研修旅行の戯事【先生のアノニマ 2(上)〜4】

 八月に入った。

 世間も学校も、まだまだ夏休みの盛りだ。その初旬。

「おはようございまぁす。今日楽しみですね!」

 東京駅の新幹線ホームで俺の警護対象たるアンは、早朝だというのに元気印の全開だった。

「おやつ買いに行きましょうよ!」

 などと、一見して同年代の大人しそうな女子の手を無理矢理引いては、ホーム内のキオスクへ駆けて行く。

「あっ! ちょっ——!?」

「大丈夫だろ」

 蕨野わらびのがついてる、と慌てる俺を、その横にいる上司の紗生子が軽く制した。蕨野とはCC内閣の事務員上のコードネームであり、学校内でそう呼ばれている女子生徒、つまりワラビーの事だ。

「はあ」

 今日はアンによって事前に企画された文芸部の研修旅行だった。米国から戻ったばかりだというのに本当に活発な事である。俺などは正直、

 ——眠いんだがな。

 良くも悪くもアンの帰省につき添わない予定だったというのに、結局ハイジャック機へ無茶苦茶な合流をさせられ。しかも、挙げ句の果ての別荘滞在で、ご褒美・・・という名の拷問めいたセクハラを受け。止めが、フロリダのキーウェスト海軍航空基地から東京横田基地までの輸送機の操縦だったのだ。

 結局、

 ——まるで休めてないんだが。

 気の休まる事のない俺だった。

 キーウェストでの監禁中、アンの父たる ミスターABC元米国副大統領に直接会う事はなかった。政治の世界では当代きっての人気者の事ならば、別荘に足を向ける暇がなかったらしい。

 テレビ電話でその人気の根幹たる気さくな人柄を存分に披露してくれたアンの父は、どうでも紗生子や俺に会いたかったようだが、俺個人としては然程の興味は湧かなかった。今の奇妙な境遇が変わらないのであれば、それ以上の興味はない。ミスターABCからその事が俎上に上がらない段階で、俺の中ではハイジャック事件の功労は形骸と化した。何せいきなりハイジャック機にバンジーさせられるような、明日をも知れぬ我が身なのだ。その功が即座にアドバンテージとして働かないならば、つまりは意味がない。

 ——結局。

 何日か、紗生子やアンが言う役得・・という名のセクハラ攻撃を受けただけの事だった。大抵の男ならば、それは嬉しいものなのだろう。俺としてもイエスかノーの二択で答えるならば、それはイエスだ。嬉しくない訳がなかった。が、そういう事に免疫がない俺は、恥ずかしいやら鼻血を出すやらで散々の体たらくだったのだ。となると、やはりそれは監禁であり拷問で。大体が、美女に塗れてハーレム紛いのウハウハなどと。俺のキャラではない。

 それはともかく、その実父が結局別荘に来られない事を知ったアンの次なる一手は早かった。帰省の予定期間を過ぎても父のゴリ押しで無理矢理別荘に足止めされていたアンは、

「チョー楽しみにしてたのにぃ!」

 という、高校一年を対象とした学校の夏休み行事である【林間学校】を欠席する事になった。

 その鬱憤を、未だ国政においてそれなりの権力を握っているミスターABCにぶちまけるところなどは、流石は愛娘の立ち位置だ。俺などは傍でハラハラさせられたものだったが、当然それで収まるアンではない。

「ぜぇったいに、代わりの思い出作りをしてやる!」

 と言って、今度は烈火の如く紗生子に食い下がった。日本滞在中のアンの生活にまつわる最終決定権は、どういう訳かミスターABCから「その言質を取っている」という紗生子が握っている。しばらくの間、二人であーだこーだ言い争いをしていたようだが、最終的にアンが所属している部活【文芸部】の研修旅行で痛み分けとなった。どう転んだらそんな話になるのか。何故それが

 ——痛み分けな訳?

 当然、理解出来ない俺はいつもおいてけぼりだ。

 で、そうと決まれば何とも手回しの早い事で、早速アンが

「東京に帰る!」

 と抜かし始め。とはいうものの、ハイジャック事件の主要被害者になったばかりのアンは、民間機には乗りたがらないし家族も乗せたがらない。で、白羽の矢が立ったのが

「——俺が操縦?」

 だった。

「センセー旅客機操縦出来るし」

「いきなり輸送機はまくれませんよ」

 いくら多少の無茶振りが許される軍の事とはいえ、技術的に操縦は出来ても内部的な資格に問題があるのだ。飛行中の緊急時なら話は別だが。

「これも立派な緊急時じゃん!?」

 相変わらず無茶を言われたものだったが、その翌日にはキーウェスト海軍航空基地から横田へ向けて、空軍のVIP用輸送機【C-37B(ガルフストリームG550)】を操縦している俺がいたというから、その徹底した無茶振りもさる事ながら恐るべき実行力にして権力である。しかも正規パイロット同乗で、俺の輸送機操縦資格取得のための訓練飛行を兼ねている、という周到振り。

「センセーが操縦出来るようになれば、色々助かるしね」

 便利屋扱いしたい、らしい。専属の護衛がプライベートジェットを操縦して、あとは何だ。三〇半ばのおっさんを、お気に入りのペット扱いにでもするつもりなのか。その途中、給油と休憩を兼ねてエドワーズに立ち寄らせ、置きっ放しだった私物を回収出来たのが唯一の救いだった。

 で、学園に戻った次の日が今の状況だ。

「ALTって建前の身分で俺がつき添って、不自然じゃないですかね?」

「君は文芸部副顧問だぞ?」

「はあ?」

「知らなかったのか?」

「ええ、まあ」

「——そういえば、言ってなかったな」

「初めて聞きましたよ」

 やれやれだ。

 アンに絡む行事に建前上の身ALT分が不自然にならないよう、紗生子が色々と調整済みらしい。しかし文芸部副顧問とは、

「一体、何をやればよい訳で?」

「そこまで面倒見れるか」

 後は自分で能動的に考えろ、と言う紗生子自身は主幹教諭の事ならば、校内の特命事項全般に絡み得る役職だけに気遣いは殆ど無用である。

「そもそも文芸部って、旅行するモンなんですか?」

「さぁな」

「近場で日帰りなら、まあよく聞きますが」

 と、代わりに答えてくれた、CC上のコードネームでいうところの佐藤先生は、文芸部顧問にして今回の引率役だ。今回、諸々の段取りを整えたのもこの人ならば、

「色々大変だったでしょう?」

 一番あおりを食らった人、という事だった。

「でもアンさんに『お金に糸目をつけないでいいから』って言われたので」

「え?」

 何とクラーク家が、関係者の旅費を全額負担するらしい。だから遠慮なくサクサク決めた、とか何とか。急な旅行だったにも関わらず、アン以下総勢五名の正規部員が全員参加だったのは、

 ——タダだからか。

 という事のようだった。

「そういえば——」

 旅費はおろか、行き先すら聞いていない俺である。そう口にした瞬間、

「我々は有休の消化だ。中々使えずに貯め過ぎて、上からうるさく言われてるからな」

 察したらしい紗生子が答えた。

 とはいえ、仕事なのに有休を消化させるのもどうかと思うのだが。それよりも何よりも、紗生子に小言を吐けるような上役が存在する方が意外だ。

「ゴローも似たようなモンだろう?」

「まぁ、そうですね」

 纏めて有休消化出来るのなら、パァっと何処かへ逃避したい思いもあったのだが。今の任務ではそれは無理だろうから、まあ別に何でもよい。そもそもが兼務辞令でどの組織の有休を消化するのか。そもそも有休自体が貰えるのか、それすら分からない。つまり今の任務を外れない限り、将来の明るい展望を見出せなくなってしまっている俺だった。

「行き先は、まぁ着いてからのお楽しみという事にしておけ」

「はあ」

「確かにアンさんじゃないけど、何か息が合うなぁ二人」

 何となくやける、などと思わぬ突っ込みで佐藤先生が苦笑いするのを、

「ゴローのレベルに合わせてやってるだけだ」

 何をのんきな事を、と面倒臭そうに紗生子が切り捨てたところでホームに新幹線が入って来た。

「あ、来ましたね」

 そう言い置いた佐藤先生は、そのまま買い物に行って戻らない部員達の回収に向かってしまったため、言われっ放しの俺は何かを繕う台詞すら吐かせてもらえない。

 ——やれやれ。

 俺の位置づけなど、いつまで経ってもこの程度だ。


 新幹線は博多行だった。しかもグリーン車である。文芸部員は総勢五人。引率者は佐藤先生と紗生子と俺の三人。つまり半分が、

 ——エージェントかい。

 事情を知るアンも含めれば、過半数はいざとなると平和な日本だろうと何処だろうと、平気で銃をぶっ放し兼ねないヤバい連中だ。

 ——あ。

 その中につい自分も入れてしまう俺自身が腹立たしいが、その中でも厳選された約一名などは、つい先日飛行中の旅客機内でドアを蜂の巣にする程景気良くぶっ放した前科持ちでもある。

 何も知らない正規の文芸部員三人は、三年生が一人、二年生が二人。いずれも女子で、しかも今時に似合わず大人しそうな純朴そうな子達で。これでアンやワラビーのテンションについていけるのか。そういえば、普段どんな調子で部活をやっているのか。副顧問の俺はそんな事も知らない。

 それにしても見事に、

 ——女だらけだな。

 いい加減、息が詰まりそうだ。

 何処へ行っても男臭い世界で生きてきた俺だったのだが。中高一貫校の太史学園は共学の筈なのに、何故か男と連む事がまるでない俺だ。

 ——それにしても。

 席次が少し気になった。

 中央の通路を挟んで合計四列のグリーン車の中央付近で、椅子を回転させて枡席にしているアン達部員は四人で仲良く賑やかなのはよいとして。辛うじてアンの背後を俺と紗生子が陣取り、通路を挟んだ生徒達の反対側を佐藤先生とワラビーが押さえてはいるが、周囲の防護はどう考えても疎漏だ。始発からそれなりに他の乗客が乗り込んでいるというのに。しかも紗生子ときたら、

 ——寝てるじゃねーか。

 窓際で、通過時には富士山が拝める北側の席だというのに、いきなりうとうとしている。確かに時差を伴う遠路の空旅の翌日の事ならば、空に慣れている俺ですら眠いのだ。それは分かるが、警護中に寝るのはまずいだろう。

「ゔぅん」

 わざとらしく喉を鳴らしてみると、目を閉じて片肘をついている紗生子からコンタクトにメッセージが届いた。

"大丈夫だ"

"何がですか?"

"フォーメーションが気になってるんだろう?"

"ええまあ"

 何処か勿体つけられているような。

"だから大丈夫さ"

"どこがですか?"

