初めて浜大津駅から先へ行った時のことは、今でもはっきりと思い出せる。


 電車専用信号機が「進行可」の合図を示し、運転手はブレーキを解除した。


「オー!」


 専用軌道から道路上に線路がある併用軌道の区間へ入った瞬間、幼稚園の年中組さんだった僕は、運転席の後ろに座り、歓声を上げた。まだ、そんなにたくさんのものを見ていなかった目をキラキラさせていた。


 京阪大津線は、石坂線のびわ湖浜大津駅から三井寺みいでら駅間の約四百メートルの区間と京都三条方面へ足を延ばす京津線のびわ湖浜大津駅から上栄町かみさかえまち駅までの約六百メートルの区間は、路面電車として走るのだ。


 ゆっくりと、ゴロゴロと大きな音を立てて、二両の電車は道路上を走行する。


「なんで、このでんしゃ、どーろのうえ、はしれるん?」


「電車は線路の上を走るやろ。ここはな、道路に線路を敷いてある。せやから、電車でも、車と同じように走れるんや。こういうのを、『路面電車』って言うんやで」


 祖父は僕に教えてくれた。生まれて初めて、「路面電車」というキーワードを耳にした瞬間だった。


「ろめんでんしゃ……」


 僕はすぐに反復する。その刹那、園城寺の鐘の音をイメージしたと言われる独特の『ゴォーン』という低い和音の警笛が鳴らされた。


「警笛、鳴ったな」


 祖父の言葉に僕はニコッと笑った。


 その様子を祖父は、優しく微笑んで見つめていた。


 電車は再び線路だけの区間に入った。春には綺麗な桜並木を見ることができる三井寺駅に停まると、琵琶湖疎水を渡って、Sの字を描いていく。別所べっしょ駅、皇子山おうじやま駅を過ぎて、かるたの聖地として有名な近江神宮おうみじんぐうの最寄り、近江神宮前駅までやって来た。右手にたくさんの車両が留置されている車庫が見えた。


「じいじ、だっこ」


 と、言って、祖父に抱っこしてもらう。目線が少し高くなったので、もっとよく、車両基地の様子が確認できた。「けーはん、いっぱいとまってるな」


「ほんまやな」


 祖父は、僕をしっかり、でも優しく抱きながら、頷いていた。


 近江神宮前駅を出発する。待ち受けていた長い坂を上り、大きな踏切を過ぎると、今度は下る。電車のスピードが更に上がった。さっきまでは急なカーブの連続だったが、今は綺麗な直線に変わり、のどかな田園風景の中を走っている。右側の車窓の遠くには琵琶湖が見えた。


 僕の目は、もっと見開かれた。


 浜大津駅から先は、僕にとって未知の世界だった。いつも浜大津駅で降りるたび、うずうずした。――行ってみたい。そこに何があるのか、知りたい。


 その見たことのなかった世界へ、分け入ることができた。大好きな祖父と一緒に。

 一直線に伸びる線路。どこまでも、どこまでも、続いていそうな気がした。

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