非日常の衝撃【先生のアノニマ 2(上)〜5】

 八月末。夏休みが明けた。

 他校では最終盤の夏休みを満喫している生徒達もいる中で、俺の警護対象たる米国人同胞のアンにしてみれば、

「日本の学校の夏休みって短過ぎ!」

 というその太史学園の夏休みは、約一か月間だった。確かに米国の学校などは、九月の年度替わりも相まって約三か月もあるのだからそう思うのも無理はない。正直なところ、嫌なら帰国してもらえると、俺のこのおかしな任務も終わるので助かるのだが。

「もっと日本の夏休みを満喫したかったのにぃ」

 などと不満こそ漏らすが、留学を切り上げるという話は全く出る気配もなく。そこは相変わらずの日本好きというかサブカル愛というか。

 それはともかく、八月下旬に突入するなり二学期が始まった学園は、すっかり通常の学校生活に染まっている。が、そんな当たり前の中において、小官の俺には大小二つの変化があった。

 まずは小の方から話すと、授業再開と同時に俺はALTとして本格始動した。日本の高校に極秘留学しているアンの警護が本来の任務とはいえ、あくまでも在校身分の拠り所は建前業務ALTだ。であれば、それはおざなりに出来ない。夏休み前に生徒達から突きつけられた【生徒アンケート】でも物の見事にそれを突き上げられた事でもあり、それに答えた形である。

 夏休み中にその答申を練る上で、そうはいっても上司の紗生子にも相談したところ、

「まあそろそろベールを脱ぐべきだろうな」

 と、妙なけしかけられ方をしてしまった。警護に支障のない建前レベルを模索する必要があり、事は慎重を要すると思っていたのだが、紗生子はそれには全く構わず、

「夏休み明け早々、いきなりぶちかましてやれ」

 と何故か喧嘩腰。何でも、

「ここの連中は頭でっかちが多過ぎて気に食わなかったんだ」

 とか何とか。で、どうせなら英語に限らず、

「フランス語と中国語のALTもやればいい。何せ四か国語を使いこなすクァドリンガルなんだ。その一端に触れれば秀才共も少しは大人しくなるだろうさ」

 という事になってしまった。

 太史学園の高等部では第二外国語の授業もあり、確かに仏語と中国語にはALTをつけていないのだったが。

「それはちょっと——」

 仏語は約一〇年の滞在で、それなりに培っているからまだよい。当然今でも使えるし、それなりにアップデートも出来ている。英米語より馴染んでいるぐらいだ。が、

「中国語の方は乱暴な気がするんですが」

 俺が台湾在住時に覚えた台湾の公用語である【台湾華語かご】と、中国語の標準語である【普通話ふつうわ】の違いに問題があった。この二つは、会話のコミュニケーションはほぼ問題なく成立する近さだが、一方で使う文字はまるで違うのだ。

「繁体字と簡体字か?」

「はい」

 前者が華語、後者が普通話で使われる文字なのだが、画数的に言えばその中間に位置するのが日本の漢字である。繁体字は画数が多い一方で簡体字は少ないが崩し過ぎていて、

「ぱっと見で、文字が分からない事もありますし」

 それだけではなく、意味も違っていたりする事がそれなりにあるのだ。

会話・・を教えるだけならある程度は雰囲気でよいかも知れませんが、学校の授業で文法に触れるとなると——」

 そこまで言うと、

「無学だの脳筋だのと侮る連中に、今の君の謙虚さを見せてやりたいものだな」

 紗生子が上から被せた。

「心配するな。細かい事は教科担任が上手くやる。ALTはあくまでも補助役だ。生きた言語を知る者として、生徒達の学習意欲や興味を掻き立てる事にこそその本質がある」

 そうはいっても君はたまに先生方から教材作成や相談を受けていただろう、と言う紗生子は

「もっとも信用されず、現状殆ど頼られてないが」

 流石に部下の仕事振りを良くも悪くも把握している。

「要するに【生徒アンケート】では、その仕事振りが見えなかったから誤解されたところが大きいんだ」

 だから、

「その本領を発揮して、色んなクラスや授業に顔を出すといい」

 との御下命だ。

「より多くの顔を知る事は、任務にはプラスに働く筈だ」

 で、高等部限定だが積極的に授業に出て行く事になったのだった。

 ——まぁ確かに。

 油断している訳ではないが、アン本人もその周囲も、日本の一学校内にその大身が存在している事が当たり前になりつつあり、その周辺は落ち着いてきている。平和なうちに、建前と本業でTPOに応じた立ち回りの感覚を養っておくべきだろう。

 そんなALTの方は、生徒達の想像以上にネイティブな俺のその意外性がプラスに作用して、まあ順調といえた。とは、褒められ慣れていない俺の低頭癖がもたらす自己肯定の低さがもたらす悪い癖で、本当のところは生徒間に限らず教職員間でも評価が急上昇中だ。事前評価が低過ぎたのがその最たる原因であり、要するに返す返すも俺の冴えない見た目が余程バカっぽく見えていたらしい。加えて俺の責任ではないが、俺の前任二人が慌ただしく去って行った事も災いしていたようだったのだ。

 まあ今となってはそれはもう良い。ALT 建前 の方は経験を積み重ねて行く事で、今後良い具合に落ち着くだろう。

 問題は、大の方の話だった。

「な、な、な——」

 文字通りの言葉にならない人間を具現化したアンの、

「何がどぉなってんのよおぉぉぉ——っ!」

 その悲劇の絶叫を浴びせられた俺がその報に触れたのは、文芸部の研修旅行から約二週間が過ぎた二学期直前の食堂での事だ。

「どう、されました?」

 入寮生が帰寮し始める直前の、相変わらずの貸し切り状態を満喫しながらのんびり昼飯を食っていた俺は、外出すら儘ならないアンに多少の同情を示すようになり、

「また何か、贔屓の漫画の連載でも終わったんですか?」

 アンのサブカル三昧に少しずつだが興味と共感を寄せるようになっていた。その知識や収集量は最早ヲタクと言う蔑みとも取れるフレーズを通り越し、求道者めいた迫力で圧倒され通しだったこの頃。特定分野において研究者の肩書きを持つ者の凝り方に、敬意と感心を示さざるを得ないと思っていたその矢先。

「とぼけたこと言ってぇ! 聞いてないんだけどぉ——っ!?」

「だから何です? 一体?」

 と食ってかかられた俺は、相変わらず大根をかじっていたのだが、

「紗生子とシーマ先生が結婚してたってどういう事よおぉぉ——っう!」

「っんがっ!」

 晴天の霹靂とはまさにこの事だ。

「——くっく!」

 その衝撃で、口に含んでいた大根の固まりを噛まずに飲み込まされてしまった。

 ——いっ!?

 息が出来ない。物を喉に詰まらせて窒息するのは初めてだ。それにしてもどうしてこの娘は、毎度毎度俺の息の根を止めて殺そうとするのか。どうやらナチュラルな殺意でも持っているらしい。

「う、うぐぐ」

 絶妙に詰まって本気で気絶を意識し始めたところで、目の前でじだばたしているアンの張り手が俺の背中を見事に捉え、

「かはっ!」

 命辛々で救われた。

「もぉ——ぉう! この世の終わりじゃあぁぁぁ——っ!」

 結局、そんな絶叫の嵐が勝手に立ち去った頃合いで、訳が分からないうちに紗生子から、

"食後でいい。理事長室へ来てくれ"

 との出頭命令のメッセージだ。

 ——な、なんなんだ?

 失神しかけた直後でメシを食う気にもなれず、一時中断してすぐ行くと、

「何だ? 早いな」

「真っ赤な顔をされて、大丈夫ですか?」

 紗生子と理事長が応接ソファーで向かい合って、こちらはこちらで何やら浮かない顔をしているではないか。

「ここ数十年来一の衝撃のせいで、喉に物を詰まらせたものですから」

 大根を詰まらせた、と言ってはまた笑い種にされるだけだ。それは伏せて入口で立っていると、

「こっちへ来て座ってくれ」

 早速、紗生子の横に座らされた。

 ——おかしい。

 会議を行う事が多い理事長室の応接セットには議長席がついている。応接へ座る時には決まって上下を超越したそこへ好んで堂々と座る紗生子の筈が。この時は、上座の複座式ソファーに座っていた。恐らく、理事長に勧められるままに座らされたのだろう。

 ——という事は。

 どうやらマジらしい。二人揃って上座に座らされるなど。一貫して明白な上下で押し通されてきた関係が、何がどうなって結婚などと。

 ——お、重苦しい。

 呼びつけておきながら、二人の女上司は息を潜めて何も言わない。しばらく我慢していたが

「あの——」

 堪え切れなくなった俺が切り出すと、珍しくも紗生子が盛大な溜息を吐いた。

「すまんな。呼びつけておきながらこれはないな」

「——いえ」

 そういう気遣いが、またいつになく紗生子らしくない。

「——聞いたか?」

「ええ、まあ——」

「そうか——」

 そこでまた、押し黙ってしまう。この状況で、まさか冗談という事もないだろう。その重苦しさが、アンの出任せではない事を裏づける。

「実は——」

 と、代わりに説明を始めた理事長によると、事の発端は文芸部研修旅行中の前撮り・・・らしかった。

「でもあれは——」

 俺につけられた因縁がアンに及ばないようにするための作戦中の事であって、殆ど余興のようなものだったのだが。

「それが、それでは収まらなかったんだ」

 と、つけ加えた紗生子によると、例の写真が一人歩きしてしまい、夏休み中だというのに恐るべきスピードで学園内を駆け巡ってしまったらしい。

「——って、何で写真が流出したんですか?」

「知るかそんなモン!」

「はあ?」

 子供染みた反応が、また紗生子らしくない。大体、紗生子が「知らない」などと。それこそが有り得ない。

「呉服屋さんから届いたお写真がアンさんに見つかったそうでしてね」

「千鶴!」

「ここまでしておいて、これ以上の隠し事はシーマ先生に失礼でしょう?」

「ちっ」

 拗ねてそっぽを向いた直属の上司に構わず続ける理事長によると、何でも例の商店街連合会の会長さんにして呉服屋の店主が、それはそれは見事な婚礼写真を送ってくれたのだとか何とか。それが見つかったらしい。

「何で写真なんか送ってもらったんです?」

「頼むかそんなモン! 大体が私ははっきりと写真はいらんと伝えていたんだぞ!」

「じゃあ何であの呉服屋さんが主幹の住所をご存じなんです?」

 と言うと、また押し黙る紗生子だ。

「一時的でもモデル契約したからでしょう」

「くっ」

 既に子細承知の理事長に容赦なく指摘される紗生子は、見るからにマグマを蓄積している。

 ——今日はヘマしてないんだが。

 そもそもが、俺は一連の顛末を聞くために呼ばれたというのに。何ともひどい仕打ちだ。それにしてもアンに写真を見られただけで、こんな事になる訳がない。アンもそうだが、佐藤先生といいワラビーといい、紗生子が俺をどうにかしようと抜け駆けする事を懸念していた最先鋒だ。その三人の一角なら、俺と紗生子の婚礼写真などを抹殺したいだろう。それが何故漏れたのか。

