体育祭の使役【先生のアノニマ 2(上)〜6】
九月中旬。放課後の夕方。
世の中ではシルバーウイークを目前に控えソワソワする中、学園内では別のイベント準備が佳境を迎え、ざわついていた。
「石灰お持ちしましたぁ」
「お、ありがとさん!」
そこ置いといてくれ、と言われた俺が訪ねたのは体育準備室だ。
「あぁやっぱり、倉庫へ置いといてくれない?」
「ええっ!? さっき倉庫から持って来るように言われて持って来たんですけど?」
「誰に?」
「さあ?」
まだ教職員に名前すら呼んでもらえない俺は、わざと惚けた事を言っている。
どうせコイツらは——
役職という一面でしか、人を見ようとしない安っぽい連中だ。
「あ、あと校務のおじさんに【玉入れ】用の玉のチェックも頼んどいてくれるか?」
「もうチェック済みで、報告した筈ですが?」
「誰に?」
「さあ?」
そんな俺は、校務の佐川先生の手伝いをする事が増えた。
「そんなんじゃあ、報告した事にならんだろう?」
「でも内線で連絡して、報告済みなんですが」
「それも合わせて、もう一回確認してくれ」
「はあ」
が、こんな調子で大した手助けになっていない。
そもそもが教職員達の校務に対する態度が目につき、その業務に対する理解を深めるべく手伝い出したのが事の始まりだ。聖職と呼び声高い正職員の教師達に対し、掃除や修繕等、地味な雑務を熟す非正規職員の校務員。
聖職と呼ばれる者達ならよぅ——
ある程度の徳は期待してもよさそうなものだが、その実際は世の
——まるで。
「結局『倉庫に置いとけ』だそうですよ」
「すみませんね。お手伝いしていただいて」
と言う佐川先生は、紗生子が言うような頑固さは表立ってはまるで見えず、素朴な作業着姿が板についた職人とは思えない程丁寧で紳士で。地下にある用具庫で、埃に塗れながらも微笑む。
「いえ。好きで手伝わせてもらってるだけですから」
「まぁ一息つきましょうか」
「他にも仰ってください」
「いえ、まずは一息。私がもちませんから」
御年六五という密かなる後方支援の要は、名前こそ本名だが職歴を伏せ身分を偽って採用されており、俺と同等かそれ以下の粗末な扱いに甘んじていた。それがどうしても我慢ならず、少し前に紗生子にも報告したのだったが、
「
と宥められてしまい。
「それはそうですが——」
職域だけで人格や身分を決めつけるそれは、
「まるでカーストですよ」
それが当然の如く行われている事に誰も疑問を持たない教育機関とは、一体何を教える所なのか。
「まぁ言わんとしたい事は分かる。そのうちみんなその凄みが分かるようになるさ。君と違って主計ちゃんはそういう渋さを持ってるからな」
逆に、
「自分の心配でもしてろ」
と説教されてしまった。
「気になるんなら少し手伝ってやってくれ」
「いいんですか? 手伝っても?」
「ああ。あれで中々忙しいんだ。極秘に
という事で、紗生子から許可を得た上で手伝っているそれは、間もなく開催予定の体育祭の準備だった。
「そういえば、玉入れの玉のチェックはどうなったって言われましたよ」
体育教師の松本とかいう若造に伝えた筈なのだ。それを体育科内で共有せず、銘々が思い思いの考えで好き勝手やっている。その煽りを下の人間に当てつけるという筋違いの構図。
「ま、そんな調子で切りがないので。息を抜いてないと頭に血が上りますよ」
休もうと言われた俺だが、一人で佐川先生の分まで進めようとしたところを、
「それに主幹先生のお気に入りの方をこき使う訳にも」
後が怖いので、と止められてしまった。
「その主幹の御下命ですから。サボってるとどやされます」
「いやいや。あれで見せかけだったりしますからね。表面的に見える感情だけで判断していると痛い目に合いますから」
