道上

石井桔梗

1

 若者は、休日、人で賑わう通りを横切り、或るスーパーマーケットの店頭に設置された暗黄色のベンチに腰掛けた。その額には皺が寄りありありと苛立ちが見えた。

 中年の女がそこへ一人近付いていって声を出した。

「あらァ、シュウちゃんなの?小さかったのがこんなに大きくなってね……覚えてないよねぇ?おばさんのこと」

 若者はその「シュウちゃん」に聞き覚えがなく、ひいてはそのような名前でもなかったが、相手を見てゆっくりと瞬いた。女のワンピースの勾玉のようなテキスタイルには興味を惹かれるものの、それは特段好ましい体感ではなかった。

「ついつい話しかけちゃって、ごめんねぇ!ほんとうに立派になってねぇ!」

「いいえ、すみません。人違いです」

 女は立ち去った。ベンチには一匹のかまきりも居た。それはまったく当初から共に居たのだ。羽に目を落とした若者はそこにマーブル様の薄らとした斑紋を見出すと、背を丸めてそれを読み始めた。若者は、実際カナにも漢字にも見えないその渾然とした集合を日本語だと確信した。「は」の字の右側だけであったり拙い幾何学模様だったりといったからの記号の数々が若者の中にあった。それは何の知識、思念とも結ばれていなかったが、例えば幼少の時分に児童館で誰かと並んで引いた線だった。

 俯いた若者に向かって右手側から、小さなビニール袋を手首に提げたパーマ・ヘアの女が自転車で現れた。女が脚を止めるとホイールがシャアアと自転した。女はシャツの袖と豊かな髪をひらひらさせながらスーパーの前を通過、その先の横断歩道を一息に抜けてハンドルを右に切った。歩行者たちは追い抜かされると同時に彼女を忘却し、連れに「おい」と「なぁ」のいずれを言おうとしていたのかも不明確となった。いつしかベンチの若者はかまきりの背を前に一枚の地図を想像していた。通り沿いにはビジネスビル、その合間に古びた八百屋や喫茶店が並ぶ。バスが慎重に右折するのを水色のセダンが停止線から見送っている。先の女はガラス戸越しに雑貨屋を1分ほど覗いていたが、何かを見つけたのか戸に柔らかく手をかけた。

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道上 石井桔梗 @hal5300

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