「運悪く、文芸部員がアンさんの寮室を訪ねていた時でしてね」

 アンに見つかったのと同時に、文芸部員にも見つかってしまったのだとか。

「それはまた——」

 何という間の悪さだ。

「後は説明するまでもないだろ」

 人の耳目を封じるのは容易ではない。ならば、後の展開は容易に推測出来る。

「じゃ、じゃあ、あの白無垢やら色打掛の主幹や、俺の紋付袴姿が——」

「わざわざ説明臭く言うな!」

 と怒鳴る紗生子によると、それらの写真が瞬く間にPTAにまで拡散してしまったらしい。

「だから言っただろう。周りに知れたら事だと」

「未婚の男女の事ですからね。後はもう、あらぬ噂が尾ひれはひれでして」

 流石の理事長も失笑混じりで投げやりのぶっちゃけだ。それを忌々しげに聞いていた紗生子が、

「全ては私の落ち度だ。謝る資格すらない」

 と言いつつも、まさかの謝意を示したかと思うと、今度は暗く籠ってしまった。

「——で? 結婚、ですか?」

 それはいくら何でも短絡的過ぎるような気がするのだが。

「教職員同士が冗談でも二人切りであんな写真を撮れば、冗談では済まないものですよ?」

「は、はあ。そんなモンですか」

 本国なら余裕でジョークで済みそうな話だというのに。

「日本の学校は、それも当学園はこれでも一応全国に名の通る進学校ですので、保護者の目はそれなりに厳しゅうございましてね」

 そんな俺の甘さを理事長が見事に汲み取って、丁寧に説明をしてくれる。

「シーマ先生は今時の日本の学校を取り巻く風土や風習に慣れてらっしゃらない事もございましょうが、まさか主幹先生ともあろうお方がこうも迂闊をなされるとは」

「ここぞとばかりに言ってくれるな全く」

「何かおっしゃいましたか?」

「何でもないよ!」

 言い負かされる紗生子を見るのは初めてだ。これが俺に絡む事でなければ愉快極まりなかったのだろうが。流石にそういう気にはなれない。

「実は、アンさんのお父上様元米国副大統領にも相談しまして」

「は!?」

「アンが君に懸想してたからな」

「懸想!?」

「主幹先生」

「これでも子供染みた迂闊を踏むからな。つい口が滑るのさ」

 屁理屈を捏ねる紗生子に、理事長が厳しい視線と共に鼻息を荒くする。

「はいはい私が悪うございました!」

 と今度はやけ気味な紗生子によると、俺の現任務における本国米国サイドの人事は、アンの父君たるミスターABCの意向がそれなりに働いているらしい。

「何せ君はアンのお気に入りだからな」

「はあ」

「懸想は決して言い過ぎじゃない。あれは結構本気だったりするぞ?」

「まさか」

 それも含めて、一切合切纏めてつけ入る隙を与えないための策が

「——結婚って事ですか?」

「ああ。こうなったら腹を括ってくれ」

「腹を括ってくれって——」

 何とも乱暴な着地点だ。

 勿論、学園内だけの偽装結婚という事らしい。つまり法的には何も変わらず、

「当然この任務中だけだ。君も米軍に戻れば元通りだし、コードネームのステータスに我らが夫婦だったという関係性が追加されるだけだ」

「何分、聖職視される教職の世界の事です。このままではそれ以外の口実で丸く収まりそうにないものですから」

 現任務に就いた時から実はお互い夫婦だった、という事にしたらしい。

「しかし、いきなり夫婦といわれても——」

 参る。よりによって、見た目だけなら完璧過ぎるこんな女と。

「これから何とお呼びすればいいんです?」

「そんなモン、今まで通りに決まってるだろが。校内にいる限りは仕事中なんだ」

「それはそうですが、そもそも無理がありません? 主幹と俺が夫婦って」

 それはどんな馴れ初めだ。無理のあり過ぎにも程がある。

「何処で知り合って、何でこんな冴えない男にあなたのような完全無欠の絶対華人がくっつくって。ちょっと有り得ないでしょう?」

「そんなモン知るか。気の迷いみたいなモンだろ、人の色恋なんか」

「そういうところを人に突っ込まれたら何て言えばいいんです?」

「だから惚れた腫れたでいいだろっ! 一々説明させるな!」

「俺の立場からすればそれでいいでしょうが、あなたが俺に惚れた腫れたってのは世間が納得しないって言ってるんですよ!」

「世間なんてのは所詮興味本意で好き放題言ってるだけだろうが! そんなモンに一々耳目を向けるな!」

 全く安定的にぐずだな君は、と言う紗生子の方こそ安定的に横暴だ。

「そうは言われてもですね! 俺はこんな事は初めてなんですよ! 結婚どころか彼女がいた事もないんです!」

 つい勢いで、また情けない事を口走ってしまった。その勢いついでに隣に座っている新婦ホヤホヤの紗生子と目が合ってしまうと、

 ——うわぁ。

「取るに足らない」と言わんばかりにそのクソ高い鼻で嘆息され。あからさまに顔を背けられてしまうという屈辱の気恥ずかしさだ。が、その中において流石の紗生子も、少しぎこちなかったように見えたのだが。それを確かめる前に、目の前の理事長が盛大に噴き出してしまい、見事に掻き消されてしまった。

「私も人に話せるような経験はございませんが、遅かれ早かれ誰しも通る道でございましょう? それを恥じる事も慌てる事もございませんよ」

 ねぇ主幹先生、と何やら含んだその理事長に

「ちっ!」

 今度はあからさまな舌打ちで、忌々しげな紗生子が雑に立ち上がる。

「とにかくだ! もうこうなったからにはそういう事なんだ! 君も男ならいい加減腹を括れ!」

 実際には事実婚にも成り得ない任務中の事ならば適当に取り繕え、と捲し立てられた挙句、

「これで貸し借りはチャラだ!」

 と吐き捨てられると、しまいにはヒールの殆どないフラットシューズを常用しているにも関わらず、室内の絨毯に穴が開くかのような勢いでズカズカと足音を立てながら理事長室を出て行ってしまった。

 何か——色々ひでぇな。

 人を呼びつけておいて言いたい放題の上に先に出て行くとは。その傲慢さがいつも通りといえば確かにそうだったが、それにしてもこれだから貸し借りは嫌なのだ。思わぬところでそれを繰り出され帳消しにされるなど甚だ心外だし、清算機会や手段を選択出来ないのは一方的過ぎやしないか。そもそも俺は、借りはきちんと返すつもりだったのだ。それなのに無理矢理担保をむしり取るとは。

「私がこんな事を言うのも変ですが、悪く思わないでやってください」

 あれはあれで良い娘なんです、と言う理事長の訳知り顔の保護者めいた口振りが、

 ——ぐげ。

 これまた無理矢理、俺の思考を建設的に立ち返らせた。もう結論ありきで決まってしまっている事だ。紗生子ではないが、今更ぐずぐず言ったところでどうにもならないのであれば、とりあえず腹を決めて歩を進めるしかないだろう。

「——同じポストで夫婦が勤める事に問題はないんですか?」

「それは大丈夫です」

 現に今も何組かのご夫婦が、学園内で勤めていらっしゃるらしい。

「あれで照れてるんです。紗生子さんも、こういった事にはまるで縁がない方ですし」

 あ、これは本人には内緒で、とその友人らしき人が茶目っ気をみせた。

 この人は——

 一体、紗生子の事を何処まで知っているのだろうか。紗生子がCCのエージェントである事は当然知っているのだろうが、となると、その名前自体がコードネームである事も知っているのだろう。という事は、その素顔も知っている、という事か。そもそもが、いつ頃からの知り合いなのか。そう思い始めると、妙に気になり始める。

「少し、伺ってもよろしいでしょうか?」

「お答え出来る事でしたら、何なりとどうぞ」

「主幹先生と私の身分は、校内ではどのように伝わっているものなんでしょうか?」

 そんなところから突いてみようとしたところ、

「お二人とも、内閣府から出向中という事で周知しております。それ以上の事を知っているのは、本当は学園側の人間では私だけだったのですが——」

 と、特に嫌がる事なく教えてくれた。

「——ただ、アメリカ側の方は立て続けに変わられたために、そのどさくさで素性が漏れてしまいまして。シーマ先生には申し訳なく思っています」

「クラークさんも、殆どの事はご存じのようですが」

「はい。あの子は母国の中枢に近いところにいる人間ですから」

「という事は——」

 紗生子と俺の結婚が、任務上の都合に過ぎない事など分からない訳が

「——ない、ですよね」

「そうですね」

 単純に考えて、そういう事だ。

「それじゃあ——」

 意味がないではないか。

「それが、そうでもありません」

「そう、なんですか?」

「はい」

 アンは自分の趣味を堪能するためにも、何としても日本に滞在し続けたい。そのためには、自分の身辺を守ってくれるエージェントの存在は必須だ。それを一番理解しているのは、

「他ならぬあの子ですから」

 という事なのだ、とか。

「しかし、気に食わなければ代える事だって出来るでしょうに」

「アンはあなたを代えたくはないでしょう」

「はあ」

 それ程のお気に入り、という事か。俺のようなおっさんを。単純に男として嬉しくない訳がないが、人間社会はそれ程単純ではない。

「それにもうお気づきだと思いますが、アンの日本滞在中における生活上の最終決定権は主幹先生が握っていますから」

 だから紗生子の決定に逆らう訳にはいかない、そうだ。つまり全ては、

 ——主幹次第か。

 という事だった。

「——分かりました。ありがとうございました」

「もう、よろしいのですか?」

「え?」

「真耶先生の、紗生子さんの事を、もっとお尋ねになるかと思っていましたが」

 何せ任務とはいえご夫婦になられた訳ですし、と言われて

「そ、そうですね」

 改めてそのフレーズの重さにたじろぐ。が、仮にもそうであれば、そういう事はやはりそうはいっても

「ご本人の口から聞くべきではないかと——」

 思う。当然言いたくない事もあるだろうし、逆に聞く必要がない事もあるだろう。一々そうした事にも、恐らく大した破壊力を秘めていそうな紗生子の事ならば、

「【知らぬが仏】という言葉もありますし」

 別に紗生子に限らず、危うきには近づからずだ。

「紗生子さんが一目置く訳です」

「いえそんな——」

 紗生子がどれ程の人材か、これでも少しは理解している。俺などはその真相に触れない方が身のためなのだ。つまり、

「——恐れ多いです」

 という事になる。能無しで、命を晒す事でしか役に立てない俺のような溢れ物が、世が羨む珠玉に触れてよい筈がない。とはいえ中身は全くの別物の殆ど男で、それでいて魔性の女で、それ以上に魔女で、とにかく曰くつきに事欠かない紗生子だが。世人は圧倒的なオーラで近寄り難く、また本人も煩わしがって安易に近寄らせないプレッシャーのようなものを常時醸し出している現状を鑑みると、やはり一般的には珠玉としかいいようがない訳で。

「不公平だとは思いませんか?」

 不意に理事長が、

「知る事が許される人間と、そうではない人間」

 謎々のような事を口にした。

「それによって支配される人間と、そうではない人間」

「はあ」

 よく分からない、と言っては逃げなのだろう。

「一兵卒は上官の命を理解して、それを遂行出来る知能さえあればよいものですから、余り考えた事は」

 と、わざとらしくもっともらしい事を言って躱してみた。もっとも軍人とは元来そうしたものだ。何かのために矛となり盾となり。そうした野蛮なならず者・・・・だ。それを論理的に言葉に出来るような者は、好き好んで軍になど入らない。だからこそ軍という組織は成り立つのだ。分かってやっているヤツは酔狂か事情持ちだろう。不肖ながら俺は、少しはそれを知りながら・・・・・知らない振り・・・・・・をして生きてきた酔狂で事情持ちだ。あえて目を逸らし続けた、と言われてもそれは否定しない。深く知れば何かが鈍る。俺の業界ではそれは死に直結する。

「『喉を潤せる新鮮な水と食べ物さえあれば、何の不平も言うべきではない』という先人の言葉もある事ですし」

 それを口にした瞬間、何かに思い当たった。同時に目の前の理事長も俄かに瞠目している。

「それは、どなたの?」

「【エディー・リッケンバッカー】という、一次大戦時のエースパイロットの格言なんですが——」

 そういえば先日の旅先で、

「——主幹先生も、似たような事を言われてましたね」

「そうなんです。事ある毎に口酸っぱく——」

「有り難い頂き物だ」と言っていたそれだ。それを

「——やっぱり、似てる」

 何故か理事長が得心して、失笑しているではないか。

 ——うわ。

 冗談ではない。あんな無茶苦茶な女と似ていてたまるか。

「軍人という共通点があるだけです。私にはあの聡明さはありませんし、無鉄砲な狂気に過ぎません」

 持ち上げておいて「ははっ」と笑ってごまかすと、

「それは違いますね」

 理事長にはっきり否定されてしまった。

「あなたが狂気なら、この世もそうでしょうね。私は有識者の分かりにくい正義よりも、あなたの素直な狂気に親しみを覚えます」

「はあ」

 参った。味方が極少だった俺の人生は、支持される事に慣れていない。例え篤実な理事長といえども、正直気味が悪い。

「私はたまたま教育に携わっていますが、別に人に褒められたような人格者でもなければ聖職者でもありません。大多数の愚かな人間の一人です。だからこそ知る・・事に対して敬虔でありたいと、いつも思っています」