ははは、と空笑いする佐川先生の淹れるコーヒーは毎度美味い。背中を押されて倉庫を追い出されると、既に何処かからその香りが漂っていた。
「コーヒー淹れてますから。一息つきましょう」
地下倉庫の空き部屋の一角に事実上の校務員室になっている部屋があるが、陽光届かぬ煤けたもぐら部屋のコーヒーとは思えぬ芳香だ。佐川先生は淹れたてをホットで嗜むようだが、残暑が厳しい中で俺のは事前に作っておいてくれた水出しのアイスコーヒー。そういう配慮が当たり前に出来る人である。
「そういえばこのコーヒー、主幹が常備してる物と同じような気が——」
「主幹先生からの差し入れでしてね。あれで中々面倒見が良いんですよ」
俺はあの魔女が認める稀有の技師から、
「そう、ですか」
そういう佐川先生も当然、俺達夫婦が任務上だけの偽装夫婦である事を知っている。
「名前をご存じですか? このコーヒーの?」
「いえ、存じませんが——」
「【コピルアック】といいましてね」
ジャコウネコに食わせたコーヒー豆を抽出して乾燥させた物なのだとか。
「わざわざ食わすんですか?」
「コーヒー豆は消化されずにそのまま排出されるんです。腸内の酵素や細菌の発酵作用で豆に独特の香味が加わって絶味が生まれるという訳でして」
「最初に気づいた人、凄いですね?」
「でしょう?」
ルアックとはインドネシアに生息するマレージャコウネコの呼び名。コピはインドネシア語でコーヒーの事らしい。作るのに手間がかかり産出量が少ないため、世界一高いコーヒー豆として名を馳せるが、それ以上の注目点が、
「その不思議な芳香が媚薬に例えられてましてね」
「媚薬、ですか?」
ルアックの肛門から分泌される【シベット】という媚薬成分だとか。それは香水の素にもなる程の物で、
「それを使った物は『これぞ女の香り』といわれる物なんです」
「はあ」
随分と生臭なコーヒーである。
「主幹先生からも良い匂いがするでしょう?」
「まぁ嫌な匂いではありませんが」
「シベットの香水はクレオパトラも愛用していたそうですよ」
「お詳しいですね」
「主幹先生からの受け売りです」
知識を共有する程、あんな魔女と
「仲がよろしいんですね」
という事か。流石は紗生子が頼る人材だ。
「おや? やいておられる?」
「いやいや。男嫌いの主幹から気軽に話しかけられる男というのがこの世に存在する事に驚いただけで」
「それをいうならあなたでしょう?」
「いやいやいや」
「冗談でもあのお嬢様は、中途半端な男と結婚するような人ではありませんよ」
「似たような事を理事長も言われました」
「理事長先生も、主幹先生とは長いつき合いですからね」
と言う佐川先生は、二人から色々と俺の事を聞知しているのだとか。
「あなたは本当に興味に尽きません」
「余りいないタイプだとは自覚していますが」
「そうですね。一見して
「そんな事までご存じですか」
「CCでも握ってないネタを高坂一族は握っていたりしますからね」
怖いですよー、と嘯く佐川先生のその声が、
「——って事は?」
紗生子のネタ元は理事長、と聞こえたような。
「あ、いや今のはオフレコで。ははは、年を取るとついいらん事を口にするものでして」
でも、とつけ加えた佐川先生は、只の好々爺ではない、思いがけない一言を吐いた。
「あなたぐらい血を被っていないと魔女には添えない、と言いたいんでしょう。あの人らしいといえばらしいですが」
その形にそぐわない生臭い口振りが、誰かと被る。
「良くも悪くも選ばれた存在。その力故、他人のために身代わりとなって血を被る。何より私が気に入っているのは——」
——そうか。
他ならぬ紗生子だ。
黙っていれば、万人が振り向かずにはいられない絶美。が、一度口を開けばそれが幻想だった事を物の見事に打ち砕いてくれる魔女。しかも本人はそれが当たり前で、全くの自然体というからそのギャップときたら始末に負えない。幸か不幸か側仕えの俺はそれを日常的に被る訳で、その鋭い舌鋒は諦念を決め込んでの生返事を許してはくれず、お陰様で以前と比べて喧嘩っ早くになった気がする今日この頃だ。