"我々を除くと、この車両の乗客は全員CCのエージェントだからな"

「ええっ!?」

 驚きの余り、つい声を上げた俺に周囲からの視線が刺さり、

「あ——失礼しました」

 尻すぼみな詫びを口にさせられたのだったが、紗生子の言う通りなのであればよく考えずとも周りはみんな同僚だ。

"最初からそういってもらいたかったような気がします"

"眠たくてうっかりしててな。すまんな"

 目を閉じたままの、その絵になる歌劇団の男役が小さく失笑する様子などは、

 ——絶対わざとだ。

 なのだろうが、そこを指摘すると必ずといってよい程の何倍返しかがくるので触れずにおく。大体が、うっかり・・・・などと温いミスをするような紗生子ではない。

"それにしても愛想が悪過ぎません? 周りはみんな同僚でしょう? なのに白い目で見られるって"

"まぁそう言うな。みんな急に仕事になった連中なんだ。アンのお陰でな。君はその同邦だし多少は仕方ないだろう"

"つまり、クラークさんに向けられない恨みが俺にって事ですか?"

 そこまでやり取りすると、突然コンタクトに次々見知らぬコールサインの羅列が現れ、総じて

"そういう事だこの野郎!"

 旨のメッセージが自己紹介を兼ねているという横暴さだった。

"作戦行動中の回線は全局開放状態だからな"

 だからそれを先に言って欲しかったものだ。

「聞かれたくない時は、こうするんだ」

 と言った紗生子が薄目を開けて身体を少し起こしたかと思うと、僅かに身体を丸めて両手を太腿の下に挟んでいた。その不意打ちの愛嬌にギャップ萌えめいたものを感じてしまうと、普段が普段だけに

「先に言ってくださいよ」

 笑って許すしかなかった。

「こうでもいいぞ」

 今度は腹の前で両指を包むように両手を握っている。要するに、マイクにもなる指サックを覆い隠して音を遮ればよいらしい。

「実は今回の調整で私もここ何日か忙しかったからな。少し休ませてもらうぞ」

 CCといえども要員の運用計画というものが存在するらしい。何でも降車予定駅までこの車両に乗る客は、全員CCのエージェントなのだとか。

「みんなですか?」

「ああ。貸切扱いで通り抜けも出来ん。そこまでやってれば、とりあえず表向きは大丈夫だろう?」

 グリーン車を貸し切るとは。何とも徹底している。

「それと——」

 障害物がなければイヤホンで盗み聞きされるから気をつけろ、と合わせて言った紗生子は、今度は胸の前で腕を組んで寝る体勢に入った。

 紗生子は紗生子なりに仕事を、

 ——抱えている。

 当たり前だが、それに今気づいた。責任重大の現場責任者にして、最後の砦にして、調整役でもある。只の傍若無人な男役ではない。

「ひょっとして——」

 俺がするべき苦労を肩代わりしているのではないか。そう思っていると、

「いらん気を遣うとろくな事にならん。自分が出来る事の領分を弁えろ」

 と先回りで切り捨てられた。折角少しは前向きになったように思えたところで、

「それよりいい加減、アンケートの答申を終わらせろ」

 容赦なく釘を刺されてぐうの音も出ない。

 ——この言い方。

 これさえもう少し何とかなるようなら、少しはやる気も出るのだが。

 それにしても、新幹線などいつ以来か。久し振りなのだ。もう少し気分が乗っても良い筈なのだが。今一つ気が乗らないのは、

 ——西に向かっているからか。

 仏教でいうところの西方浄土は、それを信仰しない俺としては死を連想させられるだけだ。行く先に鬼が出るか蛇が出るか。はたまた仏が出るか。同行する魔女に「楽しみにしておけ」と言われたからには、似たようなものが出るという事か。

 ——通りで。

 気が乗らない訳だ。


 東京から新幹線、在来線と乗り継いで約四時間。やって来たのは

「やったついたぁ! いつか来たかったんだよねぇ尾道!」

 だった。

 アンがはしゃいで駅舎を飛び出して行くのを、

「あっ! ちょっ!」

「大丈夫だ」

 制しようとする俺を、また更に制する紗生子だ。言われた尻から、コンタクトの中に見知らぬコールサインが、

 何とまあ——

 出るわ出るわ。まるで、

「映画のエキストラみたいですね」

 と口にすると、

"てめぇ! はっきり言ってくれんじゃねぇか!"

"のんきに言ってんじゃねぇよ!"

 早速、声を拾われ苦情が飛び込んでくる。

「分からんヤツだな、全く」

「——すぃません」

「みんなすまんな。休み返上で駆り出されてるというのに至らない部下で」

"紗生子さんのせいじゃないっスよ!"

"そうそう。しゃんとしろ新人!"

"少しは紗生子さんの気苦労を考えろ!"

 などと、針の筵もさる事ながら、驚くべきは紗生子の支持の厚さだった。

 これは、

「——変な事、言えませんね」

「だから言ってる意味が分かって言ってるのか?」

 軽く噴き出した紗生子だが、事実としてその支持者達があちらこちらで耳をそばだてて聞いているのだ。そんな含みを漏らしたならば、

"今の、喧嘩売ってるよね?"

"陰口ありきでものを言うって、不器用なのかバカなのか?"

"何で紗生子さんがこんなヤツ庇うんだ?"

 すぐ様そんな容赦ないメッセージのオンパレードである。

「みんな旅行も兼ねてるからな。やっぱり有休の消化だ」

「そうなんですか?」

 有休消化率の向上は国の施策の事ならば、是が非でもそれを使わされる公務員の悲しさの

「鬱憤のやり場がない訳だ。悪く思わんでやってくれ。みんないいヤツらだ」

 その八つ当たり先は、やはり俺なのだった。紗生子にはいいヤツらでも、俺にとっていいヤツらとは

 ——限らねぇだろ。

 と、何処へ行っても僻みやっかみを受ける俺は、そろそろプッツンいきそうな近頃だ。

「まぁ行こうか」

「はあ」

 苛立つ理由は他にもあった。

 広島県尾道市。

 日本各地に存在する小京都の一つとして名高いその古都は古くから海運で栄え、現在の人口は一三万弱。先の大戦においても中心部は戦禍を免れたため、今も尚昔ながらの大小様々な寺院が軒を連ねる歴史情緒豊かな港町だ。海と山に囲まれた【坂の街】としても有名で、近年では文豪や映画監督、更にはその作品達と縁あって【文学の街】とも【映画の街】とも称される。とは、不意に手にした観光案内用のリーフレットによるものだ。最近ともなると、通称【しまなみ海道】の開通に伴い交通の要衝としても注目される傍らで、サイクリングロードの整備によりサイクリストにも注目されている、とか何とか。

 俺がいた頃は海道も自転車もなく、

 ——造船所が賑やかだったんだが。

 それは遥か昔の栄華のようで、JRの駅から見える尾道水道を挟んだ対岸に見えるそれは、明らかに物寂しい雰囲気を醸し出していた。俺が子供の頃でさえ下火だったのだ。

 ——まぁ無理もないか。

 尾道は、俺の里の一つだった。

 それにしても——

 何故、研修旅行先がここなのか。

「アンのヤツがどうしても来たかったらしい」

「はあ?」

「『何故ここに』と、顔に書いてある」

 尾道に着いたならば行き先は特に決めておらず、行きたい所を行き当たりばったりで歩き回る予定なのだとか。

「わざわざ来る理由があるモンですかね?」

 日頃は驚く程ヲタク三昧でつい忘れそうになるが、その実アンは新進気鋭の日本研究者。既に数多くの文化に触れている英才だ。

「クラークさんにとっては、今更それ程珍しいものがあるとは思えませんが」

 確かに文学の街といわれ、志賀直哉や林芙美子に縁があるこの街を愛するファンは多いだろう。が、それは何も尾道に限った事ではない。

「津和野の森鴎外、松江の小泉八雲、岡山の内田百聞、松山の正岡子規だって——」

 周辺を見るだけでも、文豪縁の地はあちこちにあるものだ。

「日本文学に随分と詳しいな」

 こんな米軍人は初めてだ、と何処かで聞いたような台詞を吐きながら紗生子がわざとらしく笑った。どうせ委細承知で言っているのだろう。

「赴任した日に理事長にも言われましたよ」

「文学青年には見えなかったからだろう」

「大検で勉強しただけですよ」

「高認じゃないのか?」

「俺はギリギリ大検だったんですよ」

【大学入学資格検定】が【高等学校卒業程度認定試験】に名称を変えたのは、二〇〇五年度の事だ。俺は大検最後の年の受験者だったからよく覚えている。その俺がその資格を得ている事を当然知っている紗生子だ。まあ今は必要以上に触れずにおくとして。

「未だに覚えているとは大した記憶力だな」

「自分の事ですから、そりゃまぁ」

「そうか?」

 普段の君はもっと呆けてるだろう、と相変わらず遠慮ない紗生子とバカにされる俺の前で、文芸部御一行様が、

「まずはメシかぁ——!」

 などとはしゃぎつつ、早速駅前から程近い商店街の方へ向かっている。

「まぁ行こうか」

「はあ」


 それからは、

 何とまあ——

 コンタクトのメッセージが賑やかだった。俺と紗生子は顧問の佐藤先生以下文芸部御一行様の直後を見守る格好で、口を挟む事なくついているだけの【後衛】だ。アンの傍には佐藤先生とワラビーの二人の【側衛】がベッタリついている。ならば、周囲に目を配って不測に備えた方が意義深い。それ故だ。その上で俺達の周囲には、紗生子に厚い支持を寄せる多くの同僚達が輪をかけて配置している。

「いつもこんなにいるモンなんですか?」

 在校時にその敷地周辺に展開している同僚達は、まるでその存在を察知出来ない程に潜伏しており今一つその実数が分からない。

「普段はここまでの事はないな」

 何個班か編成して、交代で警戒しているらしい。それが今や、一〇や二〇の数ではない。各員がコンタクトを通して緑色で表示され、頭の上にコールサインがついている。その視野を埋め尽くさんばかりの、圧倒的な緑色の数だ。

「周りが殆ど緑色なんですけど?」

 AR拡張現実機能が示すその画面の賑やかさは、

「明白に狙われている対象の外出ともなると、このぐらいは当然だ」

 それこそ移動ユニットに限って言えば、国家元首クラスの警護態勢と然程変わらないらしい。が、その表示を切ると物々しさはなく、極普通の観光地の往来にしか見えないという潜伏振りだ。

「昔の隠密みたいですね」

「まぁ事実として我らは現代の【公儀隠密】だしな」

「そうですけど——」

 紗生子が苦笑する中でも往来は必ずしも絶対安全ではなく、たまにだが赤色表示のターゲットが出現する。各員が不審と認めた者や、AIがそう認知した対象だ。CCのOSをインストールしているスマートフォンとコンタクトをリンクさせる事で、CCのホストコンピューターにあるデータを元にAIが歩容を検知し判断する。因みこれが周囲の非接触センサー等詳細な生理データを拾える環境下ともなると、殆どポリグラフ通称嘘発見器と変わらないレベルで判定し、オートロックオンするというから恐ろしい。もっとも現状ではそこまでのサポートは得られないが、人の手にしろAIにしろ、不審と判定された対象を近場のエージェントがロックオンし、調べ、場合によっては接触し、有害ならば潰す、という流れなのだとか。