 と言う理事長が、

「随分前に『理性的に知識を深めよ』と、ある御仁から教わった事がありましてね」

 何の意図を持ってそれを語ったのか。それを思い知るのは随分先の事だ。その時の俺などは、

 何処の世界でも——

 古今東西似たような事をいう人はいるものだ、と密かに苦笑したに過ぎない鈍さだったのだが。

「私は騙されませんよ」

「は?」

浅薄愚劣せんぱくぐれつにして談虎色変だんこしきへん繋影捕風けいえいほふうの出鱈目男」

「え?」

 愚かだが真実を知る捉えどころのないいい加減なヤツ、という意味らしいそれが、

「先生が赴任された日に紗生子さんが語ったあなたの人物評です」

 とは、実に紗生子らしい捻くれた批評だ。

「その実は大巧若拙たいこうじゃくせつの侮れない男だと。そこに関しては私も当初から同意見でした」

 普段は下半分・・・だけで散々バカにしてくれるものを。裏で余計な上半分を加えてくれていたものだ。

「今のご時世、被褐懐玉ひかつかいぎょくは逆に目立つというものですよ」

 その評価が一人歩きすれば、それを羨む荒んだ連中の的になる。只でさえ、紗生子のような美女を娶らされようとしているのだ。他人の嫉妬や悪意程煩わしいものはないというのに。

「先生の超然的な振舞は、世知辛い時代を生きる生徒達の中で密かに支持を広げている事をご存じですか?」

「いえ」

「ひょっとすると紗生子さんも、そういうところに興味を覚えたのかも知れませんね」

 噛み合わないまま、持ち上げられ続けてしまっていた。その裏に潜む何かの意図が嫌なのだが、逃してもらえない。そうやって面倒を押しつけられ、今日の俺があるというのに。が、結局、相変わらずの慈悲深い暖かさを湛える理事長に、

「私が知る紗生子さんというお人は、例えそれが偽装であろうと簡単に結婚するような人では決してありません」

 ついに柔らかくも、その意図のようなものをはっきりと言い切られてしまう。

「恐れ多いなんて突き放さずに。当たり前の夫婦として接していただけたなら、彼女をよく知る者としては嬉しい限りです」

 ——ぐげ。

 何故揃いも揃って俺の周囲のここ学園の女達は、男女の微妙な事で俺に絡むのだ。

「——あなたは彼女の知る・・苦しみに寄り添える方だと、私は思います」

 途端に目尻からハートマークでも飛び出しそうなウインクをかまされて、それをしたのが理事長という驚きと、それで押しつけられる相手があの紗生子という苦痛で

「う」

 思わず絶句する。

 何の座興なのか。ますます冗談ではない。


 そんなこんなで夏休みが明け。

 今、一見変わらぬ学校生活が再開した中で、水面化では俄かに注目を集めている俺だった。

「戻りましたぁ」

「どうした? 慣れない授業で疲れたか?」

 二学期が始まり、最初の週末を迎えた土曜日の最後の授業を終えた俺は、自分でも情けない程の衰弱振りを晒したまま主幹教諭室に戻った。

「それもありますが——」

 一週間がこれ程長いと思った事はないかも知れない。私立の進学校とくれば平日は全て七時間授業だというのに、それに加えて

「日本の私立校は、大抵土曜も授業があるからな」

 なのだ。

 ——どれだけ勉強すれば気が済むんだコイツらは。

 何でも、下手な塾に行くより学校の授業を受けていた方が身になるらしい。それがこの学校の売りでもあり、生徒達が集まってくる所以でもある、のだとか何とか。そもそもが、塾通いしてあくせく机にかじりつき、泥臭い学び方で受験に立ち向かうような苦学生などこの学園にはいないのだ。幼少期から勉強に慣れ親しみ、学ぶ事が自然で身近。加えて、決して安くはない私立校の学費を出す事が可能な恵まれた家庭環境の家に生まれた経済大国日本の申し子達とくれば、俺からすれば遺伝子からしてまるで別物のエリート達だ。

 只なぁ——

 そこに何処か脆さを感じてしまうのは、俺の僻みなのか。世界の粗暴で独善的な狂気をそれなりに知っている俺からすれば、有無をいわさずそれに対峙させられた時、ここで学ぶ生徒達が果たしてその培ってきた知識を武器にその理不尽さと戦えるのか。一歩引いて、戦わずとも立ち向かえるのか。もう一歩引いて、立ち向かわずとも生き残る事が出来るのか。そんな風に感じるのは、やはり恵まれた環境下で安穏の中に勉強してきた者達に対する

 ——僻みなんだろーなぁ。

 まあ、今はそれはよいとして。

 ——週休二日はどこへ消えたんだ?

 昔、俺が日本にいた頃、学校は既に週休二日制が導入され土曜日は休みだった。だから、

「半ドン、ってヤツですか」

「ああ。君が小学生の頃は確かもう——」

「休みでしたからね」

 俺の素性はしっかり押さえている紗生子だ。それにしても、

 ——どうやって調べたのかね。

 簡単にバレるような眩まし方をしているつもりはなかったのだが。まあそれも、今はとりあえずよいとして。

「実際に授業に出ると、確かに疲れますが——」

 アンの警護だけに徹していた時は、半ドンはそれ程気にはならなかった。校内が授業中だろうが何だろうが、本来の任務 潜入警護 は間断なく続いているからだ。実質、休みなどあったものではない。常に何かに気を配っている。それに加えて慣れない授業は、確かにそれなりに疲れた。だが一番の原因は、その授業の中身のせいだ。

「隙あらば授業が脱線して、馴れ初めを追及されるんですよ」

「ごふっ!」

 コーヒーを啜っていた紗生子が、珍しくむせた。

「——大丈夫です?」

「き、聞いてないぞ!?」

「そりゃそうでしょ。言ってないんですから」

「何だそれは。随分な態度じゃないか」

 瞬間で紗生子が沸騰しかけるが、

「そういうところですよ」

「何?」

 怯まない俺を意外に思ったのか、それがギリギリで止まる。

「圧倒的に立場が上のあなたが、何で俺みたいな冴えない男と国際結婚したんだって、みんな興味津々なんですよ。説明しようがなくて、もう弱り切ってて——」

「だから適当に取り繕えと言っただろうが!」

「そんな事、俺に出来ると思います? ホントに?」

「——むぅ」

 そこは安定的に評価が低い俺だ。否定されないところが少し悲しかったりするのだが。当然、そういう配慮をするような紗生子ではない。

「そもそも、コンタクト・・・・・で覗いてたんじゃないんですか?」

「ずっと覗ける程暇じゃないんだよ!」

「まぁ授業中ずっと突き上げられる訳でもないので。隙あらばですからね」

「だから何故報告しなかったんだ!」

「だから、そういうところですよ」

「だから何が!?」

「そんな圧倒的に強いあなたと俺じゃあ、どう見てもチグハグなんですよ」

「それはさっき聞いた!」

【ダンッ!】と、一畳分は軽くあるプレジデントデスクを平手打ちした紗生子だったが、

「とりあえず一週間、いろんなクラスを回ってみて、どんな内容を突き上げられるかまとめて報告しようと思ったんですよ」

 いくら適当に繕えと言われているとはいえ、俺の気分次第で答えがコロコロ変わってもまずいだろう。

「適当に答えてよい事と、まずい事ってのがあると思います」

 そんな理由を吐くと、女傑のその手が俄かにそのまま固まった。

「——まぁ、そうだな」

 珍しく知恵を絞ったか、と最後だけ甚だ余計だ。

「——で、具体的にどんな突き上げを食らったんだ? この一週間で?」

「そうですね——」

 馴れ初めに始まり、結婚記念日は、日本の公務員が外国の軍人と結婚出来るのか、籍や生計はどうしているのか、届出は何処へしたのか、名前はどうしたのか、

「っていう、中々真面目に練らないといけない内容から——」

「何だ? まだあるのか?」

「ええ」

 第一印象は、どんなところが好きか、何処に惹かれたのか、どう呼び合っているのか、家庭内ではどっちか上位か、同一職場でやりにくくないか、どのくらいつき合ったのか、プロポーズはどちらがしたのか、指輪はどうしたのか、式や披露宴はしたのか、婚礼衣装を撮っていなかったから噂通り文芸部の旅行中に撮ったのか、新婚旅行は何処へ行ったのか、まさか文芸部の旅行がそれか、喧嘩はするのか、した事はあるのか、価値観は一致しているのか、お互いの趣味は、結婚生活で大切にしている事は、将来的に子供は何人欲しいか、

「——等々で」

「授業になってんのか、それで?」

 プライベートに食い込む興味本位丸出しの内容まで。まあだからこそ噂が噂を呼び、偽装結婚させられる羽目になったのだが。

「ともかく、それで君はどう答えたんだ?」

「『主幹先生に許可を取らないと話せません!』の一点張りを貫きました」

「——それでいいじゃないか」

「あ、でも『どっちが上位か』って質問だけは、『そんなモン聞かなくても分かるだろうが』と答えましたが」

「——まぁそれは別にいいが」

「興味本位の質問ははぐらかしてもよいとして、コードネームのステータスを揺るがし兼ねない事柄は——」

 きっちり決めておくべきだろう。籍や名前など、アイデンティティーに関わる部分は、エージェント活動上疎かに出来る内容ではない。

「それもそうだな」

「『それもそうだな』って、主幹ともあろうお方が今更ですか!?」

 そもそもが、そのステータスに夫婦という文言をつけ加えただけ、というその杜撰さこそが、聡明な紗生子からすればどう考えても異常である。

「だからさっきから何だその言い種はっ!?」

 調子に乗ってんのか! と、短気で気難しくもある紗生子が瞬間で激昂するが、

「俺は、きちんと決めときましょうって言い続けてたんですよ!」

 だったのだ。それを紗生子が、

「一方的に『めんどくさい』とか『適当に決めとけ』とか生返事ばかりで——」

 気がついたら一週間が過ぎていた、という訳だった。

「普通って言ったら何ですが、大体がこういう事は世の中じゃあ、女性の方が大事に育んで決めるモンでしょ!?」

「そんじょそこらの柔な女共と一緒にするな! 私は同族のそんななよなよ・・・・したところが大嫌いなんだ! それを人格否定の上当てつけとは男としてどうなんだ!?」

「いや否定してる訳じゃなく——」

「そうだろうが! さっきから!」

「お、おかしいのは主幹の方でしょう! 偽装とはいえ結婚まで思い切ったくせに、肝心な事は投げっ放しで! 珍しくあからさまに適当で! そりゃあ俺なんかと結婚させられりゃあ、不本意なのは分かりますが!」

「誰もそんな事は言ってないだろう!」

「じゃあ何でですか!」

「だからその!」

「わーい、離婚だ離婚だ」

 そこへふらふらと、アンが入って来た。この小娘は警護対象だけに、関係者以外立入禁止の主幹教諭室に自由自在に出入り出来る数少ない生徒の中の一人だ。というより、授業も部活も受け持っていない主幹教諭に用事があるような生徒など、他にいよう筈もないのだが。

「やっぱり俄か仕込みの夫婦は息が合わないねぇ」

 痛いところを突かれた俄か夫婦が揃って苦虫を潰す中、

「何の用だ?」

 妻の方が吐き捨てるようにアンを詰問した。

「別にぃ。夫婦のくせに二人切りでオフィスに籠ってるから、良からぬ事でもしちゃいないか確かめに来ただけよ」

「いい気なモンだな全く」

「どっちがよ!?」

 旅行中の作戦にかこつけてあんな写真なんか撮って拡散された迂闊な誰かさんにだけは言われたくないわ、と中々容赦ないアンに

「ちっ」

 あからさまな舌打ちの紗生子だ。言い返せない程の痛恨事、という事らしい。

「ねぇセンセー、こんな妻となんか早く離婚しちゃいなさいよぉ。私ならツンデレのめんどくささなんてないし」

「誰がツンデレだ誰が」

「痛いとこ突かれると敏感よねぇ。反射で反撃する感じ? 流石KK」

「KK?」

「【Knockoutノックアウト Kingキング】の略。聞いてない?」

「ええ」

 グリーンベレー時代の異名らしい。何でも、無敵を誇る強さで恐れられていた、とか何とか。

「女扱いされてなかったのよ。キングだからね」

「一々うるさいぞ!」

 その啖呵と共に、俺にじゃれついていたアンと俺の僅かな隙間を縫って、何かが空気を切り裂いた。【カッ】と鋭い音のした方を見てみると、延長線上の壁に鋭利な何かが突き刺さっているではないか。

「ねっ! KKって呼ばれるの分かるでしょ!?」

 と言うより、

 ——物が突き刺さるような壁か?