「二人とも何だかんだいって、正義も悪もあったもんじゃない世の混沌の中で、言い訳しないってところですよ」
善悪に絶対などないこの世の事。大抵の正義の裏には蠢く悪がある。金、物、力等々。ありとあらゆる形となって表裏を成し、光に照らされた背後で影がつき纏う。
「それらをね、清も濁もぶちまけるというか。胡散臭い善悪諸共食らって、鼻で笑ってゲップする不遜さというか」
「
普段、学園内で他人に紗生子の事を呼ぶ時は、夫婦となった後も役職で呼んでいる。在校中という事は仕事中なのだからそこは使い分けを徹底しているのだが、事情を知るこの人の前ではつい乗せられてしまう。理事長と同じだ。
「いやいやあなたも中々。諦念は見せかけに見えます」
「出来れば波風立てず、平和的に生きたいものですから」
「普段はそうでしょうが、いざとなると途轍もない爪を出す。そのギャップを気に入られたようですよ」
「下手物食いという訳ですか?」
「魔女だけにね」
「いい物食ってそうですけど? 私と違って」
「食事も別々ですか?」
「ええ、仕事柄。どちらかは必ず有事即応で」
「臥所も別々で?」
「当然です。女子寮最上階ですからね。妻の部屋は」
まかり間違っても、同じ布団で寝る事などないだろう。が、何かが間違ってそうなってしまったのなら。それは想像するだけで、何かが外れそうで怖い。そういう妖美は認めざるを得ない魔女だ。
「長期戦、ですか」
と佐川先生が、何やら含み笑いをした。
「長期戦?」
「いえ、こちらの話というヤツで」
「はあ」
「でも、気づいた時には魔女のテンプテーションにかかってると思いますよ、私は」
「かからない男がいるんですか? あの美貌を前に」
「皆無でしょう。男ってのは大抵下半身でしか物事を考える事の出来ない愚かな生き物です。でもあなたはそうではなさそうだ」
「同じですよ」
「精神の深いところは中々頑固で与しない」
「それも主幹が?」
「いえ、私の想像です」
「理事長もそうですが、どうも私の周りには哀れな子羊をあの孤高の魔女の贄にしようとする向きがあるようでして」
「そう見えますか?」
「ええ」
「それ程の、主幹先生らしからぬ変わりよう、という事ですよ」
「はあ」
変わりよう、と言われても。
——何の事やら。
さっぱり分からない。いつも態度がデカいだけの、居丈高な小面倒臭い紗生子である事に何ら変わらないのだが。特に最近などは、いつも不機嫌面を晒しては苛立っているというのに。
「一人の時は何でも完璧に熟していたそうで。それが私といると調子が狂うとかで、ひどい言われようですよ全く」
そう言うと、破顔した佐川先生が声を上げて笑い始めた。そこまで笑われるような事を言った覚えはないのだが。しばらく笑うと、
「すみません、ついつい」
謝罪を口にした後で、また思わぬ事をつけ加える。
「それなりにお年を召されたという事のようだ。若い頃はね、凄かったモンですよ。もう気に入らなかったら周りに当たり散らすっていうか——」
それは今も変わらないのだが。それはともかく、あのアラサーを捕まえて随分と年寄り扱いする。が、密かに顔をしかめる俺の前で、
「——そうか、だからコピルアックか」
勝手に納得する佐川先生だ。
「はあ?」
「鎮静と誘惑」
益々、よく分からない。
「結婚記念日は四月一日だそうですね」
「ええ」
日本においては年度初めで忘れ辛いという事と、春先の人事の目紛しさで学園への
「これ以上名前が増えたら君の頭じゃ切り替えられんだろう?」
と、甚だ余計なお世話の紗生子の配慮によるものなのだが。