「この緑色の半分以上は、本社や別任務の応援なんだ」

 大抵は観光客に紛れているが、中には看板を背負ってサンドイッチマンになっていたり、パントマイムをしていたり、似顔絵を描いている者も。

「芸達者、ですね」

「一人何役かはこなせるもんさ」

「この人達がみんな有休な訳ですか?」

「全員じゃないが、まぁ大半はそうだろうな」

「何だかお気の毒というか」

「あれはあれで結構楽しんでたりするんだ」

 油断している訳ではないが、行動予定が漏れたり公表されない限り地方都市で狙われる確率は低い。という事は、そこでの護衛は良い意味で研究研鑽の実戦場となる。

「大体この業界・・・・は、好奇心旺盛で変化に強くないとやっていけない」

 よって出張を喜ぶ者は多いとか。

「危険を理由に警護対象を学園内で事実上の監禁状態にしている事は認める。だが外出させるともなると、確かな安全を担保するにはこれ程の数の人間が必要になる。急に決めれば計画が漏れる可能性は低くなるが、それだけ社員達エージェントは振り回される。特にアンは狙われっ放しだからな」

 要人と呼ばれる人々は、世間が思っている以上に日常的にその身が狙われていたりする。だというのにアンは、米国政界重鎮の愛娘とはいえ基本的にはどう考えても私人だ。となると公費を用いての大々的な警護態勢を見せつける訳にはいかない、という難しさもある。

「私も心置きなく外出させてやりたいとは思っているんだ、これでも」

「そう、思います」

「ウソをつけ。居丈高な傍若無人女だと思っているだろう?」

「バレてましたか」

「当たり前だ」

 冷静沈着にして冷淡無情なプレイングマネージャーの意外な一面、というヤツだ。もっと体温の低い一匹狼をイメージしていた俺の、その想像力の低さを今更ながら痛感する。二足も三足も当たり前というこの世界において、そう言う俺は少し特殊な軍歴を有するだけの能無しに過ぎない。

「——主幹」

「なんだ?」

「もっと俺をこき使ってもいいですよ」

「どうした? 気持ち悪いな」

 熱でもあるのか、疲れで頭が呆けたか、などと。少しその気になればこのザマだ。

「おかしくなるとしゃんとするんですよ俺は」

「確かに土壇場になると意外に使えるが、普段は抜けてるんだ。余り無理するな」

 そうはいっても君はまだ見習いみたいなモンなんだ、と言われると、コンタクトのメッセージボードに紗生子のその台詞に対する【いいね】が殺到した。三〇票を超えている。

「げっ!? やっぱり聞かれてるし!」

「殆ど満票だな」

 鼻で小さく笑った紗生子が、

「安心しろ。これでも人使いは上手い方だ。そのうち役に立ってもらうさ」

 それにしても確かに箱庭的な情緒が心地良い街じゃないか、とやはり言動とかけ離れた柔らかさで、目を細めて微笑んでみせた。

「それにもう役に立っているじゃないか。アンの父君がそれはそれは感謝していたしな」

 その内恩賞にあずかるだろう、と言う紗生子の方こそ感謝されるべきだろう。

「俺は追っかけで、その功に割り込んだだけです」

 もっとも無茶苦茶な割り込みを強いられはしたのだが。あの危急を切り抜ける事が出来たのは、紗生子の機転あってこそだったのだ。

「第一功はあなたですよ」

「では私も余り期待せず待つとしよう」

 と言う紗生子の顔が、不意に諦念を帯びたように見えた。そんな何処かしら切なげな上司など初めてで、

 ちょっと——

 反則だ。つい、

「今、私のために尽くしたいと思ったろう?」

 と思った瞬間それを暴露されては、折角のやる気がまた台無しだ。

 ——サイコメトラーかよ!

「まぁそろそろ仕事モードだ」

 忌々しいその読心力はとりあえず置いておくとして、御一行様が商店街の中にある定食屋で昼にする事にしたらしい。決して広いとはいえない店内には、既に客になりすましたエージェントがいる。

"とんかつ定食、美味いですよ"

 と、早速メッセージが届いた。お毒見役、という事のようだ。

「大丈夫そうだな」

「色々と気を遣うモンですね」

 で、みんなしてとんかつ定食を注文し。

「いつもスパルタ食なのに、いきなり上等なモンを食って大丈夫か?」

「当たり前でしょ! 心外だな全く——ってかウマこれ!?」

 日頃シンプルな食い方をしているだけに、確かにその重厚感のあるカツは思わず叫声を上げるに値する美味さだった。それに合わせて周りに失笑されるが、どうせ女の中に男が一人の浮いた構図だ。抵抗しようもなければ、一心不乱に箸を動かすのみ。

「余り急いで食って腹を壊しても知らんぞ?」

「そんな柔じゃありません」

 で、異常なく完食。

 食後は夕方まで、シンプルに徒歩で観光地区を名所巡りだった。その行く先々で、

"不審物なし"

"不審者なし"

 旨の事前チェックが必ず入る。が、そこは有休も兼ねているためか、

"港の近くのアイスモナカが美味い"

"寺の猫がチョーかわいいんだけど!"

"公園から眺める尾道水道が絶景過ぎるぞこれ!?"

 などと中々愉快だ。それを見た佐藤先生なりワラビーなりが部員を上手く誘っていく。各員の先行チェックがまるで【推し】を争っているようで、何処か滑稽さを感じるのは気のせいではないだろう。

「何か、みんないい人達ですね」

「だろう?」

 そこは紗生子の眼鏡に適った面子、という事のようだった。すると、

"今更気づくなんて遅い。ってか鈍くない?"

"何でこんなヤツが、アンちゃんのお気に入りな訳?"

"てめー、アメリカの別荘とやらじゃ随分と甘やかされたらしーじゃねぇか!"

 途端に何故か集中砲火だ。

「中々、愉快な人達ですね」

「いつまで経ってもジョークが通じない日本じゃないさ」

 乗りとしては米軍に近い。そこは頗る意外だが、この面々が、

「猿の文吉の時に調査に来たり、組事務所の突撃作戦なんかに携わったりしてるんですか?」

「そうだ」

「やる時はやるって事ですか」

「それは君も同じだろう」

 という事らしい。

 そんなこんなで夕方まで歩き回り、初日の最後は、

「うわぁ、古民家をリフォームした別荘だって」

 宿泊先に到着だ。部員達がはしゃぐのもうなずける、中々小ぢんまりとして小洒落た雰囲気の、流行りの民泊の類だろう。やはり尾道水道が見渡せる眺望が売りのようだった。まあそれはよいとして。

「晩飯はどうするんですか?」

 民泊ならば食事は別だろう。

「出張シェフに頼んである」

「素性は——」

 と言いかけて、

社員・・だ」

 と被された。何とも

「人材が豊富ですね」

「でないと組織として成り立たないさ」

 何せスパイの世界だ。まあ、それもそうだろう。では、

「風呂はどうします?」

「順番に入ればいいだろう?」

 女の長湯につき合え、という事らしい。

「じゃあ寝るとこは?」

「ぐずぐずうるさいヤツだな」

「そりゃそうでしょ!?」

 女の御一行様に男が一人なのだ。

「気を遣いますよ、流石に」

「だからアンの別荘で訓練してやっただろう?」

 下手な気を遣っていると仕事に障るぞ、とはもっともらしいが、あんな滅茶苦茶な訓練・・で免疫がつくとでも

 ——本気で思ってんのか?

 思わず安直な罵声が出そうになったが、それをするとまた外野がうるさい。そもそもが今の状況は、

「デリカシーの問題ですよ」

 であって、色仕掛けとは違う。しかも仕掛け・・・というのなら、それは敵の手によるものだろう。でなければ、身内の裏切りだ。

「一々面倒なヤツだ」

 宿に入る前からこの調子か、と盛大に嘆息する紗生子が、

「寝床は当然人数分確保してある」

 投げやりに吐いた。

「訓練って、何です?」

 そこへ佐藤先生が不意を突いてくる。

「いやぁ、何でもありません!」

「そうですか。まぁアンさんから色々聞いてはいるんですけどね」

 ——なら聞くんじゃねぇ。

 と思ったが、やはり口には出さない。

「ほら、いい加減中に入るぞ」

 風呂は一つしかないんだ、ぐずぐずするな、と紗生子が啖呵を切ると

「何か主幹先生の方が男らしい」

「ぐずな男って、時代かねぇ」

 などと大人しい先輩部員達から、思いがけない突っ込みが入った。

「この言いやすさこそ、シーマ先生の価値だよ」

「そうそう、この小物感が」

 アンやワラビーがフォローのつもりで言っている追い討ちが、より一層情けなさを煽る。コンタクトの画面に、また【いいね】が殺到した。


 風呂は、近くの銭湯に行かせてもらった。どうせ周りはエージェントだらけなのだ。それに、建前の仕事もおざなりに出来ないのならば

「年頃の女子生徒や女先生達と風呂を共有した」

 などという噂が学校で広まっても困る。

 歩いて数分の所にある商店街近隣の、一見して何ともレトロな銭湯は、別に昭和をイメージしたものではなく元々昭和の時代から営業している歴史と伝統のある銭湯だったようだ。銭湯など行った記憶もないが、早速中に入ってみると、

 ——こんなもの、なのか?

 いきなり鯉やら、龍やら、桜吹雪の立派な絵・・・・身体・・に入れている男達が、中々の圧迫感を醸し出しつつ入浴中だった。しかもがなり声がひどく、そう広くない浴室内に反響しては風情が台無しだ。

 ——うるせぇ。

 紗生子にも

「ぐずぐずするな」

 と言われている事でもあるし、手早く洗って軽くつかって上がるつもりで浴槽に入ると、先に入っていたその男達に睨まれてしまった。

 あちゃぁ——

 やってしまったようだ。この間の悪さこそ俺の甲斐性である。

 ——さっさと上がろ。

 と腰を浮かしかけると、逆に気味の悪い程の揃い踏みでその男達の方が先に上がってしまった。これで助かった

 ——訳がねーよなぁ。

 むしろその逆だ。全くもってついてない。我ながら困ったものだ。

 そそくさと上がって出がけに

「あんた、気をつけなよ」

 番台のお婆さんに声をかけられた。

「ああいう人達ってのは、公衆浴場には出入り出来ないモンだと思ってたんですが」

 子供の頃の記憶からアップデートしていないのだが、今のご時世なら更に厳しくなっていてもよさそうだ、という俺の憶測が甘いのか。

「ここは戦前の銭湯だからねぇ」

 やはりどうやら、甘いらしい。

「裏口ってあります?」

「行き止まりだよ」

 それよりも一一〇番じゃないかね、と心配されたが、実際に何かされた訳でもなし。そもそも俺の方こそ警察は苦手だ。普通に日本人顔のくせにALTだと説明して信じてもらえるかどうか怪しいし、逆に今の身分を勘繰られるのも面倒だ。

「行き止まりでいいです」

 裏口から出してもらった。一本道は昼間に歩いた商店街に通じるのみ。

 ——軒に上がるか。

 俺はスマートな見た目に違わず身軽なのだ。その自慢の身の熟しを繰り出そうとしたその時、

「何処行くんや、兄さん?」

 見事に見覚えのある男に呼び止められてしまった。この男は確か

 ——何のだったっけ?