 石膏ボード製と思われるそれに、物を投げつけて突き刺すなど。

「く、くない? ですか?」

 まるでリアルくノ一だ。

「用がないなら帰れ。気安く入るなと言ってるだろう」

「だから用があるから来たんじゃないの」

「ならさっさと用件を言え」

「だから俄か仕込みの夫婦がいちゃついてないか確かめに来たんだって」

「帰れ!」

 また手を振りかぶった紗生子だったが、今後は物は飛んで来なかった。

「おーコワ。刺されない内に退散しよ。私とならデレデレで、お互いラブラブで丸く収まるのに残念ねぇ」

 早く離婚してね、とハートマークでも飛んで来そうなウインクを俺にしたアンは、とりあえず目的を達成したらしい。言われるままにそそくさと出て行った。

「——何、だったんですかね?」

 紗生子は折角の美貌も台無しといわんばかりのへの字口で、目を怒らせて、片肘をついて、足を組んで、外を睨みつけていて。それでも絵になるのところがこの女の凄いところなのだが、これではステータスの話どころか、まともな会話すら出来そうにない。


 週が変わって、八月末日。

 俺は何故か、突然校長室に呼び出された。呼んだのは勿論、その部屋の主たる校長である。

「いくら夫婦と言ってもだね——」

 同じ部屋で二人切りというのは如何なものか、そもそも何故夫婦である事を隠していたのか、などと。公表してから既に二週間がこようというのに、

 この時差って——

 何なのか。

『我々をよく思わない連中を代表して、その元締めたる校長が重い腰を上げたって事か』

 耳の中のイヤホンに、絶妙なタイミングで紗生子の説明が入る。

「別にやましい事はしていません。未報告の件については全てに任せていたので。主幹先生にお尋ねください」

「私は君に聞いとるんだ!」

 とは要するに、恐ろしくて紗生子にはとても聞けない、という事のようだった。当然、呼び出されたのは俺一人であり、紗生子は呼ばれていない。

『確かに私には何も言ってこんな』

"そりゃあ、あなたを相手取ってずけずけ聞ける人は中々いないでしょう"

 当然紗生子は、上司権限を駆使して勝手に俺のコンタクトや指サックにアクセスしては覗き見聞きしている訳で、同席しているも同じだ。

「答えたらどうなんだ!?」

 当然、目の前の校長にはそんな事は分からない。

『どう言う意味だ?』

"言葉通りの意味だと思いますが"

じゃなくて、君に聞いてるんだよ』

 校長の話を殆ど上の空の片耳で聞いている俺は、イヤホン越しに紗生子の声だけを拾っていた。実は夫婦のステータスの件で、未だ俄かにやり合っているからだ。それにしても躊躇なく【狸】と吐くところが如何にも紗生子らしく、つい噴き出しそうになって困る。紗生子なら、本当に対面していてもあからさまに言いそうだ。

"あなたには聞けないから、言いやすい俺に聞いてるんでしょ。それだけの事です"

『相変わらずのナメられ癖という訳か。懲りないヤツだな君も』

"これが俺の甲斐性ですから。嫌ならさっさと首にしてください"

『本当に君は、随分と言うようになってくれたモンだな』

"まぁ曲がりなりにもあなたの旦那ですからね"

 まさか目の前で夫婦喧嘩をしているとは思わない校長は、

「大体君らはなぁ——」

 延々と日頃の紗生子に向けられない鬱憤を俺にぶち撒けてくれていた。俺が紗生子に言わないと目論んでの所業か、それともふっ切れての所業か。

 ——違うな。

 ふっ切れていたら紗生子も呼び出しているだろう。要するに弱い物いじめしか出来ない、悲しい中間管理職の典型と言うヤツだ。

 それにしても——

 教頭と甲乙つけ難い校長の頭もまた、バーコードリーダーでスキャン出来そうな程に見事なもので、加えて典型的なポマード臭というか加齢臭というか。薄毛に悩むその苦悩を思うと気の毒な事ではあるが、この横暴振りを目の前にしていればついよからぬ悪態が脳裏に浮かび、それだけで噴き出しそうになる。

『しかしまあ。のべつ幕なくとはよく言ったモンだな。誰かさんに似て愚痴が過ぎるぞ、このバーコード狸は』

 ——余計な事を!

 瞬間で俺の喉に何かが迫り上がってきたのを、後の先で慌てて力んで締めた。我慢を強いられる余り喉や顔面が小刻みに震えてしまう。

 似たり寄ったりの年代の校長教頭コンビは、何処かしら弱腰の教頭に対し、

「始めから気に入らんかったんだ! 内閣府だの米軍だのと! 何処の馬の骨とも分からん連中が幅を利かせおって!」

 校長とは接する機会も殆どなかったのだが、あからさまに高圧的なところを見るとどうやら敵認定されていたらしい。俺達をよく思わない一定数の職員の支持を大義名分に、ここぞとばかりに吐き出しているところへ目の前で噴き出してしまってはまずいだろう。

『今春、赴任と同時にいきなり論破したのがまずかったようだな』

"論破、ですか?"

『ああ。何処かの誰かさんのように拙くてな、あの口は。ついコテンパンにしてしまった』

"そりゃあ——"

 普通、怒るに決まっている。その上で紗生子は、

『一方的に校長の職権の一部を私が奪ってしまったしな。その怨念なんだろう』

 アンにまつわる事情絡みで、校長の責任において掌握されるべき施設設備管理権の一切、及びその人事管理権に服す必要がない権利、つまり人事に関する一切の拒否権を握り。更には学園職員ながら職務専念義務免除の特権まで持っているのだから、校内では完全に糸の切れた凧であり孤高の存在だ。

 如何にアンのためとはいえ、表向きには内閣府からの出向中の事ならば、その指揮下に入るのが筋としたものだろう。が、裏事情がそれを許せるものではない事もまた事実。としたものならば、学園学校に服さない事に加え、TPO度外視の高飛車振りを貫く紗生子なのだ。止めが機密である事をよい事に説明の一切を省略し、事情を知る理事長の権限を発動させて特権をまかり通したとあれば、

"——誰だって怒るでしょうね"

 正確には説明出来ないだけなのだが、それは永遠に理解してはもらえないだろう。まさか政府直掌の諜報部員などと、誰彼構わず説明出来よう筈もなく。それこそ校長本人の言葉通り、何処の馬の骨とも分からぬ一学校の校長程度の男にそれは到底無理な話だ。

『こちらからしてみれば、逆恨みされているようなモンなんだが』

"狸の立場からすれば、長年かけて築き上げた今の地位を一瞬でぶち壊されたも同じでしょう"

『そんな勘違いをするヤツは、頭をスキャンしてやればいいんだ。自分の値打ちが分かるだろう?』

 また慌てて喉に力を込めて踏ん張る俺だった。何故、こんなしょうもない事で意見が一致してしまうのか。今度は腹筋にも力を入れないと震える声が漏れそうになっているのだが、こういうユーモアに長けた国に最近まで滞在していた身とあっては、つい悪乗りしてしまう。

"意外に高いかも知れないじゃないですか?"

『精々数百円程度のモンだろ?』

"安っ!"

 小学生低学年レベルの小遣いの値打ちだが、それでも独特の異臭を放つ小面倒臭い親父を求める人が果たしてどれ程いるだろうか。

『これでも高く見積もってやったつもりだがな。狸のぬいぐるみや置物なんか、百円均一の店でも売ってるだろう?』

"そうなんですか?"

『じゃないのか? よく知らんが。何でもあるぞ? 最近の百均は』

 そもそもが、いつもゴージャスな雰囲気の紗生子の口から【百均】というフレーズが出て来る事自体、意外なのだが。で、早速調べて見ると

"ありますね、両方とも"

『だろう?』

 俺がコンタクトに展開した検索結果を見て、ケタケタ声に出して笑う紗生子である。思いがけず

 ——庶民的、なのか?

 底知れぬ知識量を思わせる紗生子のそれは、そんなところにも及んでいるらしい。

 と、つい顔が緩んだところを、

「さっきから何だと思っとるんだ!」

 校長に見咎められて【バン!】と机を叩かれた。が、同じ事をしても紗生子の方が音が大きいし、そもそも迫力が違う。どうやら贔屓目に見ても器が違うようだ。その上目の前の狸は、見るからに手を腫らして痛そうで。それを我慢しているザマだ。

 ——やれやれ。

 この分だと、例え紗生子が本当に正規の教職員だったとしても到底御す事など出来ないだろう。

『まぁそろそろ終わらせてくれ。流石にいい気分はしないしな』

"校長に言ってくださいよ"

『さっきから塞がらないあの大口に銃口を捩じ込んでやればいいんだよ』

"無茶苦茶言いますね"

『侮辱やパワハラのオンパレードなんだ。過剰防衛は得意だろう?』

"本気で言ってます?"

 そもそもが正当防衛は、基本的に生命、身体、財産に対する急迫不正の侵害を前提とした解釈なのだ。成立する訳がない。もし実力行為に出ればそれは只の暴行であり、程度が大きければ傷害だ。

『だから超法規的措置があるって言ってるだろう』

"私は好んで牢屋に入る趣味はありませんよ"

『いつまで経っても煮え切らんヤツだな。だから安定的にナメられるんだ君は』

 以後紗生子は、何も言わなくなった。覗き見聞きに飽きたらしい。

「そもそも君と主幹先生とでは釣り合わんだろう? 一体何を考えて一緒になったんだ?」

 そんな事——

 一々嫌味ったらしく言われなくとも本人が一番分かっている。

 分かっちゃいるが——

 それを他人から聞かされるのは、特にそれがこのクソ親父・・・・の口から聞かされるとあってはやはり耳障りだ。本当に超法規的措置が通るものかどうか、試してみるのも一興かも知れない。


 翌日、九月一日。

 日本では【防災の日】と位置づけられ、それに関連して各地で防災訓練が行われるものだが。

「何で日本では、今日が防災の日か知ってる?」

「関東大震災の教訓ですよね」

「ご名答」

 それを問題にするアンの、日本に対する愛にはすっかり慣れたが、

 このイレギュラーには全く——

 慣れない。という俺は主幹教諭室にいて、周囲にはアンを始め紗生子に佐藤先生とワラビーというCCの面々。そしてその円の中心には、何故かロープでぐるぐる巻きにされて正座している、というかさせられている

「な、な、な、何なんだ君達はっ!?」

 慌てふためく校長がいた。

「同感です。どなたかに説明を求めます」

 まさに今の校内は防災の日らしく避難訓練の真っ最中で、俺はちょうど校内東側に位置する校舎内から西側の多目的広場に移動する生徒達を誘導していたというのに、問答無用でイヤホンに轟いた紗生子の

『全員集合!』

 という玉声で呼び出されたのだ。そんな名前のお化け番組が過去に、

 あったような——

 なかったような。そんな悠長さでその根城に駆けつけると、この有様だった訳で。

「さっぱり理解出来ません」

「そ、そこにいるのはシーマ先生か!? は、早くこのロープを解いてくれんか!?」

 と叫ぶ校長は、誰の物だか知らないが学校指定のサブバッグを頭から被らされ、ご丁寧にチャックまで締められていて中々の間抜けっ振りだ。

「——解いていいんですか?」

「あえて説明がいるのか?」

 この状況で、と、早くも業を煮やした紗生子が、その艶っぽい唇をワナワナ震わせながら口を挟んだ。

「だってぱっと見でこれって、逮捕監禁状態じゃないですか」

 つまりは犯罪だ。

「おや? 詳しいのか?」

 俺の素性など恐らく完璧に押さえている紗生子が、またわざとらしく吐き捨てる横で、

「そんな悠長な状況じゃないんだけどね」

 ワラビーはライフルを無造作に提げて、マガジンをポーチに突っ込んでいる。それは夏休み前に、紗生子が【猿の文吉】を狙撃した時の【M700】とくれば、確かに悠長ではないらしい。