「エイプリルフールとは、如何にも孤高の魔女様とその旦那様の記念日らしい」
「はあ」
「世の中の大抵の事は、突き詰めればもっともらしい曖昧な嘘から出た実なんです」
これは楽しみだなぁ、と嘯く佐川先生を前に、俺は媚薬コーヒーが進まない。が、
「それにしても、四月一日とは——」
思わせ振りな佐川先生の口は、然も美味そうに淡々とそれを啜り続けている。
同日、夕方六時。
寮の一階正面玄関を潜ると、その目の前に銭湯の番台の如く睨みを利かせる舎監室の受付に、紗生子が鎮座して睨みを利かせていた。
「どう、されました?」
女子寮側の応接室に押し込められるように宛てがわれていた俺の待遇は、俺を好ましく思わない教職員連中の筆頭だった校長が九月一日の出勤を最後に
少し前までは学園の教職員OBが交代で詰めていたそこは、今は紗生子が寮室に常駐しているため中断されている事は既に少し触れた。だから常時空室だったのだが、それでも俺がそこへ入れてもらえなかったのは、舎監が教員免許取得者に限られたポスト故だった。舎監は単なる電話番や受付番ではなく、時として寮内の風紀や寮生からの相談事などにも対応するものらしい。それを
「野蛮な軍人上がりに任せられるか」
という反対意見が教職員の中で散見されたとかで、それが誇張されて大義となった挙句、俺の部屋はずっと応接室だった訳だ。別に俺は舎監室に住み込んだとしても、歴代の元教員しか就いていないという崇高なその仕事をする訳ではないし、その権威にすがるつもりもなければ権力のようなものを振りかざすつもりもなかったのだが。要するに、俺を面白く思わない
その一派を仮に、元締めの役職を取って【校長派】とするならば、その長が失脚するなり同派閥は一気に衰退。新興勢力らしい【理事長派】が大勢を占めるようになるや否や、
「当然、舎監のお役目はございません。シーマ先生におかれましては
との理事長の鶴の一声で、舎監室は俺の居室となった。
そこは確かに、正面玄関に睨みを利かせる立地から不審者に対するアクションが起こしやすい事は言うまでもなく、受付室に加えて仮眠室や寮生の相談を受ける時に使う相談室もあるなど至れり尽くせりの構造で、如何にも無駄にプライドの高い元教員に宛てがわれる権威の象徴の如き構造だ。大して荷物を持たない俺にとっては広過ぎるくらいだし、校長派からすれば俺のような馬の骨がそこに居座るのは面白くないだろう。
「どうって、用があるからいるんだろう」
と言う紗生子は、俺を見るなりいきなり機嫌が悪かった。早速目で入室を促されて中に入ると、食堂で食っている筈の
「あれ? 晩飯が?」
「今日から朝夕の寮食は断ったからな」
「は? じゃあこれは?」
「今日からアンの部屋の家政士が作ってくれる」
「何でです?」
「二人とも住み込んでいる夫婦なのに、臥所も違えば食事も別々じゃあ不自然だろうが!」
——うわ。
不機嫌の原因はこの事、のようだった。要するにそれを伝える気恥ずかしさなのだろうが、間違ってもそれを指摘すると血を見兼ねないため黙っておく。
「でも事情はダダ漏れでしょう?」
俺達がアンのための住み込み護衛である事は、最早学園内で知らぬ者などいない公然の秘密だ。
「だから一緒に食える時、顔を合わす余裕がある時ぐらい一緒にいないと不自然だろう? そうはいっても我らは新婚だ」
だからとりあえず今日は飯だけ持って来たんだよ、と言う紗生子の分はない。
「こんなモンでいいのか? 内容は?」
大根、人参、きゅうりのスティックサラダに鶏のささみの塩茹で、だろうか。後は茹で卵が二つ、冷奴、味噌汁、白米、牛乳。何れも塊をそのまま食らいつく俺仕様に調理されているが、それでも何処かしら品を思わせるのは、
「スパルタ食なんぞ、家政士が作り慣れてないからな。サラダは皮を剥く程度で良いと言ったんだが」