 そんな興味などまるで湧かない。わざわざ裏口も見張っているとは、随分と好かれてしまったようだ。結局あっさり捕まると、そのまま商店街の別の裏路地へ連れ込まれてしまった。相手は三人。何れも俺と似たり寄ったりのお年頃の、大柄な輩共である。

「観光客は、かもるに限るわ!」

「行儀しらんヤツぁ、しめたらな! のぅ兄さんよぅ?」

「まずは土下座してもらおうかいのぉ? あぁん!?」

 三人が三人、同じ方向性で手慣れたものだ。この様子だと、折角の観光でやって来た人々も少なからず残念な記憶を植えつけられた事だろう。つまりあの銭湯で、あの連中が入浴中に入ってくる人間は地元にはいないという訳だ。

「あんたらみたいな人って、未だにいるんだな」

 そこはやはり、子供の頃の記憶通りのようだ。連行される時に商店街の防犯カメラに写ったようだったが、恐らくは気休め程度の物なのだろうから

 ——画素は低い、かな?

「どういう意味かなぁ? 僕ちゃん?」

「どうもこうも」

 最悪、銭湯のおばちゃんが通報していたとしても、さっさと沈めてしまえば問題ないだろう。

「俺は見た目程気は長くないんだ。悪く思うなよ」

 まずは正面の男の首のつけ根を、手刀で縦に打ち抜いた。斜めに打つと頸椎損傷で殺し兼ねない。だから、鎖骨で堪えてやる。

「うっ!」

 という断末魔を耳が捉えた時には、左隣にいた男の顎を下から掌底で突き上げて砕いてやった。

「がっ!」

 多分、舌は噛んでないだろう、か。

「っヤロ——ぐぅ」

 大声を出されて近隣に迷惑をかけても、通報されても面倒だ。最後の男は背後から裸絞で声を封じる。無駄に首が太かったため力を入れ過ぎて甲状軟骨を潰したようだが、ろくな事をしてきていない連中の事ならば今までの観光客分だ。この程度はお灸という事で許してもらえるだろう。

 ——な、訳ねぇか。

 ちょうど手近に、青色のビニールシートが置かれていた。どうやらごみ収集前のカラス除けのようで、ちょうどよい。崩れ落ちている男達を路地の端へ押しやりそれを被せると、面倒だが帰り道は少し遠回りをした。

 で、別荘仕立ての小洒落た宿へ戻ると、すっきり整った居間のソファーで腕や足を放り投げて一息ついていた紗生子に

「ちゃんと後腐れなく仕留めてきたんだろうな?」

 いきなり直球で核心を突かれてしまった。やはりコンタクトを覗かれていたらしい。

「素人さん相手に仕留めちゃまずいでしょ?」

「何を温いことを言っているんだ。我々の身分CCエージェントは常時超法規的措置が認められているんだぞ」

 ——国民が聞いたら驚くだろうなぁ。

 戦前の帝国主義を戒め、平和国家を謳う民主主義国日本にあるまじき強権を通り越した横暴振りだ。国家のため組織のため、縁の下から徹底的に親方日の丸を支えるその秘密組織の存在は、最早都市伝説で取り沙汰されるレベルの公然の秘密のような状態だったが。

「マーダーライセンスみたいですね」

「だからそう言ってしまっては違法性を帯びてしまうだろうが」

 何のために正当防衛の大義があるのか分かってるのか、とはつまり

「日本的には【切捨御免】ですか」

「一々確かめんと落ち着かんヤツだなホント。要領だ要領。皆まで言わすな」

 どうせろくな事をしてきていない連中なんだ、何処かで誰かがお仕置きしてやらんと善良な民草が苦しむばかりだろう、などと様々な方面に問題発言連発の紗生子は、最早流石の豪傑振りである。この女にかかってしまえば、万事こんな小理屈や方便で切り抜けてしまいそうだ。

「まぁ分からないでもないですが——」

 野卑た連中の事ならば庇う気にもなれないし、その言い分に一定の支持は寄せるものの、仮にも建前上は学校の先生である。面倒臭そうに吐き捨てるような内容ではない。

「生徒達はまだ入浴中だ。私は君のように迂闊じゃないぞ」

 そんな俺の懸念を察した紗生子は、極あっさりかつ丁寧に、その理由を開示してくれた。小ぢんまりとした宿だと思っていたが、風呂は五人の生徒達が一度に入れる程の広さがあるらしい。

「それにしても、ぼやけた見た目も大概にするんだな。何処へ行っても一々ナメられ過ぎじゃないか?」

「でしたら顔を変えましょうか?」

 それが訳ない業界の事ならば、大胆な整形をせずとも手頃に変装出来るものだろう。が、そこへドタドタと、

「ダメダメ! 却下却下!」

 風呂から上がって来たアンが、一応きちんとパジャマを着て割り込んで来た。紗生子といいアンといい、薄着になると未だにキーウェストの別荘の際どい水着の記憶が蘇ってしまう。そんな俺の苦悩など知った事ではなさそうなその困らせ屋が、

「折角の可愛らしさが台無しだしそんなの!」

 男として微妙な部分を容赦なく抉ってくれた。可愛らしいなどと言われて、アイドルならまだしも三〇半ばの中年男が嬉しかろう筈がない。それを紗生子が、

「可愛い云々は別にどうでもいいが、学校ではその顔・・・で通ってしまってるんだ。今更どうにもなるかそんなモン」

 如何にも面倒臭そうに、アンの世迷言も俺の細やかな矜持もまとめてバッサリ切り捨ててくれた。まさに外見を裏切らない、細部に拘らない大物振りにして一々絵になる歌劇団の男役が吐きそうな止めだ。どうせ小物染みた俺の長年の苦悩など、理解出来ないだろう。

「だから旅先ぐらいは、と思ったんですが」

「じゃあ、ちょび髭に生傷でもつけるか?」

「——遠慮しときます」

 よい物がないと言わんばかりの紗生子も、どうやら乗り気ではないらしい。何にせよ確かに、学校の生徒達と同道していながらいきなり顔を変えるのも不自然だろう。

「素直じゃないなぁ。自分だってこのぼやけた顔・・・・・が気に入ってるくせに」

「勘違いするな。上司が部下に職務上の支障を指摘しているだけだ。でなければ、別にどんな面でも構わん」

「じゃあ猿の文吉みたいなのでも?」

 そう言われて思い浮かべるのは整形後のそれではなく、ビフォーの毛むくじゃら原人を知っている、俺を含めた三人である。

「——風呂行って来る。後、頼んだぞ」

「あ、はい」

「ねぇ!? 先生今の見た!? 考えたよ! あの紗生子が、少し!?」

 という事は、少しはビジュアルも気にするという事、か。

 旅先でも入浴は交代制だった。建前は只の先生だが、その実校内では最早公然の秘密のようなアンの最側近の護衛の事ならば、何処であろうと間隙を生じさせる訳にも行かない俺達だ。で、生徒達が先に入るという事で紗生子が順番待ちをするならば、

「ちゃっちゃと入ってこいよ」

「え? 先にいいんですか?」

「くどい。何度も言わせるな」

 との有り難い御下命により、近くの銭湯で先に道中の汗を落とさせてもらった結果があのザマである。その何処かに、紗生子なりの配慮のようなものが見え隠れしていたというのに。

 あえて紗生子に言われるまでもなく、一々絡まれるこのチョロそうな見映えの情けなさは改めて身に染みていた。そんな俺の入浴など、普通考えるまでもなく問答無用で一番最後の立ち位置なのだから、そうでないならばやはりそれは配慮だ。

 それに対して俺はというと、その配慮を受けっ放しのだらしなさというか体たらくというか。配慮を台無しにする程隙が多い間抜けという事だ。

 我ながら、つくづくホント——

 こんな男が部下でよかったのか。余りにも出来る女上司とまるで釣り合いが取れていない。我ながらその能力の懸隔には自信がある。事実この時の迂闊は思わぬ時間差で俺の背後に迫るのだが、それはまた別の話だ。そう思うと、常に高飛車で不遜な紗生子ではあるが、

 随分と温情的だったんだなぁ——

 と気づくのは、やはり後々の事であって今ではない。


 全員の風呂が終わると、早速シェフの料理が待っていた。肉に海鮮に、土地の物をふんだんに使ったというその品々を前に、

 ——とてもエージェントとは思えん。

 驚きしかない俺に、周りに気づかれないようにウインクしてくるそのシェフまでが、俺や紗生子と同年代の、これまた中々麗しい女だ。紗生子のように派手さや華やかさはないが、落ち着きがありしっとりとした大和撫子の典型のような。

 その見事なまでの女だらけに疲れた俺は、食後に片づけを手伝っていると

「明日も来ますので」

 と、その撫子シェフが口を開いた。

「え、明日も、ですか?」

 そういえば、何泊するか聞いていない事に今更気づく俺である。一箇所に落ち着いて滞在する事が少なかった俺の人生は、常に余計な物を持たない癖がついている。それは手荷物レベルで持ち回れる量という事であり、着替えなら三日分だ。それ以上の滞在の場合は洗濯する。それだけの事だ。どの道、予定通りというフレーズに乏しかったこれまでの人生だ。予定を確認しても意味がない事ばかりで、予定というものは未定である認識で行動している俺だった。

歯応え・・・がないかも知れませんが、よろしければ明日もおつき合いくださいね」

 二泊三日の旅程なのだ、とか。着替えもちょうどよいが、何故か俺のスパルタ風の食癖は、最早紗生子の周辺では当たり前に認知されているらしい。そう言って帰ったシェフが、その後何処へ行くのか。知らない俺は、食後の居間ではしゃいでいる生徒達を尻目に、その端の端で椅子に座ってぐったりだ。撫子シェフはきっと近場の何処かにある拠点で一休みするか、別命あるまで待機に入るのだろう。可能ならば俺も

 ——そこで休みてぇなぁ。

 男社会で揉まれてきた俺にとって、女の集団は苦手を通り越して最早脅威である。

「何かセンセー固まってるし」

「人の事はいいから早く寝ろ」

「なぁに言ってんの? 子供じゃあるまいしさぁ」

 何を。まだまだ子供だからこそ、

 お守りしてるんだが——

 と言ってしまうと、またこの秀才達に何を言われたものか分かったものではない。生徒達にまでいじられながらも言いたい事を飲み込んでいる俺は、無理矢理溜飲を下げる威厳のなさだ。

「さっきから何やってるんです?」

「うるせー」

 スマートフォンを覗き込んではしかめっ面をしているそれは、

 ——お前らのせいじゃ。

 とは言いたくてもやはり言えない、答申が延び延びになっている【生徒アンケート】のデータだった。余りにも提出が遅いため、学園事務局が紙ベースからデータに落としてくれた物である。本来なら紙のまま一枚一枚直筆で回答しなくてはならないのだが、学園史上稀にみる有り得ない数の紙を貰ってしまった俺だ。米国出張アンの帰省から研修旅行と、出張続きで学園を空け続けている俺のために事務局に一手間取らせてしまったからには、旅先だろうと取り組まない訳にはいかない。とはいえ、