「今から約五分前、学校に爆破予告電話がかかってきたんです」

「ええっ!?」

 と、やはり夏休み前の組事務所襲撃作戦時に、俺が使わされたサブマシンガン【MP5】を手慣れた様子で準備する佐藤先生の、その説明に驚くのは俺だけだ。他は既に共有済みらしい。

 ——やれやれ。

 相変わらずの女性陣の有能振りにして、疎外感というヤツか。

「ちょうど避難訓練中で、教職員総出の間隙を突かれてな。電話を取ったのが職員室で留守番中のこのバーコード狸だったんだが——」

 既に本人を目の前にあからさまな侮蔑で、それこそ文言の内容だけなら侮辱罪に抵触する事もお構いなしという容赦なき紗生子によると、その電話のやり取りの中に爆破を予告する会話はなかった、とか何とか。

「——何で分かるんです?」

「恐れ多くも拝聴させていただいたからさ」

「はあ」

 またそんな微妙な行為を、さらっと口にする紗生子だ。この学園にかかってくる電話は全て録音されており、紗生子はそれをすぐ確認出来るそうで、しかも

「相手の番号から発着履歴を押さえて手繰ってったら、中南米の麻薬カルテルの武闘派共に繋がってな」

「そんな事まで——?」

 そもそもそういう電話は非通知の筈だろう。それに発着履歴は無令状で調べられるものでもなければ、解析にはそれなりに時間を用するものだと思っていたのだが。

「分かるんだよ」

 一々説明させるな、と言いたげな紗生子は、今日は米国コルト社製アサルトライフル【M4】を手にしている。

「そんな連中と校長が、何で——?」

 繋がっているのか。

「わ、私は知らんぞ! そんな連中!」

 が、校長の携帯の発着履歴にも、やはり連中の番号が確認されたらしい。

「派手に遊んでたからねぇ、校長センセは。キャバクラで、ねっ?」

「し、知らん!」

「まりんちゃんがお気になんでしょお?」

「な!? し、知らんぞ!」

「——只酒程、怖い物はないのよ? お殿様?」

 しばらく戯れていたワラビーの、最後の一言で校長が節句した。

「お殿様?」

「そう呼ばせて調子に乗ってたんだって。このバーコード狸さんが」

 すっかりその二つ名が定着しつつあるこの校長なら、如何にも言いそうでやりそうだ。

「——エージェントは、いろんな所に出没するんですね」

「まぁね」

 と言うワラビーによると、校長は物の見事に只酒漬の女漬で、いとも簡単に操り人形に成り果てたのだとか。

「代表電話なんて取った事もないくせに、すぐに取ったので。明らかに不自然でしたよ」

 と言う佐藤先生は、数少ない留守番職員の一人だったらしく、

「『爆破予告だ!』って叫んだ次の瞬間に、一一〇番しましたからね」

 当然それも、かけた振りだったようだ。そもそもが校内で緊急事態が発生した場合、まずは主幹である紗生子に連絡する事になっている。本来の緊急通報は何をおいても迷う事なくまず通報が原則だが、デリケートな身柄を預かる学園の事でもある。よって校内の施設管理権限を持ち、その上二四時間常駐している紗生子にまずは判断させる手筈の筈が、

「——という事は?」

「ここまで説明すれば、いい加減理解出来たろうが」

 要するに電話のやり取りは、校長を使ってCC側に騙し打ちを目論んだ相手方の愚策にして合図だったらしい。酒と女に塗れた校長は、当然それに従う外に道はなかったようだ。

「こんなのが校長ってのもどうかと思うが、何をおいてもつくづく男ってのはホントバカな生き物だな」

 それを見事に紗生子にこき下ろされてしまい、

「面目ありません」

 つい男を代表して謝らざるを得ない俺だ。それに相変わらず苛立つ紗生子が

「ほれ。君はこれだ」

 矢継ぎ早に、俺に一丁のピストルを差し出した。

「コルトM1911A1、ですか」

「流石に詳しいな」

ICPO国際刑事警察機構のル○ン担当警部さんの愛銃とかで」

「——何の話だ?」

「私が教えてあげたの。色々と。ねぇセンセ?」

 サブカル三昧のアンに毒されつつある俺の口が、つい迂闊を吐いてしまった。紗生子の真面目な示唆に、俺の無駄口が文字通り火に油だ。それを見たアンの

「歌舞伎役者みたいねぇ」

 というわざとらしい追い油で

「やかましい!」

 まずは一発、爆発した。

「うわコワ。妬かない妬かない」

 俺の背中に隠れるアンに、溜息をも震わせる紗生子だ。が、流石に構っている場合ではないようで。とりあえず忌々しげに鼻を一つ鳴らした後、

「——その知識があれば、説明はいらないようだな」

 目を怒らせながら言った。

 軍人として、自分が手にする可能性のある物の事を学んでおく事は、任務上の生存率に関わる重要事だ。だから当然、ある程度真面目な事も言えたのだが。文字通り、後の祭りだ。

 一次大戦時に登場した一世紀超えのロングランシリーズにして、一時期はその威力から【ハンドキャノン】とも称された名器【コルトM1911A1】。が、大口径のそれも寄る年波には勝てず、

ストッピングパワー命中時の行動不能指数はそれなりに期待出来るが、防弾ジャケットは貫通しないからな——」

 それでもそれを持ち出すのは、やはりSATとシェアリングしているからなのだろう。が、それでも合わせて渡された弾薬は【.45スーパーACP(Automatic Colt Pistol)弾】で、四五口径用の強化型弾薬だ。当たれば痛いでは済まない。何せ常装しているグロック19 の【9x19mmパラベラム弾】の威力の約二倍はあるような代物だ。それを、

「——躊躇なく撃て」

 紗生子は冷めた顔つきであっさり言い切った。

「攻めて来るぞ」

「はあ」

 真面目になったところで、

「何だかんだ言って一々説明するし」

「シーマ先生には優しい? ですよね?」

 その様子をワラビーと佐藤先生に突っ込まれ。

「夫婦だもんね。そりゃあ」

「当然? ですよね」

「主幹先生だけそんな役得ってありぃ?」

「ずるい? ですよね」

 後は「私も私も」などと大合唱を前に、揃って苦虫を潰す俺達夫婦だ。

 どうも——

 締まらない。


 五分後。

 南側の校門前にセダンと、その後ろにつき従うマイクロバスが各一台ずつ出現した。それぞれ天井に着脱式のパトランプをつけて煌々と回してはいるが、コンタクトの倍率を上げて乗車している面子を見てみると、

「戦闘員ばかり——ですね」

 見事に黒尽くめの戦闘服を着つけているヤツらばかりだ。普通は背広の捜査員も臨場するものだが、

『後から来るんだろう』

 それを紗生子が、失笑ついでに吐き捨てた。

『何処から?』

『キャバクラから? ですか?』

 俄かに話が逸れる中で、俺は真面目に相手戦力の分析だ。セダンに四人、マイクロバスにはフロントガラスから見える限りほぼ満員。総勢で一個小隊規模といったところか。

「——多くないですか? これ?」

 しかもぱっと見で、日本人は運転手とか案内役の人間しかいないようで、残りは全て屈強そうな欧米系の外国人ばかりである。これが全員、

「ヒットマンって事ですか?」

『そのようだな』

 アンの身柄と引き換えに、服役中の組織の幹部を取り返そうとしている

『——ってとこだろうな。うちのお姫様は敵が多くていかん』

『お姫様だから狙われやすいのよ』

 と割り込んできたアンには、最近では七つ道具をつけさせている。連れ去られたり、隙をついて脱走されたとしても位置探査が出来るから都合が良いのがその理由だ。が、

『作戦中は黙ってろ』

 いくら普通の肝っ玉ではないにしろ、そこは素人のアンならば邪魔になるし、下手な手出しは命に関わる。そのアンは引き続き、紗生子と共に主幹教諭室という名の司令部で籠城中だ。因みに校長も右に同じで、もっともそれは監禁と呼ぶのだが。

 正門前に偽警察車両が止まったところで、常時閉門している重厚かつ洒落たスライド式鉄門扉が自動で開いた。遠隔操作で紗生子が開けたのだろう。すると、落ち着き払った二台の車が道なりに静々と、北寄りにある本館に向かって再始動する。

「応援の手を借りた方がよいのでは?」

 学校周辺には、CCエージェ仲間達ントが交代で詰めている筈だ。が、

『本社の応援も含めて、後片づけの準備をさせているからな』

 で、今はいない、とか。

『どっちみち、ドンパチは校内に収めないといけないんだ。白昼堂々中に仲間達エージェントを招き入れる訳にもいかん』

 それに、

『こんな連中にやられるようじゃ名折れだな』

 という事で、相変わらずの自信である。

『理事長には作戦終了まで避難訓練を続けるよう伝えてある』

 有事における避難先は、校内においては多目的広場の地下にある広大な避難施設だ。学園敷地の西半分中央部の地下を丸ごとくり貫いて造られたその施設は、まさに地下シェルターと呼ぶに相応しい代物で、地下で繋がっている校内各施設から逃げ込む事も出来る。災害大国にして地政学的にもミサイルが飛来し兼ねない昨今の日本の事。グラウンドに避難するのは、もう古いらしい。

『職員室の留守番役も、全員訓練に参加してもらいましたから』

 佐藤先生が一人で留守番を請け負う形で、拉致され兼ねない残留職員を追い出した。その佐藤先生は所持する武器サブマシンガンに相応した前衛であり、玄関傍の職員室で敵を待ち受けている。

『こっちもいつでもオッケーよ』

 と言うワラビーはライフルらしく最後衛で、一見して見えないが屋上のあちこちを移動しているようだ。

「しかし、ホント白昼堂々どうなんですかね? こいつらも」

『それだけナメられてるんだろうな』

 一気に制圧してアンを掻っ攫って逃げるのか、それとも籠城するのか。何れにせよ、校内関係者を一網打尽状態で制圧出来る避難訓練を狙ったのは

『制圧ありきのナメ切った所業って事だ!』

 言葉尻を荒げた紗生子の先制弾がいきなりセダンの運転手を襲った。途端に速度とコントロールを失った車が、すぐ傍にあった掲揚台に衝突して止まる。合わせて後続のマイクロバスも不自然な急停車すると、

『作戦開始! 一気に片づけるぞ!』

 プレイングマネージャー紗生子の声で開戦した。正面玄関傍の下駄箱に潜んでいる最前線の俺の目の前で、瞬く間にセダンとマイクロバスが蜂の巣になり始める。

 ——マ、マジかよ。

 学校側の射手は僅かに三人だというのに、正確な狙撃で撃ち漏らしが殆どない。因みに最前線の俺の役割は、一応男らしくそれなりに肉弾戦が使える事を評価されて、他三人が撃ち漏らして車外に逃れ出て来たヤツを仕留める役なのだが、

 まるで——

 出番がない。然程待ち構える事もなく、早々と二台の車は形を変えている。辛くも車外に逃れ出て来るヤツもいる事はいるが、俺が止めを刺すまでもなく既に戦闘不能状態の連中ばかりだ。一人また一人と車の周りに折り重なり始めて三分後。

 どっかで見たような——

 絵に描いたような蜂の巣だった。唖然とする俺の目の前では、シューシュー音を発して煙を上げる二台の車に、重苦しい呻き声を漏らすムサい野郎共が塗れている。そんな、局所的な戦場の残骸。

『ゴロー、報告』

 紗生子の変わらぬ声が、呆気に取られて目を瞬いている俺のイヤホンに届いた。紗生子の位置でもコンタクトによる赤外線の動体感知は可能だろうが、一応直近にいる俺の肉眼で確かめさせるところなどは流石の冷静さだ。

「——反撃意思なし。制圧状態と思われます」

『投降を呼びかけろ。一分以内だ』

 指示通り、日本語と英語で呼びかけたところ、一個分隊程度が両手を後頭部に当てながら車外にまろび出て来て跪いた。揃いも揃って、車内でうずくまって手も足も出せなかった連中という事だ。肌の白いヤツや黒いヤツ。中には赤や黄色いヤツもいる。