紗生子の手ではなく、調理が仕事の家政士作だからだろう。
「十分です。——有難う、ございます」
「よし、じゃあ食え」
「お、お代はどうしましょう?」
「いちいち小銭を貰うのが面倒だから、月末締めで一括徴収だ」
「はあ」
とはいえ、とんでもない額を請求されても困る。何せ明らかに社会的階層が違うアンにして紗生子だ。
「一食どのくらいするんです?」
「そんなにしない。常識の範囲内だ」
「あなた方と俺の常識は、甚だ違うと思うんですが」
「ホント一々ぐずだな君は! めんどくさい!」
「そんな事言ったって、いきなり一か月数十万円とか言われても困るんですよ!」
「そんなにする訳ないだろうが!」
「大体が俺の食費知ってんですか!?」
「んなちまちましたモンを何で私が知っとかないといけないんだ!?」
と、言い争いをしていると、帰寮する生徒達の目が集まっている事に気づいた。
——しまった。
ここは寮の番台だ。で、ぼそぼそと。声のトーンを抑える。
「——で、いくらするんですか?」
「まだ言うか!?」
ホント面倒なヤツだ、と一緒に声を抑えた紗生子が、
「何なら私が全部持ってやる」
呆れて投げやりだ。が、
「俺は貸し借りは嫌いなんです。他人の施しを受けるのも。それをネタに、またとんでもないところで元を取られ兼ねないので」
それで一方的に偽装夫婦に仕立て上げられた俺である。
「ここぞで嫌味か。ホント言うようになったな君も」
「転んでもあなたの旦那ですからね」
「だからぐずるぐらいなら飯代ぐらい持ってやると言ったんだよ」
「だからそれが嫌だって言ってんですよ」
「遠慮はいらん! どうせ私の方が財源は潤沢なんだ! それに夫婦なら生計は一緒としたモンだろう!?」
「今は別々のご夫婦も多いですよ」
「あーめんどくさいなホント!」
「主幹が何でも一方的に決めるからいけないんでしょう!?」
で、また生徒達の好奇の目に気づいて。元の木阿弥だ。
「——うわ」
「ええい! 見せモンじゃないぞ! さっさと散らんか!」
紗生子の男らしい一括でまた平静を取り戻すが、それにしても一向に
「——戻らないんですか? 上に」
「何だ、いては邪魔か?」
「そういう訳では——」
「アンの家政士も、実は中々の手練れだ。それに最近はアンにも
少々の有事なら、常時
「はあ」
そういえば、家政士の事を聞くのは初めてだった。その人は以前【猿の文吉】事件の時にアンの部屋で少し見かけた程度だったが。何故か俺の周囲に散見されるアラサーの関係者に違わずその年代で、小さくて何処となく可愛らしい女子だったりしたものだ。それが手練れとは意外だが、それよりも今最も意外なのは、とにかく紗生子が俺から離れない事に尽きた。
まさかこのまま——
俺が全部食うのを黙って確かめるつもりなのか。何歩か引いてそれはよいとして、何故か勝手に苛立っては極僅かに身体のあちこちがぎこちなく震えているように見えるのは気のせいなのか。
「どう、されました?」
結局、振り出しに戻ってしまった。
「ど、どうもしない」
「い——」
今、あの紗生子がかんだ、ような。それを突っ込んではまた反動が凄いので黙っておく。が、それを察したらしい紗生子が
「ちっ! クソ!」
口汚く吐いたかと思うと、荒々しく室内の机を掌で一撃した。
「な——」
さっきから何を苛立っているのか知らないが、今度は叩いた右の掌を机につけたまま、何やらもじもじしている。
「何です、か?」
「う、ゔぅ——」
すると明らかにワナワナと震え出した紗生子から、獣のような唸り声が聞こえてきて。
「くくく」
「くく、く?」
バカみたいに復唱した俺に、
「そんな事を一々復唱するな!」
「あた!」
もじもじしていた御手で【バン!】と頭を叩かれると、その手があった所から小さな輪っかが出て来た。
「——手品? ですか?」