 ——め、めんどくせぇ。

 頭に血を上らせては、つい目が近くなりがちになる。居間の外野の声を払い除けながらも疲れ目をほぐすために外に目を向けると、開け放しているベランダで紗生子と佐藤先生が夕涼みを堪能しつつ晩酌を嗜んでいた。夜間でも狙撃のターゲットになり得るというのに、随分と大胆な事だ。まあそういう事では間違えない紗生子の事ならば、大丈夫なのだろうが。

 ——それにしても。

 僅かに緩んだ表情は、酒の美味か夜景の妙か、はたまた夜気の怪しさがもたらしたものか。その声さえ耳に入らなければ、絵画を切り取ったかのような紗生子の横顔だ。

「何か見惚れてるしぃ」

 アンやワラビーにつられて、大人しい筈の文芸部員先輩衆までが、

「やかまし」

 旅先の事でテンションが上がっているらしい。

 そんな調子で延々と続いた団らんは、日付が変わる手前になってようやくお開きとなった。ベッドルームは二部屋あり、まるごと生徒達の割り当てだ。紗生子と佐藤先生は、畳間の和室に用意された布団で寝るらしい。後はLDKしかない宿にあって、俺の寝床は

「居間のソファーだ。慣れてるだろう?」

 と言う紗生子は「今更言わすな」と言わんばかりだった。確かに学園での仮住まいも未だに寮の応接室であり、寝床もソファーの俺だ。まあこんなものだろう。横になれれば御の字だ。

「まぁ変に柔らかいと寝れたもんじゃないですからね」

「そう言うと思ってな。一応有事即応仕様だ」

「ご配慮痛み入ります」

「じゃあ女衆・・は寝るからな。男衆・・もゆっくり休んでくれ。寝ようが起きてようが自由だが、明日も丸一日動き回るらしいからな」

「然いですか」

 当然の差別的な扱いの中で、

「私達だけすみませんね」

 と言った佐藤先生の断りだけがせめてもの救いだった。


 翌朝。

 普段から勉学中心で、そのスケジュール管理に慣れている生徒達の朝は、きっちり六時起床だったようだ。それに紗生子と佐藤先生も加わると、俺以外の全員がいきなり居間に現れ朝食の準備が始まった。しかも既に外出着だ。

「な、な——」

「『な』じゃなくて『おはよう』じゃないの?」

 ほら食器運んでよ、と半分寝ボケているところをアンに起こされると、

「顔ぐらい洗ってこい。物臭といえども基本的な身嗜みぐらいはしろ」

 まだそんな格好か、とTシャツ半パン姿の俺にいきなり紗生子が容赦ない。別に物臭ではないのだが。一方的に既成事実化され内心腹を立てつつも、それこそもう面倒臭い。

「はぁすぃません」

 と、とりあえず謝っておいて言われた通りにするところなどは、遠い異国でも聞き及んでいた、それこそ物臭で弱体化した日本の中年親父そのものだ。

 ——聞いてりゃちゃんと起きたわい。

 と、口に出せない文句を飲み込みつつも、そそくさと服を掴んで洗面所へ向かう。歯磨き洗顔着替えの上で戻ると、瞬く間に朝飯が並んで殆どの準備が整っていた。

「うわ、何か早いですね」

「今日も忙しいからね。ほら、座った座った」

 アンに急かされるままに着席すると、早速一同が合掌唱和の上食べ始める。

 そういえば——

 整った宿で食事などと。昨夜もそうだったが、思えば他人と同じ皿を囲んで食べるなどいつ以来だろうか。

 現任直前、横田基地の司令官室で食べたように、職場の人間と顔を突き合わせての会食はなくはなかったが。それは男社会のがさつなものだ。更に言うと、直前のクラーク家の別荘での三つ巴もあったが、あれは非日常過ぎてやはりカウント出来るような清いものではない。

 今のように一堂に会して、普通の人達と、調和と節度を保って

 ——食うなどと。

 すっかり忘却の彼方の光景だった。それこそ子供の頃の、遠い記憶の給食以来のような。

 ——まあ半分はエージェントなんだが。

 演技か猫被りか知らないがそれでも普通に食っていれば、それは懐かしい記憶を呼び覚ますには十分だった。

「どうした? やっぱりシェフの料理じゃ出来過ぎて口に合わんか?」

 そこを突いてくる紗生子は、口こそ悪いがスパイらしく流石の機微だ。

「だから早く準備出来たんですか?」

「当たり前だろ。これ程の物を四、五分で準備出来るか」

 と言う朝食は、トースト主体の洋風仕立てで、スープにサラダ、卵、ウインナー、豆等々。ご丁寧にも朝っぱらからスイーツまである。その品々の名前はよく分からないが、俺に言わせれば洒落た調理が施された、一見してホテルバイキングのような。

「何なら大根かじるか? 余りが冷蔵庫にあったと思うが」

 感慨に浸っていたというのに、その一言で見事に爆笑の渦の中心に祭り上げられてしまった。

「今、それを言いますかね?」

「上品な食事で歯がむず痒くなったのかと思っただけだ」

「ウサギみたいに言わないでくださいよ」

「前にそんな事を言っていたのは君の方だろうが? それを素直に気にしてやったというのに随分なヤツだな」

 と言う割りには、何処か楽しそうな紗生子である。

「はぁ、そうでしたか。そりゃどうも」

「スプーンとフォークは大丈夫だったか? 何なら手掴み直箸吸啜自由でいいぞ」

「きゅ、きゅうてつ?」

「吸うすする。赤ん坊がおっぱいを吸う時のそれだ」

 そこで追加の一斉噴射だ。

 赤ん坊が何とか——

 とか。何でそんなところに一番縁遠いような紗生子がそんな事を

 知ってやが——

 と脳内で愚痴って、エージェントらしく高いレベルで何役も熟す紗生子のスキルに医者があった事を思い出す。医は仁術というその著明な理から程遠い勝手気儘な唯我独尊女であるため、潜在意識がどうしてもそれを認めたがらないせいだろう。いつもそれを忘れている。

「もう好きに言ってくださいよ」

 手掴み自由でおっぱいだとか

 ——抜け抜けと。

 よくも紐つけて言ってくれたものだ。本当に紗生子のそれを吸啜しようものなら、生死を心配するレベルだろうに。

「何なら私の吸う?——って、もう吸ったかぁ」

 追加のアンの暴露突っ込みのせいで、卓上が瞬間沸騰した。

「何を紛らわしい事を! あれは俺のせいじゃあ——」

 それでまんまとそれを認めた格好になってしまい。何処までも俺は本当に、よくも悪くも何故か

 ——め、めんどくせぇ。

 事に絡まれる。

 その後、どんな言い訳をしたものか。思い出せない程、それなりに紛糾した朝食時を乗り切った俺とその御一行様は、食後まだ八時前だというのに宿を出た。

 朝っぱらだというのに残暑が厳しい瀬戸内の八月初旬は、一年の中で一番晴天率が高い、

「——んだろう?」

 とは、子供の頃の記憶だ。

「——でしたっけ?」

「そういう事にしておこうか」

「はあ」

 作戦行動中の事ならば、声もデータも筒抜けなのだ。微妙なやり取りは堪えて欲しいところである。

 それにしても只でも暑いというのに、出発してからというもの近場の坂を登り降りしてばかりだ。先行は佐藤先生とワラビーに任せ、紗生子と俺は背後や周囲に気を配りつつ、やはり後衛をのらくらと着いて行く。

 今日歩いているのは、昨日の半日で歩き潰した商店街地区から程近い千光寺公園とその周辺だった。確かにまだ歩いておらず、文豪ゆかりの地にして寺社が集中する情緒的なエリアではあるが、折角東京からはるばるやって来たというのに随分と固執して歩いているような。昨日今日で歩いているエリアは、実に二km圏内で収まってしまう箱庭感だ。

「他は見て回らないんですか? 皆々様方は」

 そんな素直な疑問に、

「君の故郷を散策したいと、アンたっての希望だ」

「え?」

 また見事に紗生子が意表を突いてくれた。

「こっちのマイクは切ってる。大丈夫だ。誰も聞いていない」

 私もそこまで野暮じゃないんだがな、と言う紗生子は、本当のところ何処まで俺の過去を知っているのか。と思ったが、この女の事だ。

 ——なんもかんも知ってんだろうなぁ。

「どうした? 浮かない顔して?」

「いや、暑いなぁと」

「そんな柔じゃないだろう」

 結局、そんなもやもやを引きずったまま尾道水道を眺めつつ延々山肌を登り降りして名所を巡り続け。ついにそのまま昼がきてしまった。

 そして昼食も、その山肌の中にあるレストランで食べるという執着振り。

「確かにね、いい所ですよそりゃあ。ですが折角ここまで来たんだし、他を見に行ってもいいと思うんですがね」

 と、四人席のテーブルを囲む中でつい漏らすと

「私、いろんな所に行ってるけど、こんな加減のいい情緒的な所って中々ないよ!?」

 興奮気味のアンが、食後のコーヒーをこぼし兼ねない勢いで予想外に食い下がってきた。確かに海と山に囲まれた風光明媚の趣きと何処か郷愁を誘う温かみは、まさに瀬戸内の小京都と呼ばれる所以ではある。が、それよりも、

「日本のちょっとした観光地って、最近観光公害オーバーツーリズム凄いし」

 そこに辟易しているらしい。

 ——まぁ確かに。

 近年のそれは何も日本に限らず、世界の観光地を悩ます問題だ。観光客の大挙に加えマナーが悪いくらいならまだマシな方で、ポイ捨て、落書き、信号無視、路上駐車・占拠、通行妨害、住居・建造物侵入等々。行き過ぎた行為は決して悪徳の一言で片づけられて良いものではない。それが日常化し、そこに暮らす地元住民の生活が成り立たなくなる程の深刻化を辿る例すらあるそれは、一言で片づけるなら犯罪なのだ。金で全てを解決出来るものと勘違いした無法者が、観光客の立場を逆手に取った低俗さで観光資源を崩壊させる構図は見るに堪えない。

「その点ここは、ゆったりまったりしてるしね」

「随分とお気に入りですね」

「それだけじゃないのさ」

 とつけ加える紗生子によると、その理由が俺の里・・・であるというまさかの展開な訳で。只でさえ行動的で困らされているというのに、そんな不可解さで困らせないでもらいたいものだ。

「しかしまあ昼からも、このまま山肌をぐるぐる回った方がよさそうだな」

「はあ?」

 そんな紗生子のよく分からない援護というか賛同に、つい素で顔をしかめたところでコンタクトのメッセージボードに不審者情報がピックアップされ始めた。何でも腕と顎と喉に包帯を巻いた人相の悪い三人の男達が、あからさまな人探しをしているらしい。そのターゲットというのが俺なのだ、とか。

「はぁ——」

 思わず顔を背けて、こっそり小さく溜息を吐いた俺だった。

"昨夜の連中だろ、これ?"

 が、紗生子はお見通しだ。

 追っつけで写真が貼りつけられると、あっさり確定した。それからはお互い、周囲に分からないよう忙しく手指を動かしての応酬だ。

"そのようですね"

"だから仕留めておけばよかったものを"

"すまきで重りをつけて尾道水道にでも放り込めばよかったと?"

"君の拳なら記憶の一つや二つ消し去れるんじゃないのか?"

