最終回


 いつの間にか、僕は眠ってしまっていたようだ。


 微睡みから覚めると、ちょうど、電車は駅のプラットホーム――駅名看板を確認すると、松ノ馬場まつのばんば駅だった――に停まっていた。他の乗客はみんないなくなって、車内には僕一人だけが残された。


 プラスチック製のベンチたちが、誰もいない、クマゼミの鳴き声だけが響くホームに寂しく並んでいる。


 扉が閉まった。


『次は、終点、坂本比叡山口です』


 静かな車内に自動音声のアナウンスが流れた。


「もう、終点か……」


 僕は目をこすった。それから、一度、伸びをした。


 松ノ馬場駅を出発すれば、終点の坂本比叡山口駅まではあっという間である。発車から三十秒、体を左右に揺らされれば、島式の頭端式ホームが前方に姿を見せた。


『坂本比叡山口、坂本比叡山口、終点です。お忘れ物のないようお気をつけください。京阪電車をご利用くださいましてありがとうございました――』


 十五キロの速度制限があるため、電車はかなりゆっくりとしたスピードで、終着駅に進入する。ズボンの右ポケットにちゃんと切符が入っているか点検して、僕は暖色のシートから立ち上がった。


 コンクリートのホームに足を下ろした。途端、ムシムシした暑さが僕を包む。


 旅が、終わった。


 スマホを左ポケットから取り出して、時刻を確認した。


 時間は、京阪電車に乗り込んだ駅を出発してから、まだ二十五分しか経っていなかった。


「たったの、二十五分……」


 呆然とした。


 初めてこの終着駅にたどり着いた時は、一時間以上も祖父とグリーンの電車に揺られていたように感じていた。なかなか来ることのできない遠い場所へ、行き着いたと思っていた。


 だが、実際はたったの二十五分。体感の四分の一だけしかない乗車時間だった。


 思い出は、僕が思っていた以上に、いや思ってもいなかったほど、短かった。


 三百三十円分の切符を改札に入れ、駅の外に出た。目の前に広がる景色は、変わっていなかった。祖父と大冒険に出かけたあの時と、なにひとつ。


 振り返れば、電車が丁寧に一つ一つ停車した駅や車窓の外に流れた景色の多くは、僕が五歳だった頃のままだった。


 発見するたびに懐かしくなって、切なくなった。


 あの時、僕は、祖父の死を受け入れたつもりだった。病室での最後から葬儀、火葬、骨上げまで、全ての行事に参加した。


 だから、ここに、この世界のどこを探しても祖父はいないと理解している。優しい笑顔で、自分の手を繋いでくれた祖父は、もういない、と。


 それなのに、ホームや駅舎、駅前の町並みを見ていたら、今でも会える気がした。


「おーい」


 後ろを振り返ると、いつも祖父が、僕の名前を呼んで手を振ってくれていた。そこに僕はニコニコしながら、祖父の腕の中に飛び込んで、温かさを感じていた。


 でも、会えない。優しい笑顔に接することは二度とない。そして、そんな思い出もどんどん遠い過去になって行く。


「じいじ……」


 涙が溢れて止まらない。「一人にしないでよ……。また、一緒に行こうって約束したやん……」


 僕は我慢できずその場に崩れ落ちた。


 そよ風が青々とした葉を茂らせた駅前の木を揺らした。




         了

        

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