絡は!」

「こ、この作業が片付いたらすぐ」

「お前の仕事が終わらないと後が全部滞るんだ! 分かってるのか!」

「す、すいません」


 幾度となく放たれる叱責、怒号、糾弾。

 受け流すことも出来ず、傷つきながらも甘受するたび、心のどこか大事な部分が麻痺していく。

 毎日、毎日、毎日、同じことを繰り返す。

 叱責、謝罪、怒号、謝罪、糾弾、謝罪。

「おい」と呼ばれれば俺のこと。

 ここでは、俺は名前すらない。

 自分の仕事を探せと上は言う。

 だが、上から押しつけられる仕事量は、俺に探す時間を与えてはくれない。

 効率的に仕事を回せと上は言う。

 だが、効率を上げて出来た余白を見計らうように、別の仕事を押し挟まれる。

 〆切までに仕事を片せと上は言う。

 だが、その仕事が一体いつになったら締め切られるのか、誰も教えてはくれない。

 毎日、毎日、毎日、同じことを繰り返す。

 仕事が終わり、帰宅する頃には日が変わっている。

 そしてまた、その日のうちに仕事が始まる。

 終わりが始まりに組み込まれた、ウロボロスの輪のように、同じことを繰り返す。

 そんな生活で、夢を見る時間なんてない。

 そして、これが悪夢であったらどれだけ良かったかと思う。



 その日もいつも通り、退社したのは日が変わった深夜だった。

 職場に歩いて通える距離の自宅は、購入時には天恵に思えたが、今思えば自ら犬小屋を設えたようなものだ。

 トラブルがあれば、休日でも犬笛一つで飛んでいく、犬。

 数百メートルの帰路が、その日はいつも以上に長く感じた。二つほど筋を曲がれば辿り着くはずなのに、二つ目の筋に辿り着かない。疲れすぎて足が動いていないのか。だが、景色は流れ続けている。

 無限と思える街路の先、ようやく見えてきた辻のひときわ目立つ街灯の下に、人影があった。

 そこそこ上背のある俺と同じか、少し高いくらいの背格好だ。黒のスーツに、街灯の下でも分かるほど鮮やかな赤いネクタイが一際目を引く。近づくにつれ鮮明になっていく相貌は中性的で、首元の陰影からかろうじて青年だろうと判断できた。

 青年は、まるで俺を待っていたかのようにこちらに向けて笑顔を浮かべた。俺は少し警戒したが、彼はそんな俺の様子などお構いなしに話しかけてきた。


「こんな夜遅くまで、おつとめご苦労様です」

「は、はぁ……」


 見知らぬ人間にねぎらいの言葉をかけられるのは気味が悪かったが、無視するのも気が引けて曖昧に返事をした。自然、足は止まったが、青年はそれを見越したように俺の方へと向き直る。

 間近で見ると、恐ろしいほどの美青年だった。端整な顔立ちは3DCGのように破綻なく、街灯の明かりで見る限りでも透き通るような肌をしている。均整を乱すものは左目の下に控えた涙ぼくろだけで、それすらも美を完成させるためのパーツに過ぎないように見える。

 ため息を漏らしそうになる俺に向けて、青年は穏やかな笑顔を浮かべた。


「突然声をかけてしまってすみません。驚かせてしまいましたか」

「……あ、いえ……まぁ少しは……」

「いつもこの時間にお見かけするので、差し出がましいかと思いましたが、少しでもお力になれればと思いまして」


 鈴の音のような心地よい声で言うと、青年はどこからか取り出した小さな袋を差し出した。思わず手を伸ばすと、青年は俺の手を取って手のひらにその袋をそっと乗せる。

 絹のように柔らかな手触りの巾着袋だった。表面に、銀色の鍵のような模様が刺繍されている。促されて中を開けると、小さな種のようなものが入っている。大きさはちょうどひまわりの種くらいだ。

 取り出すと、吸い込まれそうなほど黒いのに、ぼんやりと光っているようにも見える。ひやりと冷たいその塊を手にしていると、感覚が麻痺してしまいそうで怖くなり、俺は慌ててそれを袋にしまい込んだ。