 とは、無茶苦茶を言ってくれる紗生子である。

"まぁ今言ったところでもう仕方ない。こうなれば我々は離脱するしかないだろう"


 同日、昼下がり。

 紗生子と俺は、

「旅程の調整が必要になった」

 という苦しい理由で、文芸部御一行様から離脱した。帯同していると、俺どころか他の面々までが敵認定され兼ねないためだ。その中にアンがいるのであれば、それは明らかにNGである。もっとも仮に乱闘になったところで、御一行様の半分は日本の暗部を支えるエージェントだ。加えて周囲には影に潜む小隊規模の同僚がいる事でもあり、相手が中隊クラスでもない限り敗北する事はないだろう。が、御一行様の残り半分は荒事に無縁なお嬢様方とあれば、やはりいざこざは避けなければならない。

「俺一人だけ離脱しますよ」

 ターゲットは俺なのだ。連中も所属組織の面子で収まりがつかないのだろうから、結果はどうあれ俺一人が相手をすればよい。が、

「そうは行くか。アンの身も大事だが、仮にも君は、そうはいっても、アメリカ側から借り受けている身だ」

 粗末には扱えん、と紗生子がつけ加えた。

「はあ」

「仮にも」とか「そうは」などと。随分と念入りな打ち消しには痛み入る一方で、紗生子は紗生子なりに一応そんな意識も持っているらしい。普段の言いたい放題からすると、思いもよらぬ事だが。それが取ってつけたようなこじつけにしか聞こえない俺は、

 ——裏があるんじゃねぇかなぁ。

 素直ではないのだろう。が、逆らえる筈もなく。

 結局、紗生子のあからさまに不自然な急調整・・・に何故かつき合わされる格好で、俺は無理矢理本隊から離脱させられる事になった。となると、それならそれで、

「あー! また紗生子だけ抜け駆けする!」

 私もついてく! などと、アンがいつものよく分からない駄々捏ねで、また何かが勃発する。加えて、

「同感」

「まぁそうですよね」

 などと、俄かにふて気味のワラビーや佐藤先生までもが加勢するという意味不明の状況となり。気がつけば何故か、あっちを立てればこっちが立たないという微妙な立ち位置に陥っている俺だ。

 そんなすったもんだの挙句、千光寺地区を満喫する本隊に災いが及ばないよう、紗生子と俺は昨日歩き潰した商店街地区で囮になる事になった。

 ——囮ねぇ。

 それこそ意味がない。俺一人ならもう一度連中とやりあってけじめをつけるだけだ。何なら所属組織に殴り込んでもいい。とにかくケツを拭いた後は本隊に合流する事なく、一人で先に東京に戻ればよいだけだ。要するに本隊との関連性が輩共にバレなければよい訳だし、俺一人が先抜けしたところで警備態勢は厚く全く問題にならない。

 ——てぇのになぁ。

 また商店街に来た俺達は、先程昼を済ませたばかりだというのにまたカフェに入り、のんきにコーヒーを啜っている。それもわざわざテラス席に座り、往来に見せつけるが如くだ。

 いくらなんでも——

 目立ち過ぎて浮いている。こっち・・・はいつものポロシャツ綿パンで、一見して風采の上がらない素朴な中年。ややもすると通りがかりで一休みする近所の

 ——おっさんの体なんだが。

 連れ・・の只ならぬ女のせいで、完成にチグハグな男の置物・・・・扱いだ。

 諸悪の根源たるの方はといえば、今日は麦わら帽子にワンピース。品質やセンスの良し悪しがよく分からない俺でも分かりそうな、シンプルでありがちなコーデだ。が、俺と違うのは、一目で吸い込まれそうな程様になっていて実に堂々たる風貌。着衣云々を言う前に、とにかく中身の見映えが半端ない紗生子だ。

「どうした? 落ち着かんか?」

「いえ」

「そうか? さっきから溜息ばかり吐いてるだろう?」

「そうですか?」

 言われて初めて気がついた。

 ——そりゃまぁ。

 落ち着かないのは当たり前だ。絵になる女と相席している冴えない男が、周囲の耳目に晒され息を潜めている。その只ならぬチグハグ振りは、目に入ったならば様々な興味を掻き立てる事請け合いだろう。

「まぁ囮は目立ってこそ意義があるんだ。往生するんだな」

 当然そんな俺の苦悩など、やはりお見通しの紗生子である。

「囮の意味がないと思うんですが」

「なら先に東京に帰るか? 任務を放棄して」

「いや、その——」

 要するに俺の不手際を庇うための急な調整・・・・という事だ。黙っていると、

「少しは配慮が理解出来るようになってきたようだな」

 紗生子が小さく鼻で笑いながらも、またコーヒーを啜った。

「もし向こうから仕掛けてきたらどうしますか?」

「それはないな。白昼堂々連中も恥を掻きたくはないだろう」

「いつまで囮をする訳で?」

「せっかちなヤツだな。心配するな。夕方まで適当につき合ってやって、後は出たとこ勝負だ」

「出たとこ勝負って——」

 どんな勝負だ。まさか天下の往来で派手にやらかすつもりか。

「まぁ任せておけ」

「はあ」

 いや——

 紗生子だから心配なのだが。

「そもそも君一人であのザマになるような連中だぞ?」

 という件の三人組は、痛々しい包帯を晒しながらもやはり近場の飲食店のテラス席でじめじめと。陰湿な視線をこちらに浴びせ続けてくれている。

「理性に乏しい生き物はその分本能的なんだ。流石に何かを察するもんさ」

 確かに紗生子の大物感を目の当たりにすれば、どう見ても仕掛けにくいだろう。この衆目の中で物怖じするどころかむしろ楽しんでいるかのような紗生子は、堂々と椅子の背もたれに玉体を預けこれ見よがしに長い御御足を組み。冷艶さを帯びる切れ長の美目と危うい甘美を湛える鋭くも整った紅唇が怪しくも微かな笑みを浮かべるその余裕っ振りは、まさに自信満々にして傲慢不羈の魔女めいている。

 そこへ【トッ】と一匹の猫が、突然テーブルの上に乗って来た。

「うわっ」

 と、月並みな間抜けさの俺に対して紗生子は、

「ほう、アビシニアンか」

 反応までが一歩先を行く熟れ方で、まるで猫までもがその只ならぬ雰囲気に吸い寄せられているかのようだ。

「すみません。こらパトラ!」

「構いませんよ」

 撫でてもよいでしょうか、と慌てて駆け寄って来た飼い主の女主人に対するその泰然とした振舞がまさに男役そのもので、周りの視線が更に熱を帯びたような。

 ——うわ。

 紗生子を有名人か何かと勘違いしているのか。俄かな人集りの中で当の本人は穏やかな表情そのままに、のんきに店の飼い猫を撫でている。

「——な、慣れてますね」

「ああ、賢い猫だからな」

 紗生子によると、何でも【猫界のクレオパトラ】と呼ばれる程の猫らしい。まさに動物に例えるなら、紗生子はこんなイメージの美猫だ。もっとも俺が言ったのは猫の方ではなく、紗生子の方だったのだが。先程よりも少し顔つきが緩んだような、角が落ちたような。そんなふうに嬉しそうに猫を撫でるなど、意外にも程がある上にこれまた絵になり過ぎだ。ついには周囲から感嘆が漏れ始める有様で、まるで落ち着かない。

「それにしても、ちょっと目立ち過ぎじゃないですかこれは? こんなんじゃお店にも迷惑がかかりますよ」

「ん?——まぁ確かにちょっと増えてきたか」

 まるで狙っていたかのような紗生子だ。つき合わされる俺は堪ったものではない。紗生子が美猫なら、片や何もかもがぼやけて締まらない俺はその美猫に

「私みたいな在りきたりな柴犬には、この状況は耐えられませんよ」

 と称される身である。別に決して柴犬を蔑視する訳ではないが、自分をそれに見立てると何故か何処か締まらない間抜けなそれしか想像出来ない悲しさだ。

「そんな事を考えてたのか。気の小さいヤツだな。それが形に表れるのさ」

 また小さく鼻で笑った紗生子が、そのまま猫を抱えて席を立つ。

「そろそろ出るか」


 それからは、有名人がアポなしで商店街をロケしているような有様になった。立ち入る所に人の山を築く紗生子と、その付き人の俺。

「ここの蒲鉾は美味いな」

「この酢も中々いけるぞ」

「しかしこう暑いと昼から飲みたくなるな」

 などと。見た目は常人離れしているというのに、発する台詞はまるで、

 ——親父かよ。

 というチグハグな紗生子だ。

「昨日も来たでしょう?」

「それはそうだが、一応仕事だったからな」

 という事は、今日のこのザマは文字通りの観光といいたいらしい。

 ——まぁ確かに。

 囮にかこつけて好き放題やっているだけなのだ。断じて仕事ではない。それにしてもよく割り切れるものだ。元を辿れば自分の不始末だけに、

 ——どうもなぁ。

 当然俺は気乗りしないのだが。

 そうこうしていると、挙句の果てには商店街連合会の会長を名乗る御大尽が現れ、

「撮影許可を取ってもらわんにゃ困るんじゃが」

 などと注意される始末。当然許してもらったが、

「それにしても中々剥がれてくれませんね、パトロンの方々が」

「そうだな」

 噂が噂を呼んでいるのだろう。

 ついでと言っては何だが明らかに浮いている三人組も、実に粘り強くつかず離れずの位置で睨みを効かせてくれている。遠目に見ても包帯塗れで痛々しい上に真夏の暑さだ。自分で痛めつけておきながらも、俄かに気の毒になってくるのは俺の甘さだろう。

「とはいえ、余り離れ過ぎる訳にもいかんし——」

 アンにもしもがあれば、何をおいてもまずそれが最優先なのだ。つかず離れずの事情はこっちも同じである。それさえなければとっくの昔に商店街から離れているのだが。

 ——まどろっこしいな。

 何度も言うが、だからこそ手っ取り早く俺一人でカタをつければよかったものを。紗生子ともあろう女が一体何を考えているのか。

「——そうか。どうせこっちには時間があるんだ」

 と独り言ちた紗生子が突然手で口を覆うと、誰かと会話を始めた。スパイグッズで何処かへ連絡を取っているらしい。

「ではすぐに伺いますので——」

 で、話し終えたかと思うと、

「よし、決まった。一石四鳥だ。行くぞ」

「はあ?」

 俺に構わずスタスタと。新たに出来た目的地へ一目散だ。

 そのまま多くのパトロンを引き連れたまま、歩いて五分。やって来たのは、同じ商店街にある呉服屋だった。

「ここだ」

 と紗生子が僅かに怪しく笑んだかと思うと、中から

「おぉ! お待ちしておりました! ささっ! どうぞどうぞ!」

 先程の会長さんが福々顔で出て来たではないか。どうやらここの呉服屋の主人だったらしい。で、

「早速始めましょう!」

 いきなり中に押し込まれ。勢いそのままに、押しも押されもせぬ歓待振りだ。

「奥様はこちらへ。あ、旦那様はこちらです」

「——はぁ?」

 奥様、に、

 ——旦那様ぁ?