 人種の坩堝だが——

 いくらなんでもこんな顔の彫りの深い警官が

 ——日本にいる訳ねぇよなぁ。

 何のコントかと見間違うばかりのザマだ。意気揚々、勝気満々で遥々来日したのだろうが、紗生子ではないが本当に取ってつけたようなナメた偽装で訪ねてくれたものだった。

 ——という事は。

 この連中を手引きした何処ぞの日本の組織は、例によって時をおかずして壊滅する事になるのだろう。

 そこへ何処からともなく、今度は颯爽と本物らしき警察の覆面パトカーと輸送車が、縦列で対になって赤色灯を点灯しながら乗りつけて来た。迅速にしてスムーズに止まった車両の中から戦闘服姿の隊員が整然と出て来ては、物も言わずに早速現場収集作業を開始する。

 ——嫌に熟れてるな。

 静観しつつも感心していると、

ワサンボン 佐藤先生 とゴローは現場で待機。応援要員の収集作業を静観し、必要あらば助太刀しろ。ジョーイ ワラビー は高所警戒を継続』

 つまり、紗生子の息のかかったCCの応援、という事だった。

 ——やっぱしか。

 流石の迅速さにして変装振りである。こちらは何処から見ても警察の機動隊員にしか見えない。と同時に、コンタクトの中にコールサインの羅列が展開し始めた。紗生子が戦時モードにしたようだ。

 ——全く。

 大したプレイングマネージャー振りである。文芸部の研修旅行では随分とメッセージボードで各員からいじられたものだが、流石に今はそれもなく。やる時はやる。無言のメッセージというか、ほぼ無役だった俺への当てつけというか。粛々と進む収集作業の中で見張りしか能がない俺が、そんな静かな非難の中においても耳目を配っていると、

『気を緩めるな、ゴロー』

 紗生子のその一言で【いいね】が殺到した。

「緩めてませんよ。心外だなぁ」

 その俺の耳目の端が、遥か遠くの飛来物を捉える。校内南側中央部に構える正門の遥か南方、約三km上空を飛ぶヘリは一見して明るい色調の民間機のようだが、

 あの辺は確か——

 自衛隊駐屯地がある辺りだというのに嫌に高度が低い。日本の航空法では、民間機の飛行高度はどんなに低くとも一五〇m以上ではなかったか。が、何故かそれよりも明らかに低空で、しかもホバリングしている。

 ドアを開けてやがるか——

 その程度は裸眼視力でも視認出来る俺だが、一応コンタクトの望遠倍率をライフルスコープ並みにしてみると、

 ——うわ!?

 いきなり、ヘリの扉を開放状態でドアガン支援用機関銃を抱えて打つ気満々のドアガンナー 専属射撃手 の姿が飛び込んできた。

「六時の方向にスナイパー!」

『総員退避!』

 俺と紗生子の絶叫が被った瞬間、目の前に凄まじい弾幕が襲来する。あっという間に、敵方が乗りつけた車両が二台とも爆発炎上した。

 その寸前で、また本館の物陰に飛び込んだ俺を始め、流石にCC側は全員素早く回避したらしく、コンタクトのAR拡張現実機能のグリー味方ンに異常を示す判定は見られない。一方で敵方は、車諸共物の見事に炎の餌食だ。

 証拠隠滅か——

 敵も中々、容赦ない。

 ——くわばらくわばら。

 立ち込める火煙に向けて敵の盲撃ちが玄関前を襲う中、早速北側屋上から破裂音と共に火線が飛び始めた。ライフルマンワラビーの反撃だ。が、三km先は流石に簡単ではないだろう。ここまで数秒。

 とりあえず——

 敵方の次のターゲットは主幹教諭司令部室だろう。ならば俺は、アン司令官紗生子の応援だ。が、本館傍を駆け出したところで司令部の窓が、

 ——なっ!?

 またいつぞやのように豪快に開け放たれる。次の瞬間には勢いそのままに

【ボン!】

 と、細長い何かがひょっこり飛び出した。か思うと瞬間後、

【シュウゥッ——!】

 と、その尻から閃光と共に白煙一束。呆気に取られて思わず足を止めた俺に構わず、迷いなくも南天へ飛び去って行く。

「ミサイルか!?」

 そんな間抜けな声で追い縋るつもりもなければ出来るものでもなく。【白い矢】は一目散に、近隣の建物の屋根を掠める低空で文字通りの猪突猛進だ。これまた白昼堂々、日本の市街地で飛翔するその煙幕は、或いは白昼夢か。

 驚く間もなく十数秒後には、辺りに鈍重な爆発音が届いた。コンタクトで確認するまでもなくヘリは落下。撃墜したらしい。

「——マジかよ!?」

 市街地で、といっても、あの辺は自衛隊駐屯地なのだろうが。それにしても平和な日本でこんな事が有り得るのか。銃が蔓延る本国でさえ、白昼堂々飛来物をミサイルで撃墜など聞いた事がない。

 主幹教諭室の窓からもうもうと立ち込める煙が薄れる中、唖然とする俺の耳に

『持ち場を離れるな、ゴロー』

 豪快奔放たる群鶏一鶴ぐんけいのいっかく迦陵頻伽かりょうびんがが届いた。

『校内の専従要員はそのまま持ち場で警戒監視を続行。応援要員は収集作業を急げ』

 暑い日本の夏の事。着衣に動きやすさと涼を求めてストレッチ系ワンピースを常用する絶美は、英姿颯爽にして枕戈待旦ちんかたいせんの本領らしく、これまでにも様々な飛び道具を手にしてきたが、ついに大砲だ。

 ——ワンピースと大砲。

 これまた一昔前にそんなタイトルの映画があったような、なかったような。それこそ後でアンに聞けば分かるだろうが、この様子だと次は戦車ぐらい出てきそうな勢いだ。

 こんなんで——

 果たしてこの学校は持つのか。

 発砲直後の大砲を無造作に下げたまま、司令部主幹教諭室の窓辺で不敵に仁王立つ魔女。その美しい赤髪が、砲煙に揉まれて蠢く様子が遠目にも分かった。


 その日の夕方。

 俺は、今度は理事長室に呼ばれた。どうも最近の俺は、何かと偉い人に呼ばれる星回りらしい。紗生子も一緒に呼ばれ、同道している。というより、俺がおまけだ。

「何で俺まで呼ばれるんです?」

「より多角的な意見を集めたいんだろう」

 で、理事長室の前で一応紗生子がドアをノックすると、中から入室を促す部屋の主の柔らかい声がした。校長室の時とはえらい違いだ。

「今日はご苦労様でしたね。まずはお掛けになってください」

 言うなり理事長が自ら給仕に動く。

「必要なら勝手にやる。気を遣うな」

 そう言いながら、今日は迷わず応接の議長席に座る紗生子だ。

「理事長、私が——」

 主幹教諭室で茶坊主に慣れてきた俺が、湯沸スペースに割って入るが、

「流石はご夫婦の連携ですね。息ぴったり」

 と冗談めかしく持ち上げられ、結局そのまま上座に座らされてしまった。

「佐藤先生や蕨野さんは——?」

「あの二人は本当の意味での潜入要員なんだ。非常時以外で目立った事は出来ん」

 それに襲撃直後の事でもあり、念には念で警護の間隙を作る訳にもいかない、とか。

「はい、お待たせしました」

 と、そこへ理事長が緑茶と和菓子の詰め合わせを持って来て。

「遠慮なく、ざっくばらんにいきましょう」

「すまんな」

 それなりに殊勝な紗生子に従い、俺も無言で給仕の礼をすると、早速紗生子が【リアル避難訓練】の顛末を説明し始めた。

 結果的に実戦闘については完勝、事前諜報については要改善、というのが紗生子の自己評価だ。CCの存在を知らない校長の甘い見立てに誘導された敵方の過小評価がなければ、実戦はもっと厳しいものになった筈だと言う紗生子の見解には確かに同意だった。

 あれ程の火力を持つ警護が、アンの周囲に巡らされている事を敵方が認識していたならば。敵の攻め口は全く違うものとなっていただろうし、それは今後警戒しなくてはならない事でもある。何せ証拠隠滅で、平気でドアガンをぶっ放すような連中だ。もっともそれを上回る紗生子のストックには、俺も驚いたのだが。

「何にせよ校長を泳がせ過ぎたな。もっと早く拐かしておくべきだった」

「拐かす?」

「ああ。ハイジャック犯にアンの情報を漏らした張本人だからな」

「そうだったんですか!?」

 という校長は、応援要員の収集作業時に一緒に収集されていた。後はどうなったものか。俺の知った事ではないが、空いた校長の席は当面理事長が兼任するらしい。

 その後の調べで、夏休みのハイジャック事件に限らずアンの情報がこの男からダダ漏れになっていた事実が明らかになるのはまた別の話。この校長を見る事はもう二度とないだろう。

「問題のある職員は、今後早めのアクションで先手を打つよう本社に伝えておく」

「そうですわね。今日みたいな事が頻発しては近隣にご迷惑がかかりますし」

「とはいえ校長を抑えたとて、攻め手がすぐに収まるとは思えん。しばらくはまだこんな事が続くと思っていてくれ」

 ——こんなドンパチがまたあるのかよ。

 その実戦の後片づけは、実戦以上に目を見張るものだった。物理的に、爆発炎上したバスの撤去など

 流石に——

 手間取るだろう、と勝手に思っていたのも束の間、すぐ様何処からともなくトレーラーとトラックがやって来て、瞬く間に敵方の車と人を何れかへ回収してしまったのだ。

「敵さん達は何処へ運んだんで?」

「横田だ」

 今後は【日本の米国】で、心置きなく日米双方の専門機関で調査して、

「双方、自国なりの始末をつける事になるだろう」

 という事らしい。

 一方で、それと入れ替わりでやって来た修繕業者の後片づけが、また異常に早かった。

「あの業者さん達もCCの面々で?」

 いくつもの草鞋を履き熟すのは分かるが、それにしては突出した技術力だったのだ。それもその筈で、

「いや、あれは校務の面々だ」

「ええっ!?」

 事前にこんな事態も見越して、CC本部と協力して極秘裏に校務の特殊チームを作っていたらしい。

「校務、の仕事なんですか? あれが?」

「ああ。よその学校の事は知らんが我が校における校務は、現状ある意味一番過酷で重要なポストだ。破鏡不照はきょうふしょうと言うだろう?」

「そりゃあまぁ——」

 校内であれだけ派手にドンパチされては、修繕は大変だ。例え局地戦が行われたとしても、一方で他の生徒の学校生活は滞りなく提供し続けなくてはならない。それが学園の義務であり責務だ。それが出来なければ、その不満が全ての元凶であるアンに向かう可能性もある。下手をするとエスカレートして国際問題にもなり兼ねないそれを、日本側としては当然避けたい。

「——再び照らさない・・・・・・・では、その他多勢は困るばかりですから」

 それを思えば、物を作り、直す技術の尊さは、まさに神工鬼斧しんこうきふだ。

「君を校務に据えなかったのは、正確には据えられなかったのさ」

「あの時は安直な事を口にしてしまいました」

 生徒アンケートで【使えないALT】のレッテルを貼られ、では「雑務員でいい」と拗ねた自分に凄まじい時間差でブーメランが突き刺さる。

「破壊だけが能の私には、到底務まりません」

 局地戦の残骸を晒すようなレベルでは校内の平穏は保てない。少し考えれば分かりそうな事ではないか。そのシビアな現実は、作戦開始から収集作業終了までにかかった時間が精々小一時間程度だったその短さにも現れている。その尋常ならざる修繕能力は、言葉を尽くしても評価し過ぎという事はない。とどのつまりが単純に、校務を担っている