「……あの、これは?」

「『悪夢の種』です」

「あくむのたね……?」


 不穏な響きの言葉を鸚鵡返すと、青年はやはり穏やかな笑顔のまま続けた。


「これを飲むと一度だけ悪夢を見ますが、その間に不安や悩みが消え、すっきりと目覚めることが出来ます」

「不安や悩みが、消える……」

「ご心配なく、依存性はありません。もしご不要なら、どうぞお捨ておきください」


 どうやらドラッグの類いらしいが、青年の言葉には抗いがたい魅力があった。

 逡巡して、俺はそれをスーツのポケットにそっとしまい込んだ。


「その……ありがとう。俺なんかのことを気にかけてくれて」


 ドラッグらしきものについてお礼を言うのは憚られて、俺は声をかけてくれたことについて礼を述べた。青年は完成された美貌に微笑みを乗せて、かすかに頷いた。


「それでは、よい悪夢ゆめを」


 そう言って、青年は闇夜に溶けるように去って行った。

 俺はしばらくそこに立ち尽くしていた。彼が去ったあとには当然だが何もなく、幻覚でも見ていたのではないかと思ったが、ポケットの中で冷気をまとうものがそれを強く否定していた。

 あれだけ長く感じた帰路などなかったかのように、俺は自宅であるマンションの一室に辿り着いた。

 ただ寝るためだけの小屋と化した居宅はかつての賑わいを失い、廃墟のように冷え切っている。

 壊れた玩具を払いながら凍り付いた廊下を進み、寝室に鎮座する不自然に大きなベッドに倒れ込む。置き去りにされた鏡台に映し出された顔は、頬がこけて青ざめていた。

 死人じゃないか。

 皮肉に笑うことすら出来なかった。

 少しでも生活を楽にしよう。少しでも家族を笑顔にしよう。そのためなら繰り返される地獄にも耐えてやろう。きっと報われる日が来る。きっと、救われる日が来る。

 そうして俺一人が、地獄に取り残された。

 見上げた天井が、低く感じた。

 ここは犬小屋じゃない。棺桶だ。俺は、棺桶から這い出て地獄をさまよう死人でしかなかった。

 ポケットの中で、何かが震えた気がした。青年から渡された小袋が、ぼんやりと光っているように見えた。中身を取り出すと、相変わらず冷たい感触が何故か手のひらに心地よかった。

 躊躇いなく口中に放り込む。

 噛み砕く間もなく、それは溶けるように消えていった。わずかな冷気だけが、喉を通って体内を満たしていく。

 特に何も変わった様子がないことに、落胆はしなかった。不思議な体験ではあったが、変化を期待するには俺の心は死にすぎていた。

 服を脱ぎ捨て、行水のようにシャワーを浴びて、俺は再びベッドに沈み込んだ。朦朧とした意識は、霧散するように失われていく。

 意識の残り火に、青年の顔が朧気に浮かんだ。

 夢は、見なかった。



 目覚めはいつも、日が昇る前だ。

 ベッドから這い出し、台所の冷蔵庫から牛乳パックを引っ張り出す。

 グラスに注ぎ、リビングに向かう。

 まだ暗い窓の外を見て、気づいた。

 太陽が、黒い。

 昇り始めた太陽は、塗りつぶしたみたいに真っ黒だった。周囲の景色はネガフィルムのような薄気味悪い色彩をとり、この世の終わりのような雰囲気を醸し出している。

 ドラッグの影響で視覚をやられたのだろうか。あるいはこれこそが悪夢なのか。

 牛乳を喉へ流し込み、着替えて外に出る。

 悍ましさすら感じる風景の中を、職場に向けて歩く。普段は気にしたこともない環境音が、やけにうるさく聞こえる。幾人かとすれ違ったが、みな顔のあたりにモザイクがかかったように見えた。目をこすり、振り仰いで見えた看板の文字が、判読できない。

 俺は、狂ってしまったのだろうか。あるいは世界が?