 突然のドタバタで聞き間違えたのかと思っていると、店の奥に連れ込まれるなり矢庭に服を脱がされ。

「——どういう事ですかね? これは?」

「どうって、一々説明がいるのか?」

 この格好で、と言う紗生子は典型的な白無垢、俺はコテコテの黒紋付羽織袴だ。小一時間もしない内に二人揃って仲良く呉服屋の中庭で記念撮影をしているそれは、どう見ても婚礼衣装の前撮りだった。

「いやぁ、今日日の呉服屋は中々やり繰りが大変でしてな。何分小さい街の事ですので、暇を持て余す事も多く——」

 などと、相変わらず福々しい会長さんの横で何処からやって来たものか。カメラマンがてきぱきと撮影用資機材をセットしては、早速撮影が始まる。

「はぁい、笑って——」

 月並みなかけ声が飛び交う中で、

「主幹と俺は、結婚するんですか?」

「さぁな。別に本当に結婚する必要はないと思うぞ」

「聞いてないんですけど」

「当たり前だろう。私が言ってないんだ」

「しかしこんな形じゃあ、本隊に何か起きても飛んで行けませんよ?」

「衣装を脱いで行けばいいだけだろう」

 まぁ大丈夫だと思うがな、と口を動かしながらも逆らえない俺は、その後もお色直しをさせられ。

「こう言う撮影って、結構かかるモンじゃありません?」

「だろうな」

 何でもモデルを兼ねているらしく、額を抑えたらしい。

「そんな事を——」

 軽々しく請け負うスパイとはどんなスパイだ。

「どうせ塗りたぐってるんだ。分かりゃしないし、そもそもスパイの面なんて隠し通せるモンじゃない」

 という事らしい。各国の名のあるエージェントは業界では引く手数多で、

「不肖ながら私もその類でな」

 顔は逆に売れているとか何とか。確かにそれは分からないでもない。が、それにしても

「一石四鳥って——」

 パトロンは確かに剥がれただろう。囮の方も先程までの様子なら、その役目は果たせていると言っていい。

 ——残りは何だ?

「まぁそう責めてくれるな。さっきの撮影許可騒ぎの時に会長さんから『店が暇で敵わない』と聞いてな。騒がせついでの返礼で、冥土の土産にでもしようと思ったんだ。こんな機会も中々ないしな」

「——何処か具合でも?」

「全然。至って健康だ」

「じゃあ——」

「勢いついでだ」

「はあ?」

 残り二鳥のうちの一つは、騒動のお詫びである事は分かったが。

「奥様、旦那様って——」

 どういう事か。

「一々面倒事を説明するのもどうかと思ってな。それならシンプルに、そういう事にしたんだよ」

 それを巷では自分勝手というのだが、紗生子はそれがスタンダードだ。

「大抵の物は着てきたが——」

 婚礼衣装だけは着た事がなく、一度ぐらいは試しに着てみたかったのだとか。そこは仮にも

「一応女なんだろう、やはり」

 わざとらしくもしおらしい事を抜かす紗生子に、一瞬だが不覚にも心音が跳ねた俺だった。普段そういう事を微塵も匂わせないというのに。その動揺がつい、

「猿の文吉じゃないって事ですか」

 吐いてはならないフレーズを口にしてしまう。

「そういう事だ」

 手が飛んで来るかと思いきや、何故か上機嫌な紗生子に、

「一石四鳥は分かりましたが、相方・・はもっとちゃんとしたヤツがよかったでしょうに」

 その素直な疑問を吐いた。

「まぁそれはそうなんだが——」

 そこはやはり、はっきり言ってくれる紗生子だ。

「——今この瞬間で傍にいるのは君だけなんだから仕方ない」

「職権濫用じゃないですか」

「やはり嫌だったか?」

 いつもなら「ぐず」だとか「やかましい」で片づけてくれるというのに。衣装の影響だろうか。その紗生子の絶美を前に、嫌だと言える意志の強いヤツがこの世にいる訳もなく。

「イエス、ノーなら、まぁノーですが——」

「そうはいっても、君の気持ちを確かめておくべきだったな。悪かった」

 と嫌に素直に言われてしまうと、

「いえ。これも作戦の一環ですから」

 と言わざるを得ないではないか。

「そう言ってもらえると、この愚かさも少しは救われるな」

 そんな謝意と共に苦笑する紗生子は、

 ——反則じゃねぇか。

 意外に人たらしかも知れない。

「勝手ついでに言っておくと、仮にもそれなりに手間取る写真を一緒に撮る相手だ。誰でも良かった訳じゃない」

 熱でもあるのか。それとも暑さでテンションが上がっているのか。

「そう、ですか」

「ああ」

 この女にそんな事を言われて、嬉しくないヤツがこの世にいるのか。

「まぁそういう事でしたら俺もやぶさかじゃありませんよ。どうせこの先こんなの着る事もないでしょうし」

「そうか」

「まぁ作戦ですし」

「そうだな」

 騙し合いの業界に長年身を委ねている女が、嫌に素直な反応を見せてくれるものだ。そんな女を前に強がるしかない俺は

 ——バカな男なんだろうなぁ。

 やはり在りきたりな心のざわつきを否定出来ないでいる。その本当の意味を思い知らされるのはもう少し先だったのだが。


 同日夕方。

「間違いなく、ここ十年来で一番のモデルさんでしたわ」

 飛び込みですっかり長居したにも関わらず、終始福々しい会長が見送ってくれたかと思うと、近場の店影には未だに張り込んでいる三人組がバラけて立っていた。

「ご苦労な事だな」

「執念ですね」

「暑さと痛みで辛いだろうにな」

 と言う紗生子が無造作にその内の一人に近づく。

「主幹」

「任せておけ」

 見た目は華々しい美人だが、中身は途轍もない武闘派だ。心配はしていないのだが、撮影で口数が減った分だけ角が落ちて、丸みのようなものに触れたせいだろう。思いがけず不安が漏れてしまった。

 だってよぉ——

 中身に女を感じたのは初めてかも知れない。そう思うとまた勝手に動悸がした。

 しかも黙ってついて行くと、

「少し話がしたいんだが」

 あの気が短い紗生子が、思いがけず対話を仕向けている。

 ——ウソ!?

 何の前触れだ。内心思わず身構えていると、対する三人組の反応がこれまた意外で、物も言わずに場所を変える紗生子について来るではないか。

 で、人気の少ない路地に入った所で振り返った紗生子が

「昨夜はこれなる私の部下が世話になったな」

 と宣言するなり、背負っている小洒落たボディーバッグの中から取り出したのは小切手だった。慣れた手つきで目の前で記載した金額は

 ——ひゃ、一〇〇万かよ。

 それを惜し気もなく突きつける。

「これで手を引いてくれないか? これ以上は出す気になれないんだが」

 すると三人組の顔が、俄かに卑しくも歪んだ。無理もない。飢えた野獣の前に肉をちらつかせたも同じだ。書いた額面がそのまま現金に成り得る小切手を、こんな連中の前で晒しては

 ——当たり前じゃねぇか。

 大体が、今時小切手を持ち歩いているとは。意外に古風というか旧世代型というか。

「やはり欲が出るか。少しは話が分かるかと思ったんだがな」

 それを察した紗生子が、次に取り出したのはグロック19だった。今日は、

 ——バッグの中か。

 に入れていたらしい。

 艶かしい所から出るそれを知っているだけに、場違いながらも安心する俺の斜め前で、臆面もなくそれを突きつける紗生子が、

「内閣府の者だ。CCと言えば聞いた事があるだろう?」

 まさかの身分暴露である。

「しゅ——」

 慌てた俺がそれを窘めようとする目の前で、三人組が一様に顔を歪めた。

「——え?」

 どうやら、ご存じらしい。

「我々は、裏社会じゃそれなりに有名なんだよ」

 俺の反応を読んでいた紗生子は、三人組に向き合ったまま余裕の解説だ。

「信じる信じないは貴様らの勝手だ。さぁどうするんだ? 引き下がってくれるのか? それとも一戦交えるのか?」

 その横顔に、見る見る怪しい影を宿らせ始めるそれは、紗生子の恐るべき魔性である。麦わら帽子の下から見え隠れする日本人離れした赤髪が、それを一層助長するかのようだ。これで引き下がってくれなければ間違いなく、今の痛々しげな包帯姿どころでは済みそうにない。

「今日は機嫌がいいんだ。出来ればそれでお引き取り願えると、お互い面子を保ったまま気分良く今日を終える事が出来ると思うんだが?」

 約一〇分後。

 結局、俺の心配が的中する事はなかった。

「三人分の傷害の示談金としては少し安い気もするが、向こうが因縁をつけてきた分の過剰防衛だとすればあんなモンだろう」

 今度は商店街から少し離れた海岸沿いのカフェに入って一休みである。ここなら然程人目につかないし、穏やかな海風が心地良い。

「本隊も無事のようだし、とりあえず首尾は上々だ」

 後は日没後の夜陰に紛れて宿に戻るだけだ。三人組を諦めさせたとはいえ、他の手合いが潜んでいるとも限らない。そこは一応、念には念という事だった。

「もし、示談が成立しなければ——」

「その時は壊滅するしかなかっただろうな」

 まぁそれはそれでストレス解消になるしな、と言う紗生子は、相変わらず造作もなくそんな事を口にする。それは既に東京で実証済みだけに、平和主義の俺としては一安心だ。

「でも武器がないのに、ですか?」

「作戦には必ず本社・・ストック武器庫が帯同している」

「そうなんですか?」

「ああ」

 それは偽装しているトラックらしく、当然目につくような事はないらしい。

「お陰様で、別の事・・・でストレス解消させてもらったしな。もうよしとしよう」

 とは撮影会の事のようだ。

「そんなに喜ばれるとは」

「長い人生であんな事はなかったからな」

 俺より短そうなものだが、随分大袈裟に言ってくれるものだ。アラサーに見えるため勝手にそのぐらいの年だと決めつけているのだが、かといってそんなに的外れでもないだろう。人類史上で間違いなく美容意識が最も高い時代に突入している昨今、年が分かりにくい今日日の女といえども五〇とか六〇とかいう事はないだろうに。

 とはいえそんな女は、撮影費用や示談金をポケットマネーで出してケロっとしている。アンに災いが及ばないための作戦とはいえ直接災禍が及んだ訳ではないし、元はといえば原因は俺なのだからCCの予算は出ない筈なのだが。

「東京に戻ったら返しますから」

「構わない」

「いやしかし——」

「私が払いたかったんだ。だから言うな。その代わり、払ってもらう時は是が非でも払ってもらう」

 とか何とか。正直、他人から施しを受ける事も、貸し借りを作る事も嫌いな俺だ。が、今回は俺の落ち度もあり、加えて強引な上司がそう言うのだから仕方がなかった。

「はあ」

「まぁ私は金に興味はないからな」

 やはり、それなりの財持ちのようだ。日頃の身形の事はよく分からないが、スーパーカーアルベールを保有しているその一事でそれは確定だ。が、そんな女が店のテラス席で突いているのは、一見して素朴で如何にも子供っぽいプリンだったりする。

「だからこんな庶民染みた物も食べられる訳ですか」

 いつもながらチグハグな女だ。

「偏見だな。まぁ良くも悪くも私はそう見られがちだが」

「違うんですか?」

「当たらずも遠からずだな」

「何処かが違って何処かは近いと言う事ですか?」

「そういう事にしといてくれ」

「問答無用でゴージャスに見えるんですが」

「それもよく言われる」

 と失笑する紗生子には紗生子なりに悩みがある、という事らしい。

「これでも私は食べ物に好き嫌いはないし、常識的に人が食せる物は何でも食える人間だ。水も食料も、人間にとっては有り難い頂き物だからな」

 そうした畏敬を紗生子が持っている事は甚だ

「——意外、ですね」

 と口にすると、紗生子の何処かをくすぐったようだ。

「みんなそう言うんだが、君に言われるのだけは心外で我慢ならんな」

「はあ?」

「これでも一時期は蛇や蛙、昆虫類はよく食ったぞ」

「ええっ!?」

「あと野生のワニも」

「ワニ!?」

「保護動物だったりするからな。入手ルートは聞くな」

 などと言う今の紗生子の艶やかさからは考えられない食い物の羅列だ。

「君もよく食った口だろう? 軍で」

「野生のワニはないですが」

「食用のワニは美味いぞ。場所によっては高級食材だしな」

「そりゃそうでしょうが——」

 紗生子の所属本籍が海自である事は知っているが、

「海自って、艦船でそんなモン食ってんですか?」

「聞いた事ないな」

「——ですよね」

 普通考えてそうだろう。サバイバルなら別として。

 ——ん?