「んな訳あるか!? 今それをここでわざわざしないといけない理由はなんだ!? 教えろ!」
「教えろって——」
何だそのメディアみたいな詰問調は。それこそそれはこっちの台詞なのだが。人の頭を叩いておいて随分な物言いだ。
「じゃあ、ドッキリか何かですか?」
「本気で言ってんのかそれを!? どういう頭の構造をしていたらそういう答えが導き出せるんだ!?」
「毎度飽きもせず安定的に失礼ですよねホント!」
「そういう自分は相変わらずの間抜けだろうが!」
で、また生徒達の目が集まり。今はちょうど部活帰りの時間帯であり、夕食、入浴時でもあって出入りが頻繁なのは当たり前だ。そこへ向けてわざわざ一番目立つ玄関口の
「痴話喧嘩?」
「夫婦喧嘩だろ?」
「チグハグ過ぎるよやっぱ」
「離婚だ離婚」
などと醜聞に塗れて当然である。
「——相談室、使いますか?」
「逃げたと思われるのが癪だ。ここでいい。すぐ終わる」
歯切れ良い紗生子が、最後にまた思いがけないフレーズを吐いた。
「結婚指輪だ。しばらくの間でいい。つけてくれないか?」
「嫌がってませんでしたっけ?」
「そんな事はない。
——そうだっけ?
先日の防災の日に、理事長に言われて逃げていたような気がするのだが。それを言うと、またやかましそうなので黙っておくとして。今度こそ
「何のガジェットもない、正真正銘の只の飾りモンだ。外すタイミングはまた伝える。それまでとりあえずつけておいてくれ」
と言う紗生子はつけていない。
「私も同じ物を部屋に置いている。戻ったら早速つける」
そう言うと、俺の答えを確かめる事もなく立ち上がり、
「じゃあ頼んだぞ」
今度こそ部屋へ戻って行った。
「——何なんだ、一体?」
理由も言わず、また一方的で。嫌がっていたかと思うと、今度は進んでつけろとは。風向きが目紛しく変わり過ぎで、ついて行くのが大変だ。
その後。
朝晩には紗生子が舎監室に
「味はともかく、量は足りてるか?」
「味も量も行き届いてますよ」
「リクエストがあれば伝えるが?」
「何も」
「分かった」
いつもそんな素気ないやり取りで、寮の舎監室での食事は固まっていった。その一方で、
「今更わざとらしく結婚指輪なんぞしおってからにぃ! クソっ食らえだぁ!」
アンのこんな怒号を筆頭に、結婚指輪の方はつけ始めから好奇を誘った。飾り気のない俺が、素気ないながらもいきなり指輪をつけたのだ。その似合わない事は自他共に認めるところで、俺がバカにされるのは当然だったが、それ以上に話題を呼んだのが意外にも紗生子だった。
実は紗生子は、アクセサリーと呼べる物の一切をつけていない。圧倒的な見映えを誇る外見に呆気なく目を奪われるバカな男達は気づかないが、お洒落に余念がない世の女性観点では、その素気なさは有り得ないギャップで通っていた。
化粧こそしているが、俺の目にも紗生子のそれは厚くない。確かに凛々しく雄々しいが、その実顔つきはそれ程派手ではなく、それどころかどちらかというと清美で透明感すらある。それでも派手に見えてしまうのは日頃の言動のせいであり、加えて薄化粧でも化粧映えが凄まじいというか。化粧の事はさっぱり分からない俺に言わせれば、単純に化粧上手という事だろう。が、それよりも自分を良く理解しているというか、内面から止めどなく溢れる自信がそうさせているというか。
それは化粧に限らず、最早代名詞とも言ってもよい鮮やかな赤髪といい日頃のシンプルな着衣といい。常にかかとのないフラットシューズを履くそのスタンスが物語るそれは、常在戦場を弁え躊躇なくそれを優先しているにも関わらず周囲を圧倒する見映えという事だ。何せハイジャック事件時に、返り血で着衣が血塗れだったにも関わらず
「動きにくくて嫌なんだよ」
との素気ない一言で、ブランケットを羽織る事すら嫌がったような女な訳で。
それが——