 監獄に辿り着き、自分の牢に入る。相変わらず、誰の顔も霞がかかって判別できない。声すらも機械音声のように聞き取りづらい。書類の文字も読めない。何かが俺の机の横に積まれる。何かは分からない。右を見る。何かが蠢いている。左を見る。何かが喚き散らしている。上を見る。天井が近づいている。下を見る。黒く淀んでいる。金属がひしゃげたような甲高い音が聞こえる。看守があげた奇声だと気づく。右手を見る。醜く爛れている。左手を見る。醜く爛れている。両足を見下ろす。醜く爛れている。周囲を見渡す。醜く爛れている。醜く爛れている。醜く爛れている。

 爛れたら、切り落とすしかない。

 爛れた俺の右手が崩れ落ち、巨大な鉈が生えてきた。手始めに、通りがかった誰かの首を刎ねた。ブロックノイズまみれの頭が地面に落ちて果実のように潰れた。黒い液体が飛び散った。耳障りな金切り声が聞こえた。左手は鋸になっていた。這いずる虫を挽き潰した。痙攣して動かなくなった。屍臭がした。硝子を引っ掻くような音がした。虫が飛び回っていた。叩き落とした。耳鳴りが酷い。屍臭が溢れている。虫がいる。醜く爛れている。切り落とす。抉り出す。足りない。もっと切り落とさないと。もっと挽き潰さないと。もっと、もっと、もっと。

 看守がいた。最も醜く爛れていた。口から蛆と呪詛が湧き出ていた。世界の爛れの源泉に違いなかった。右腕を切り落とすと、のたうって腐敗した液を撒き散らした。厭わしい怪物だ。早く解体しなければ。早く、早く、早く。


「そこまでだよ」


 明瞭な声が、鼓膜を撫でた。

 様々なものが欠落した悍ましい景色が広がる中、声の主ははっきりとした姿で目の前に現れた。

 少女だった。

 可憐な衣装を纏う少女は、自らの体躯よりも大きな大鎌を手にしていた。

 燃えるように真っ赤な髪を揺らしながら、少女は黒く淀んだ澱に降り立った。彼女の足下だけが、浄化されたように元の床に戻った。

 なるほど、少女も爛れを切り落としに来たのか。さぁやろう。早くやろう。世界の爛れを、根絶しよう。


「……いや。根絶されるのはお前だよ、『悪夢の主』」


 あくむのぬし?

 それは俺ではない。これが悪夢だというのなら、俺は悪夢の被害者だ。


「本当に、そう思う?」


 当たり前じゃないか。俺の体は爛れたままだ。爛れの源泉を断ち切らなければ、俺は元には戻れない。だから、早く。


「じゃあ、足下を見てみなよ」


 足下?

 足下には、

 爛れの源泉が。

 ……。

 右腕だった。

 血を吐き尽くしてしなびた右腕が、俺の足下に落ちていた。

 その隣には、涙か涎か分からない液体に塗れた顔で虚ろに許しを請い続ける、欠損した上司が蠢いている。

 血の海の中で無造作に破壊された机や椅子に混じって、どこのパーツかも分からない肉片がぶちまけられている。縦や横や斜めに切断された同僚たちが散らばり、悪趣味なオブジェと化している。

 そして俺の両腕は、もはや誰のものとも分からぬ血に塗れている。

 響き渡る絶叫が自分のものだと気づくのに、時間がかかった。

 殺したのか。俺が。同僚たちを。

 足にまとわりつこうとする何かを、咄嗟に振り払った。片腕の無い上司が、血だまりに倒れ込む。藻掻くように残った左腕を振り回し、やがて動かなくなった。

 音が消え、屍臭だけが漂う。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 俺は、爛れた患部を切り落としただけだ。腐敗した病巣を、取り除いただけだ。こんなことをするつもりはなかった!


「でも、これが結果だ。『悪夢の種』を使って、お前は『悪夢の主』、屍食鬼グールになった」


 屍食鬼……俺は、人間ではなくなった……?


「屍食鬼は悪夢を生み出し、悪夢に人を引きずり込み、そして、悪夢の中で人を殺める」


 でも、悪夢は一度見るだけだって、彼は……!


「そう、一度だけ。二度と覚めない」


 少女の哀しそうな顔は、それが真実だと告げていた。

 不安や悩みが消えた目覚めなんてものは、最初からなかった。

 俺はただ、恐怖と苦痛に支配された日常のループから、ひととき解放されたかっただけなのに。


「同情はするよ。でも」


 死人だった。


「……え?」


 俺は、地獄を彷徨うだけの死人だった。

 だから、自分がどうなろうと構わなかった。

 だから、俺は見ず知らずの青年が寄越したドラッグに躊躇しなかった。

 その行き着く先が、だというのなら、俺は受け入れよう。

 だから、あんたも――俺の悪夢で死んでくれ。


「……そう」


 少女の哀しげな表情が、モザイクに塗りつぶされた。爛れ続ける俺の両腕が、鉈と鋸に生え替わる。少女の大鎌を鉈で弾き返し、鋸を突き出す。躱されたのを見届ける前に、少女に向けて突進する。鉈を振るう。躱される。鋸を薙ぐ。弾かれる。更に踏み込む。