 ではサバイバルか、と思った瞬間、紗生子が怪しく微笑んだ。

「公式記録には残ってないが、私はこれでも君んとこ・・・・の元陸軍特殊部隊員だ」

「ウソでしょ!?」

 通称【グリーンベレー】と呼ばれる猛者達の任務の過酷さは詳述するまでもないが、確かにその中に女が在籍していたというのは聞いた事がない。いくら男女平等の時代とはいえ性差というものは存在するし、TPOによってそれは当然尊重されるべきだ。が、軍の特殊部隊が活動するような現場は、普通考えてそういったものがまるでない。というか、デリカシー云々を構っている余裕などないのだ。シンプルに一個人の心身が物をいう極限の混沌に塗れる業界であって、少なくとも麗しいの美女が熟せるようなものではない筈なのだが。

 でも——

 よく考えれば、組事務所に殆ど一人で殴り込むような無茶振り女だし、ハイジャック犯を退治して血塗れになるような魔女だし。そんな前科がある紗生子なら、

 ——後は。

 泥の川を泳いだり密林で寝たり。そうした生理的に受けつけにくい状況さえクリア出来れば、余裕で務まりそうだ。それどころか、頭の切れ具合は抜群で度胸もある。実に強靭なメンタルを持つ紗生子ならば、

「確かに、隊内で天下取りそうな気が——」

「だろう?」

 そのイメージは、あながち間違いではなさそうだった。そしてその推測は後日、アンからもたらされた暴露話により紛れもない事実である事を思い知らされるのだが。それはまた別の話だ。

「でもまぁ出向扱いだったからな。一応月並みな養成課程も出た上で本隊に赴任したんだが、期間は短かったし余り威張った事は言えん」

「十分威張れるでしょ!? そんなの」

 こんな女だから、世の男などバカでスケベにしか見えない訳だ。無理もない。

「恐れ入ったか?」

「恐れ入りました」

「素直だな」

 俺の前任者は何れも空軍エリートだったそうだが、紗生子からすれば頭でっかちの役立たずにしか見えなかった事だろう。剥き身・・・の強さでグリーンベレーに敵うヤツなど、そういるものではない。

「——いかんな。君の素朴さは中々の武器だ。つい口が滑る」

 と言う紗生子が、

「アンじゃないがいい街だな、君の故郷は」

 穏やかな海に目を投げたまま呟いた。

「何でグリーンベレーなんかに?」

「私は爪弾き者だからな。あちこちで弾かれて、グリーンベレーはその腹いせの副産物だ」

 紗生子を使いこなせるような人間もいなければ組織でもなかった、という事なのだろう。余りにも色々な意味で切れ過ぎて

 ——煙たがられた、か。

 そんなイメージは痛い程紗生子と被る。それが古臭い体質の軍隊の事でしかも女の身とあっては、その末路は火を見るよりも明らかだ。その成れの果てがCCとは。仮にも順当にエリートコースを突き進んでいたならば、この女は今頃どうなっていたのか。少なくともこんな所で、俺と一緒にプリンなど突いている事はないだろう。紗生子はそんな今の身の上をどう思っているのか。

「お陰様で今はそれなりに楽しくやらせてもらっているから昔の事はもういいんだ。今日もデートみたいで楽しかったしな」

「なっ!?」

 思いがけないその肯定は、予想外を通り越して内心大慌てだ。言われてそれに思い当たる鈍さの俺は、よく考えれば確かに今日のこれは人生初デート、と言う事が出来るかも知れなかった。

「私みたいな女は意外にこういう事に縁がなくてな。作戦とはいえたまにはいいモンだ」

「そ、そうですか?」

「ああ。見合いは無理矢理押しつけられた経験が結構あるんだが」

 俺はそれすらなく。デートも初めてである事は黙っておく。

「実は私は人生初デートだったんだが、君はどうなんだ?」

 が、まさかの上司が思わぬ暴露大会だ。普段はクソ高飛車な女から拘りもなく言われてしまうと、

「俺も——そうだったかも知れません」

 こちらとしても素直に暴露するしかなかった。

 ——どうなってんだ一体?

 である。

「そうか。それは悪かったな。私みたいなのが初めてで」

「そんな!」

 と、いい年をした中年が慌てて声を大きくするなど実に迂闊だ。ちらほらする店内の目が、俄かに集まってはペコペコ頭を下げる事になった。

「端ないヤツだな」

「す、すいません」

「まぁ私は君が初めての相手で楽しかったがな」

 まただ。

「——今日はどうされたんです?」

 明らかに今日の紗生子は機嫌がよい。それは分かる。そしてそれ以上に、本隊から離脱後の紗生子は明らかに口が滑っている。

「熱でもあるんですか?」

「ストレートに月並みな事を言ってくれるじゃないか」

 ははは、と珍しく無邪気に笑う紗生子が、

「——そうだな」

 熱はあるだろうな、と呟いた。

「免疫がないのは私も同じだ」

「そうは見えませんが」

 いつもの大物感しか感じないのだが。

「だからさっきも言ったろう。そう見えるだけだ」

 いつになく何処かしら微妙な事を口にし続ける紗生子だったが、

「久し振りに楽しい旅だったからだろうな。柄になく気持ちが昂ぶった。そういう事だ」

 これでも仕事で散々飛び回って来てるんだがな、と呆れる。

「君の故郷だからだろう」

「また——」

 そんな戯言でふざける紗生子は、確かに初めてだ。

「まぁここでまったりするのもいいが、流石に余り長居しては店に悪い。ハイテンションついでに、時間を潰しで何処か案内してくれんか?」

「それが正直なところ、余り覚えてないんです」

「そうか」

 なら無理には言わん、忘れてくれ、といつになく素直な紗生子のせいで

「——何か気味が悪いですね。物分かりが良過ぎて」

 余りの事に、つい口が滑る。

「ホント言ってくれるな」

 でもやはり、それ以上言わない紗生子はやはりおかしい。確かに顔つきは至っていつも通りなのだが、言葉がそれについてこないと言うか。

「いや何か、調子が狂います」

「だろうな。私自身もそう思ってるぐらいだ」

 そう言われてしまうと何かむず痒くなり、じっとしていられなくなる。日没までは、まだ二時間はたっぷりあるというのに。

 ——敵わんな、こりゃ。

 と思っていると、目の前の海岸沿いを音もなくやって来た小型客船が、近くの桟橋に接岸した。

「意外に早かったな」

「はあ?」

「行こうか」

 と席を立った紗生子が手早く勘定を済ませると、颯爽と船に向かって歩き出す。慌てて追いすがると、その視線の先にある白亜の洒落た船内から、こちらに向かって手を振る人影があった。

「クラークさん!?」

 以下、文芸部御一行様だ。それだけではない。デッキ上にちらほら見える人影は見覚えのある同僚達・・・だ。と同時にまたしても瞬く間に、コンタクトの中でコールサインが賑やかに展開し始めた。

「今晩の宿だ」

「え? 昨夜の宿じゃあ——」

「もう引き上げた」

「は?」

 荷物も撤収済みらしい。

「いつの間に?」

「折角瀬戸内に来たんだ。船の上から多島美を拝みたくなってな」

 本隊から離脱後に急遽段取りをつけた、とか何とか。

「近くのクルーズ客船を貸切ったのさ」

 運転手・・・だけつけてくれれば、後の事は自前でやると言ったら貸してくれたらしい。

「そんな簡単に?」

 一見して小振りの船だが、見映えは悪くない。それが軽々しくもレンタル出来るものなのか。

 んな訳——

 がない。恐らく紗生子はずっと調整していたのだ。囮になっている間に。船の上なら万が一攻めて来られても分かりやすい。それは俺の迂闊が招いた敵の攻勢を警戒しての泊地変更だ。

「すいま——」

「勘違いするな」

「は?」

「私がそうしたかったんだ」

 同僚達の日頃の労に報いるために、何と自腹を切ったらしい。

「まぁ足らじまい分をな」

 生徒達の研修旅行費はクラーク家持ちだが、エージェント達の宿泊費用は出張やら有休やらが混ざって訳が分からない。何れにせよ数十人分の船中泊費など、足らじまい・・・・・といえるようなレベルの額ではないだろうに。

「一々賑わすヤツだな君は。私に言わせればこの程度はポケットマネーで済む話だ」

「そんなバカな」

「それよりも自分の事を心配しろ」

 と目前に迫った船を前に紗生子が、ぴしゃりと言った。

「何を、ですか?」

前撮り・・・の事が周りに知れたら事だぞ」

「ただの撮影会でしょ?」

「で済むと思うか?」

「済まないんですか?」

「相変わらず鈍いヤツだ」

 今を変えたくなければ黙っておく事だ、と言いつつも僅かに失笑した紗生子は、乗船後周囲に別行動の事を聞かれても適当な事を言ってはぐらかし続けた。

 ——今になって何なんだ?

 当然俺も、一々突き上げられるのが面倒なので黙ってはいたが。言われるまでもなく俺の中では、故郷での秘められた戯事たわごととして完全に終わっていた事だ。

 乗船後、場所を変えつつもまたやって来た撫子シェフエージェントの料理の腕前に舌鼓を打ち、瀬戸内の島々と美しい夜空を堪能し、久し振りにホテル仕立てのまともな個室でぐっすり休んだ俺は、すっかり英気を養い一同と共に翌昼過ぎに下船。そのまま何の問題もなく同日夕方には帰京し、文芸部研修旅行の引率を終えた。

 紗生子が漏らした懸念が思わぬ時間差で俺に災いをもたらす事を、この手の事・・・・・に鈍い俺は当然知る由もなかった。

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