何を理由にしたものか、左手の薬指に余
そんな周囲の驚きを知ってか知らいでか、紗生子本人は周囲の反応よりも自身の左環指の違和感の方が気になるらしい。無意識にそれに触れているためか、合わせて中指につけているCC謹製の指サック型ガジェットキーにまで指が触れてしまい、珍しくも誤操作する事が多くなった。用もなく俺を呼び出したり、空メッセージを送りつけてきたりで、
「すまん。間違いだ」
と、あの紗生子が謝る始末だ。これまでの、俺が知る紗生子ならそれをもって、
「こんなんじゃ有事に障るな。やめだやめだ! 外してしまえこんな物!」
などと感情任せに取っ払って、その勢いでごみ箱にでも捨てそうなものだったが。それが今回は、本当にどういう風の吹き回しか知らないが、短気を見せず頑張っている。
そんな周囲の好奇冷めやらぬまま、気がつけば九月も下旬に突入し。あっという間に学園は、体育祭当日を迎えた。
で、開始前だというのに、
『ゴロー、次いくぞ』
「ええっ!? またですか?」
相変わらず俺は紗生子の指揮下で、来場者チェックに忙しい。それもその筈で、只の学校の体育祭だというのに、グラウンドの周りを囲むように作られている仮設の観覧席数は一万という大仰振りである。それもしっかりとした足場を組んでのすり鉢状設計という気合の入れようだ。
それに比例して例年それ程多くの家族が見に来るらしく、昨今の物騒な世情も相まってか過去には不届き者まで紛れ込みちょっとした騒ぎに発展した事もあったとか。何せ全国に知れ渡る進学校とくれば生徒達は男女問わずいいとこの粒揃いな訳で、それを狙った
その過去の反省から学園側では、何年か前から【不審者対策】と称して来場者を事前登録制にしたらしい。家族からの事前申請で学園事務局が来場者リストを作成し、当日限定の【来場者カード】を生徒一名に対し最大六名まで交付する。基本的にはそれ以上の来場を認めないのだが、それでも二〇〇〇弱の生徒数を誇る学園の事ならば、最大でその六倍もの家族が押し寄せ、総計一万四〇〇〇の人間が校内に蠢く事になる訳で。いくらそれなりの敷地面積を誇る校内といっても、物事には
——限度ってモンがあるんじゃあないかい!
その圧倒的多数の中から少数の不正侵入者を探し出しては摘み出す、というのが俺の役目なのだった。
『相変わらずつべこべうるさいヤツだな。ドンドンリクエストがきてるからそんなこっちゃ終わらんぞ』
「何でそんなに——?」
おかしなヤツが忍び込んでいるのか、と朝一から何度言いかけた事か。それを口にしたところで詮無い事だ。
"やっぱり今年は、やたら多いようですよ"
と、正門前固定配置で学園事務局の職員達と一緒に来場者チェックをしている
"正規来場者の認識の低さが混乱の原因ですね"
来年は厳しくしないといけませんねこれは、とメッセージを送ってきたのは校務の佐川先生である。元CCの
「私一人だけ蚊帳の外というのは寂しいものです。頼っておきながら年寄り扱いというのも納得いかない」
と言う本人たっての意向により、
「あれで根に持つからな。拗ねて今後の業務に障っても困る」
との紗生子の判断で、この体育祭からタイアップするようになった。つまり、あの紗生子が渋々ながらも考えを改めさせられ、あの紗生子から一定の立ち位置を勝ち取った、という佐川先生だ。
『しかし、これは数が多いですね。私もお手伝いしましょうか?』
だからこそなのか、年齢不相応と言っては何だが中々積極果敢に意見をぶつけてくる。しかしそれは徐々に地雷に近づいているようで、俺としては心臓に悪いのだったが。
『いい。ゴローだけで大丈夫だ』
『でもこの有様では、老骨の手も借りたいところでしょう?』
イヤホンの向こう側で『よっこらしょ』とのんき気な声が聞こえてきたところで、
『だから表に出ようとするんじゃない、