「あのおじさんって——」

 只者ではないという事だ。

 学園事務局には還暦過ぎの非常勤職員で【校務の先生】と呼ばれるおじさんが一人いるのだが、後片づけ・・・・の時には当然見かけなかった。普通の職員ならば当たり前だが。

「高坂グループの元技師さんでして。【名工】と呼ばれた凄い方なんです。この春退職されたところを、無理を言ってお越しいただきましてね。後方支援の要です」

「——やっぱり」

「校務には世話になりっ放しでな」

 何と、武器の調達やメンテも一手に任せているらしい。

「民間人にですか?」

 名前すら知らない、地味で小ぢんまりとした好々爺然としたおじさんが、

「現役当時は、我が社CCの技術部門はあの人なしでは回らなかった」

 エージェントではないが、技師として出向経験を有するCCOBなのだとか。

「諜報機関といえども技術開発は企業頼みのところも当然あるからな。ああ見えて技術屋一徹で頼れる頑固親父だよ」

 職人肌で【技師の神様】とまで言われたとか。そもそも紗生子の口が男を頼るなどと。これは事件だ。

「にしても——」

 とてもそうは見えないのだが。

「あんなぼんやりしたじーさんが、CC時代はテクノクラー技術官僚トでな」

「はあ」

「母体の高坂重工で初のエグゼクティブフェローになった中々の豪腕だ」

「エグゼクテ重役ィブフェロー?」

「ああ見えて侮れんぞ、かずえちゃんは」

「かずえちゃん?」

「校務の佐川さがわ先生のお名前です」

「——主計しゅけい士官の主計かずえですか?」

「出たな。無駄な事は詳しい」

 普通の元台湾人の元フランス人で現アメリカ人が知ってるような事じゃないと思うがな、と白々しく弄ばれたが、つまりは現役当時の校務の先生の【本籍】は世界的な重工業大手の重役だった、という事のようだ。本当に、諜報機関の人間とは意外な所に

 ——いるモンだなぁ。

 今更ながらに改めて思い知らされる俺だった。

「肩書きはどうでもいいが、まぁ主計ちゃんの場合は腕のせいで肩書きに纏わりつかれたタイプだからな。そういう切れ者じゃないと任せられないって事だ」

 あんな何処にでもいそうな普通の、それこそ冴えないおじさんが、繰り返し紗生子の口に褒められるなどと。よからぬ予兆なのではないか。

「君と同じさ」

「はあ?」

「人は見かけによらん」

 俺の評価はどう捉えたものか、今一つ分からないからとりあえず放置するとして。重用に値する一介の技師は、

「——今度、それとなく挨拶しときます」

「そうだな。間違いなく校内では今後一番世話になるだろうからな」

 あえて聞くまでもなく、大抵の事情を承知するキーマンの一人という事だった。校務の特殊チームは、そんな校務の先生子飼いの精鋭達らしい。よく考えれば、警護陣も特殊なら後方支援も特殊で当然だ。

「校務チームを招集するのは大規模な損害が見込まれる非常時だけだ。本音を言えば常備したい面子だが、あんな専門職集団を囲える役どころが普通の学校にはないしな。だから一気呵成である程度直さないといけない時だけ頼る。後は主計ちゃんが一人、日常業務の中で何事もなかったかのように綺麗に直してくれるのさ」

 だから先にそれを

 ——言えっての。

 完全になくてはならない、見落としたらゲームがクリア出来ない重要な隠れキャラではないか。

「この学園にこんな方は、後何人ぐらいいるんです?」

「さぁなぁ——」

「まぁ知らぬが仏・・・・・と言う言葉もありますしね」

 しらばっくれる紗生子もそうだが、いつぞやの俺をあげつらう理事長も中々人が悪かった。そもそも普段温厚篤実なその観音様は、事情を知る学園側の人間は自分だけだと言っていたではないか。それを、

「私は学園側の人間・・・・・・と言いましたよ?」

 しれっとつけ加えてくれる。つまり校務のおじさんも俺達同様裏側で特別任務を与えられたエージェントであって、純然たる教職員とは違う、と言いたいようだ。間抜けに対する観音様の中に、思いがけぬ茶目っ気が覗く。

「——そうでした」

 そもそもがアラサーの若さで学園を切り盛りし、しかもアンのような面倒臭い身柄を引き受ける度量を持つ理事長だ。それも旧家旧財閥の栄華の生き証人たる海千山千の高坂一族の、その尊称に尽きない一員の事ならば、よくも悪くも癖の一つや二つ

 ——あるわなそりゃあ。

 という事だ。

「何の話だ?」

 顔をしかめる紗生子が相変わらずの詰問調で理事長を責めるが、

「知らぬが仏という諺の話ですよ」

「まんまだな」

「それ以上でも以下でもありません」

 こんなすっ惚け方で微笑みつつも、これまた様々な形容に尽きない魔女を押し切るところなどはまさにその所以だろう。これが俺だと今頃怒鳴られて、とっちめられている。

 しかしまあ——

 物理的損害の目は、こんな凄腕補修陣でごまかせるとして。派手な局地戦をやらかした筈なのに、メディアにまるで取り上げられていないという異常振りは気味が悪かった。

「【スティンガー】をぶっ放したのに、近隣が何も言ってこないなんて——」

「あれは自衛隊からの供与品だから【ハンドアロー】だ」

「そういう問題じゃあ——」

 ないのだが。どっちにしろ使いやすさが売りの携帯型地対空誘導弾で、目標をロックオンしてしまえば後は打ちっ放しでよいという呆れた性能を持つ。一昔前の物だと、発射時にロケットモーターの凄まじい爆炎が後ろに吹き出すため発射地点がバレやすいのと、狭所で撃つと射手の日頃の行状に関わらず丸焼きの刑に処せられるという欠点を有していたのだが。

「コールドロー二段式ンチだから校舎内から撃てて助かる」

 最新型はそれが当たり前で、第一段で推力の小さいブースターを点火させて上空に押し出した後、第二段でメインブースターを点火するという、使う側としては至れり尽くせりの、

「飛行機乗りには嫌なミサイルだろう?」

「まあ」

 少し撃ち方を教われば誰でも撃てる手軽さは脅威だ。それを扱い慣れているらしい紗生子に撃たれては、ドアガンを備えつけただけの民間ヘリなどでは躱せる筈もなく。

 ——堪ったモンじゃなかったろうなぁ。

 それはともかく、だ。

 流石にこればかりハンドアローはSATの物ではないようだったが、撃墜ポイントがちょうどそのサプライヤ自衛隊組織ーとあっては、どう考えても

 ——マズくない?

 筈がない。

 が、気味が悪い事に、近隣もだんまりなら自衛隊駐屯地もまるで音沙汰がなかった。

「ちょっとテレビをつけてもいいですか?」

「どうぞ」

 何も言わず相変わらず穏やかな理事長が、テレビをつけた後でリモコンを手渡してくれる。それを受け取ると早速ザッピングしてみだが、

「何で何処もかしこも、こんなに静かなんです?」

 夕方前の各局は、どうやら通常放送のままのようだった。

「校内は押さえ込めるとしても周囲は——」

「この程度なら許容範囲さ」

「はあ?」

「忘れたか?」

「何をです?」

「やはり安定的に鈍いな君は」

 理事長が相変わらずなら、一々癪に障る魔女の高飛車振りも相変わらずだ。

「ここは【高坂の街】だぞ? 周りはみんな味方だ」

「そう、ですが——」

 都内中北部に企業城下町を築いた世界の高坂グループは、自治体の名前を家名に変えてしまう程の隆盛を誇るその街の主である事に加えて、学園経営者は

「押しも押されもせぬ人徳の君だからな」

 その創業宗家の人間にしてその長子だ。

「この淑女が微笑んで協力を頼めば嫌と言える人間はいないさ」

「そんな事は。全ては皆様方のご厚情ですよ」

 とは本当だろうが、それ以上に

「周囲のお宅様には極秘裏に住宅の事前補強、有事の緊急連絡網、被害補償等に合わせて、予めご迷惑料という事で補助金をお納め頂いておりまして——」

 つまり財力に物をいわせて、黙らせるどころか完全に取り込んでしまっているらしい。元々近隣住宅に対しては独自に騒音対策を講じているとかで、

「——その延長ですわ」

「要するに、まぁ金だ」

 と紗生子が、俺にも分かりやすくまとめてくれた。半径数百m圏内、四桁の世帯に対して学園までの距離に応じて金を吐き出している、とか何とか。

「その上住民は大なり小なり高坂グループに絡んでいるからな」

 何せ城下町の住民なのだから、聞けば聞く程逆らえない構図が固められていくが如くだ。その原資は今のところは当然高坂グループなのだろうが、アンの留学ミッション終了後には、

「当然かかった経費は、成功報酬込みで国から貰うんだろう。高坂の事だからそこは抜け目ないさ。なぁ人徳の君?」

「さあ? 私には関わりのない事ですから」

「よく言うよ全く」

 それ以上の利権が国から約束される事は、想像に無理がないようだ。

「じゃあマスコミの方は?」

「高坂がスポンサードしてない媒体を探す方が難しいんじゃないか?」

 やはり、金らしい。

「じゃあ自衛隊は?」

「相変わらず聞くばかりだなぁ君は」

 知らぬが仏なんじゃなかったのか、と、ここぞの嫌味は流石の真骨頂だ。どうやら俄かにそのフレー知らぬが仏ズが引っかかっているようで、要するに隠し事をされるのが

 ——気に食わねぇんだろうな。

 自分が知らない事がある、自分が蚊帳の外に置かれる、等々。プライドが許さないという事だ。

 これだから——

 負けず嫌いは。敵を作らないと気が済まないというか交戦的というか。現代は人類史上で一番カラフルな時代に突入している筈なのに、俗世は狭量で何かにつけて白黒のシンプルな二色で決着をつけたがる。紗生子などは最も煌びやかな部類の人間だというのに、何とも皮肉なものだ。

 大体が紗生子は盗聴権限を持っている筈ではないか。恐らく何かの理由でそれをし損ねたのだろうが、それに言及するような愚は犯さない。それこそ火に油だ。そこへゲームチェンジャーの理事長が、

「実は今年度の【思いやり予算】は昨年度ベースで半減してまして——」

「——え?」

 また思わぬ事を口にし始めた。

 それは【日米地位協定】及び【在日米軍駐留経費負担に係る特別協定】を根拠に日本側が支出している【在日米軍駐留経費負担金】の事だが、近年では二〇〇〇億円前後で推移していた筈だ。それが

「半減、ですか?」

 とは只事ではない。それに加えて

「【米軍再編関係経費】も、アンが留学中は半額だからなぁ」

 飛行場や艦載機移動等で日本から米軍にもたらされるそれもそうだと、負けず嫌い・・・・・の口が吐く。近年では、それも思いやり予算程度で推移している事からすると、

「この三年間で六〇〇〇億は浮くんだ。いい小遣い稼ぎになった防衛省は喜ぶだろう」

 という事になる。それはそうだろう。表沙汰に出来ない金ならば、全てプールされる事になるのだ。小遣いどころの騒ぎではない。

「それが何で——」

 アンと関係があるのか。ついていけない俺に、

「アンを預かる代わりなんだよ」

「はあ!?」

 また分かりやすく、紗生子が乱暴にまとめてくれた。

「アンさんの人気振りは、お父様に負けず劣らずの加熱振りでございましょう? その熱冷ましのための留学でもありますから」

「その辺の裏話は——知る訳ないか」

「——俺が知ってるとでも?」

 紗生子があからさまに小バカにしながら嘆息する。

「軍人とはいえ国権の端くれだろうになぁ」

「娘さんの人気振りは、そりゃあ知っちゃいましたが——」

 何がどうなってその手間が六〇〇〇億の減額に繋がるのか。それがさっぱり分からない。

「色んな所を巡り巡った結果そうなったんだよ」

 私人だが、大物政治家の愛娘にしてその動向が一々注目される人気者。それ故その身の安否がその親を動揺させるのならば、巡り巡ってその愛娘の大事は彼の大国を揺るがすという事だ。きっとそういう事が色々と巡った、という事なのだろう。だから防衛省や自衛隊も、