 足が、消えた。

 血の海に倒れ込み、俺は愕然とした。

 踏み込んだ瞬間、少女の大鎌が俺の両足を切断していた。

 爛れた足から血が噴き出し、同僚たちの血に混じっていく。

 藻掻きながら、俺は絶叫した。これが俺の悪夢なら、両手のように両足も生え替われ。屍食鬼だというのなら、より悍ましく、より凶悪な怪物となって、目の前の少女を叩き潰せ。

 叫びに呼応するように、爛れた体が膨張する。足が再生し、巨木のごとく踏みしめる。右手は大鉈に、左手は電鋸になる。倍以上の巨軀になり、天井を突き破る。紙のように脆い建造物を破壊し、爛れた世界に躍り出る。

 そうだ、世界は爛れている。俺が悪夢を見る前から、この世界は悪夢だったじゃないか。爛れた世界を、腐敗した世界を、切り落とす。俺ならそれが出来る。俺なら。

 少女がいる。俺の前に浮いている。哀れみの目を、俺に向けている。

 やめろ。その目で見るな。

 俺は悪夢だ。俺は怪物だ。俺を恐れろ。世界が俺を脅かしたのだ。今度は俺が世界を脅かすのだ。でなければ、不公平じゃないか!


「そんなのは、公平でも何でもないよ」


 何故だ!


「本物の恐怖には、公平さなんて通じないんだ……時間切れだよ」


 何を言って。

 いつの間にか、俺の足に何かが絡みついていた。振り払い、大鉈で切りつける。何かは切断されてすぐ再生し、再び俺の足に絡みつく。触手のように伸びた何かは何度切り落としても再生し、次第に俺の体へと侵食してくる。

 何だこれは。何が起こっている。振り払い、切り落とし、叩き潰してなお、それは俺を絡め取ろうとする。数が増え、勢いを増し、俺を苛み続ける。

 俺の中にわずかに生じたを感じ取ったように、何かがその本体を現した。

 巨大な蜥蜴か蛙のようだった。黒ずんだ皮膚に銀を散りばめたような体躯は、俺の十倍はありそうだ。太く節くれた首の先にあるはずの頭はなく、そこから無数の触手が伸びて俺に絡みついていた。

 そして、触手の群れの根元には、ガチガチと歯を鳴らす巨大な口が開いていた。

 本物の恐怖には、公平さなんて通じない。少女の言葉が、頭に響いた。

 叫んだのが俺だったのか、その怪物だったのか、俺には分からなかった。

 少女が、俺を見ていた。

 悼むように。

 手を伸ばし、哀願する俺を拒絶するように、怪物の歯が俺の頭を砕


         ○


「終わったよ、ノードレッド。……ううん、救えなかった。ごめん」


 月獣ムーンビーストが腹を満たして帰って行ったの見届けて、少女は崩壊したビルに座って簡単に報告した。


「……うん。『銀鍵派』だと思う。屍食鬼になったし、証拠が落ちてた」


 落ちていた血塗れの小袋を見ながら、少女が告げる。報告相手は『星の智慧派』ではなかったことに残念そうなため息をついたものの、少女に労りの言葉をかけるのを忘れなかった。

 報告を終え、少女は瓦礫から離れた。

 背に負った大鎌を手にして、空間を薙ぐ。

 悪夢が、終わる。

 破壊された建物が、音もなく復元された。街も人も、一連の工程に気づくことなく日常を謳歌している。

 しかし、やがて誰かが異変に気づくだろう。悪夢の片鱗を、漏れ出る屍臭として。

 悪夢の中で殺された人間は、元には戻らない。悪夢が終わっても、ただ結果としてそこに取り残される。

 少女は黙祷するように目を閉じ、再び大鎌を振るった。切り裂かれた空間の向こうに、灰色の空が覗く。誰の目にも触れぬうちに、少女は空間を渡り、帰還した。

 総ての夢が滅んだ世界、深淵の廃夢アビサル・ハイムへと。

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