「浮いた予算は表向きには例年通り米軍に供出された事になってるんだが、実際には防衛省の懐に収まってるんだ。ある程度の協力は当然さ。少なくとも三年間はな」

 で、撃墜したヘリの収集作業も自衛隊の全面的なバックアップを受けつつ、秘密裏にCC主導で行われているらしかった。

「まさか——」

 それを見越して撃墜したのか。

「今度は何だ?」

 一々説明されんと分からんヤツだな、と面倒臭がるこの魔女なら、何処で撃墜しようが後つけの、まさにゴリ押しでまかり通してしまうのだろう。

「——いえ」

「政権を取られたとはいえ、それぐらいの影響力は持ってるって事だ。アンの父御ててごは」

 と、聞いていない事まで口にし始める紗生子は、どうやら先程来の引っかかり・・・・・の溜飲を下げ始めたらしい。

「どうだ? 他に気になる事はないのか? まぁ君が思いつくような事は先手を打ってるだろうがな」

 悦に浸る紗生子に反比例して、

 調子に乗らせたら乗らせたで——

 流石に少し煩わしくなる俺だ。全てはこんなおかしな任務が悪い。

「そういう言い方は感心しませんね、真耶先生」

 そこへまた理事長が、何のつもりか静かに漏らした。

「どういう意味だ?」

「シーマ先生はわざわざ手前共のため、ひいては日本のため、アメリカ側が遣わしてくださった貴重で無二の心強い応援です。本来なら既にお互いの思惑の均衡が取れていたものを、日本側が無理に借り受けた御身ですよ」

「その御身に妙な思惑・・・・を付して寄越してきたがな」

「それに対してあなたも新たに別の思惑・・・・を付したでしょう?」

 瞬間で沸き上がる紗生子に対して揺るぎない理事長は、やはり只の美人ではない。舌鋒鋭い烈火の魔女を相手取って、肝を据え抜いた静謐さは

 ——すごいな、ホント。

 そういうところまで観音様だ。俺などはこんなニトログリセリンのような女など物を言うのも面倒で、つい「はいはい」言って終わらせてしまう口だが。それはともかく。この旧知の中らしい二人の構図は、どうやらやはり理事長の方が上位にいるように見えるのは気のせいではなさそうだ。あの紗生子が押されて黙すなど。

「シーマ先生」

「はい」

「真耶先生は一見がさつで粗暴に見えますが、これで素晴らしい手性をお持ちでしてね——」

「な、何を言い出すんだ!」

「折角ご夫婦・・・になられたんです。当然奥様の手料理は、もう召し上がっておられますよね?」

「いえ、まだですが——」

 そもそもこの短気な魔女がまともな料理をするように見えないのだが。それこそ大きな壺を抱えて毒々しい色のスープをかく拌しながら不敵に笑っている様子しか想像出来ず、思わず喉の奥が苦くなる。

「そうですか。それはお気の毒な事で」

「やめろ!」

「手芸も凄いんですよ。練習しているとは思えないんですが、イメージを具現化出来るようでしてね。やはり才能豊かな人というのは一定数いるもので、努力型の私からすると不公平だと思わざるを得ませんが。脳の構造が特殊なんでしょうね」

「やめろと言ってるだろう! 何が気に食わない!?」

「寒くなったら何か編んでもらうとよいと思いますよ」

「は、はあ」

「お二人は、指輪はしないんですか?」

「さっきから何なんだ一体!?」

 気でも狂ったか、と喚く紗生子の方こそ、別に取り乱すような事でもないのに随分な動揺だ。もっとも

 ——いいぞいいぞぉ。

 普段この魔女に言われたい放題の俺としては、これはこれで中々心地よい。

「だから気になる事・・・・・ですよ」

「何が!?」

「さっきシーマ先生に『気になる事はないか』とお聞きになったでしょう? ですから私が気になった事を率直に申し上げているんです」

「それがどうして人の暴露話に繋がるんだ!?」

「お二人が『偽装結婚なのではないか』という噂があるのをご存じですか?」

「何!?」

「えっ!?」

 紗生子と俺の驚く声が被った。自分で言うのも何だが、俺のそれは当たり前だが、紗生子が情報で劣って驚くのは珍しい。

「真耶先生が、色目を使ってくる世の男性に辟易して、それを躱すために仕組んだとか」

「事実じゃないか」

「ええっ!? そうなんですか?」

「当然だ。もう煩わしい見合いなんか御免だからな」

「はあ」

 まあ紗生子の見た目に騙されて、という手合いは多いだろう。しかし、紗生子が躱せない見合いというのも少し気になる。

「自らの素性をまるで開示せず、旦那様に一方的な箝口令を敷いているとか——」

「それもだ。旦那様・・・に迂闊を抜かされても困るしな」

「——まあ」

 言い返せないのが悔しいが、事実であり言葉が出ない。後は仮面夫婦だの契約結婚だのと。

「何だ。別に取るに足らんレベルじゃないか。そんなのなら私の耳にも入っている」

 随分と大袈裟に言ってくれたモンだな、と嘆息する紗生子に

「真耶先生ともあろうお方が、それでは本末転倒でしょう?」

 理事長が釘を刺した。

 ——まぁ確かに。

 それらの不信を躱すための偽装結婚だった筈なのだ。

「噂が完全に消えるとは思っていない。要するに我らの外面の問題だろう。何であれ表向きは夫婦なんだから何を言われようと知った事か。後は時が解決するさ」

 言いたい事は分かるが、

「それでは建前の身分 学園職員 に疎漏を来たす可能性が——」

 否めない。噂が噂を呼んでいては、結局一周回って元の鞘ではないか。

「シーマ先生のおっしゃる通りです」

「この話題になるとやけに食い下がるなお前も!」

「私も問い詰めるような事はしたくありません。ですが、あなたは一体どうしたいのです?」

 旧知の相手の何処か突き放した言い方に、これまた珍しくも紗生子が言葉を失ったかのように固まった。

「あなたがアメリカ側に付した思惑・・とは、まさかこれが目的だったのですか?」

「ええっ!?」

「違う!」

 それは何か。俺がその思惑とやらに絡んでいるように聞こえたのは気のせいか。人ごとだった筈が、途端に渦中に放り込まれたかのようだ。が、その真相が今の俺に分かる訳もなく。

 ——で?

 押し黙る事しばらく。

 言う事を言ったらしい理事長は、無言の圧力で紗生子を見据え、答えを待ち続けている。

 ——間が、重い。

 ここで変な事でも漏らしたら、それこそ学園の二大巨頭のどちらにともなく雷を落とされそうだ。それどころか身動ぎしただけで睨まれそうな。そんな女同士の戦いである。

 ——こ、コワ。

 堪らず目の前の湯飲みに手を伸ばして茶を啜ると、緊張で飲み込めず気管に入ってむせてしまった。最早お約束の体たらくだ。が、二人は睨み合ったまま動じず。一人で勝手にむせる俺は、空気を読まず場違いな中で時を知らせる鳩時計のように、喉を鳴らして悶えている。落ち着いたところ、

 ——で。

 何ならこのままこっそり退室してもよいのではないか。トイレに行く振りをして

 ——逃げるか。

 と、腰を浮かそうとした俺を、

「ダメですよ、シーマ先生」

 その静かな声が制した。

「今の日本は男社会の是正からあなたのように女性を立てる理解のある男性も増えていますが、そうはいいましても殿方の矜持として引き下がってはならない場面も、またあるものです」

「いやぁ、そういう難しい事は私には——」

「ダメです」

 こうなってしまうと、理事長は中々頑固らしい。新発見だ。それはよいとして、とにかく逃してくれない。

「ちっ、敵わんな全く」

 その観音様に根負けしたのか、魔女の方が重苦しそうに、そっぽを向きながらも口を開いた。

「——悪い事をしたとは思っている。これでもな」

 と言うその身体は捩れ、目を逸らし、口はひん曲がり、居丈高に足を組み。とても詫びているようには

 ——見えねぇ。

 のだが。

「私の迂闊で、こんな色気もクソもない年増と無理矢理くっつけられた・・・・・・・んだ。後のゴローの人生に傷をつけたと、これでも悩んだ!」

 と言う割には、いつも通りの横柄さにして態度のデカさは

 ——どうなんだ?

 つまり逆ギレ、と言えば腑に落ちる。その中で、それでも吐露のようなものを漏らす紗生子が、その玉手で常に自身に満ちている筈のその御目を覆い隠した。かと思うと、

「ゴローのせいだぞ!」

 かっと鋭いまなじりで食いついてくる忙しさだ。

「えっ!?」

「何か調子が狂うんだよ! これまでの私はもっと上手くやってきたんだ! それを——」

「確かに。一方的に人のせいにするのはらしくありませんね? 真耶先生たる御人が」

 ヒートアップしてくると、頃合いを見計らった理事長がまた一刺しして。律儀に絶句する紗生子がまた押し黙る。

 ——何なんだ?

 またしばらく。静まり返った室内で、忙しくもまたそっぽを向いていた紗生子の口が、

「——取り乱した。すまん」

「——いえ」

 何処か無念そうに漏らした。

「まぁ今日はこんなところでしょうか」

 そこへまた、理事長の妙だ。

「何でも一人で出来てしまう人の悪い面が出てしまったのです。悪く思わないでいただけると、彼女をよく知る人間としては嬉しいのですが。シーマ先生?」

「はあ」

 それは確かに、少しは分からないでもない。俺も深く人に塗れず、一人で生きてきた人間だ。それが急に二人・・にされては。やはりお一人様の人生に馴染んできたらしい紗生子の方でも、大なり小なり戸惑っていた、という事のようだ。

「世の中には結婚に限らず、どんなに完璧で優れた人間でも絶対一人では成立し得ない事があるのです。偽装だろうと中々ない折角の機会ですし、私のような若輩者が僭越ではありますが良い経験になると思いますよ」

 教育者というのは、

 ——上手い事言うなぁ。

 詐欺師かも知れない。

 確かに一人であれば何であれ完璧に熟してきたであろう紗生子からすれば、その分相手を伴う結婚などは不確定要素の化け物のようなものだろう。しかもその相手というのがいつ死ぬかも知れない、アイデンティティーもいい加減な俺なのだ。その素性に触れている人間なら、害はあっても益はないと考えるのが当たり前であり、

「——何であれ、迂闊や過失の度合いはどう考えても俺の方に非があります」

 元はといえば旅先での俺の迂闊が招いた事であれば、余計でもに悪い。

「それを主幹が同じように考えておられたのは意外でした。確かに知らぬが仏・・・・・ではない事が、少しは理解出来たような気がします」

「どうしてまたそこでそれが知らぬが仏出てくる?」

 かと思えば、また俄かに気色ばむ忙しさの紗生子だ。

「まあまあ。だから少しは、お互いの事の擦り合わせをしておいた方がよいという事ですよ」

 宥める理事長に、また何事が吐きそうになった紗生子だったが、

「そうですね」

 と俺が口にしたのを見ると、これまた意外にも口を閉じて小さく嘆息してみせた。

「今日この場だけでも、お互いの印象が変わったでしょう?」

 そう促す理事長に、ついつられて相手の顔を見るのは俺だけかと思っていたら、紗生子も顔をくれており。不意打ち気味に目が合って、ばつが悪くも目を逸らした。

「どうされました? お二人とも?」

 うふふ、と嬉しそうな理事長は、やはり策士だ。それに乗せられた俺が、

「——まあその。こう言っては何ですが、見た目に反して意外に思慮深いと言うか——」

 ついそんな素直な感想を漏らしてしまう。と、

「何を今更だな」

 また紗生子が途端にそっぽを向いて顔をしかめた。俺が口を開いている時は顔を合わさないつもりらしく、そのどさくさでその横顔を覗き見ると、小刻みに震えているような。

「思いがけなく可愛らしい一面というか。完璧に見えて迂闊というか。良い意味で人間臭さがあるというか——」

 すると途端に紗生子が音を立てて立ち上がり、

「調子に乗って言ってくれるな全く! 聞くに耐えん! また二人で知らぬが仏談義でもしてろ!」

 またいつぞやのように、勝手に出て行ってしまった。

「——褒められ慣れてないんですよ、あの人も。あなたと同じで」

「え?」

「厳しい世界に身を置かれる方は皆様共通して、ご自身に対する自信と不信の間で葛藤しておられるものです」

 あなた方は本当によく似ておられます、とまた何かの暗示だ。

「普段はあんな不束者ですが、末永く傍にいてあげてくださいね」

 で、また際どい事を押しつけられ。

「はあ」

 人生とは本当に、非日常の連続だ。

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