やはり、落ちた。
その紗生子の雷と共に呼び捨てられた名は、新たに名づけられた佐川先生のコールサインだ。
『頭ごなしとはいただけませんな。たまには私も外に出て動き回りたいのに』
『そんな悠長はさておきだ。さっさと
基本的にARは味方に対してはオートで様々な情報が展開されるが、敵に対しては過去のデータの蓄積がある場合を除いてそれがない。判定材料は基本的に歩容データのみであるため、余程不審でない限りはAI判定後でも所謂
だから明確な敵認定には、通常の有視界下では各個エージェントによる情報の集積によるロックオンが基本であり、現状況下では各員のコンタクトを介した直接視認によるマーキング、つまり警察官の職務質問的感覚と大差ない訳なのだったが、その数が中々多く混乱気味だ。
『あぁ、一人寂しく地下倉庫の持ち場で缶詰で。——シーマ先生、応援が必要ならいつでも言ってくださいね』
「はあ」
『愚痴る暇があったら手を動かせ。ゴローはさっさと不審者を駆逐しろ』
「だからやってますよ」
『口答えはいい!』
と、相変わらず機嫌が悪い紗生子は、相変わらず
——毎度毎度。
俺にだけは雷の電圧レベルが高い。とはいえ、その
事前に学園事務局でナンバリングして配布済みの来場者カードは、一見何の変哲もない。が、実は完全非接触型のセキュリティーゲートを兼ねた正門を通過時、極秘裏に生徒本人やその家族、教職員はいうまでもなく果ては出入り業者に至るまで、学園に関わる者全ての人相や住所氏名等をデータ化した人定事項ファイルによって照合を行っている。「誰が何番のカードを持って来場する」という基本データの整合までは事務局の仕事。それ以降はCC側の極秘データだ。ありとあらゆる機会で収集されるそれは、表面的な人相に始まり指紋やDNAの採取など。ありとあらゆる資料の集合体である。
それを活用して、正門前配置の
「だって、こうも多いんじゃあ——」
予想外の不審者大盛況というヤツで、正門前で
「応援が——」
必要、と言いかけると、
『自分の仕事を棚上げして、私には
何とも粘っこい嫌味でなぶられる羽目になってしまった。基本的に紗生子は応援要請を嫌う。というか、その過程で本部と掛け合う事を嫌う。つまりはそのプライド故、頭も下げたくなければ頼み事をして借りも作りたくない。あちこちに敵を作っていそうな紗生子の事ならば、プライドこそ命なのだろう。
『そうはいってもこんな事もあろうかと
「はあ」
とはいえ、コンタクトの中は正規来場者のIDナンバーだけでも溢れ返っていて中々の混雑振りだ。その中で散見される
『君の目なら何となくでも殆ど同時にターゲットを追ってるんだろうが、とりあえず一つずつだ』
「はあ」
それはそうなのだが、捉えたターゲットをロストするのは精神的に受け入れ難い。見失えば次は自分がロックされる。つまり俺の中のロストの感覚とは、死を意識する瞬間だ。丘にいてもそんな本能がつい働く。
「せめてもう少し見やすければいいんですが——」
とまたつい愚痴ると、突然エラー表示のターゲットだけが赤くなった。
『これならどうです?』
とは
『オートでロックオン出来るかどうか、試していたのがどうにか間に合いましたよ』
『——って間に合ってないだろう!?』
これが入場前の正門で出来ていれば全部防げただろうが、と紗生子の怒鳴り声も後の祭りで、もう随分入り込んでしまっている。
『この技術一つ取っても、もう少し褒められてよいものですが。あなた様は相変わらずいつもお厳しい』
『分かった分かった。何かあったら責任取ってくれるって事だな?』
『じじいの首ならいくらでも出しますよ』
『能書きを聞いている暇はない。ゴロー、一時間以内に全員駆逐だ』
「はあ?」
とはいえ、ロックオンされているターゲットは既に数十に上っている。正門前に佐藤先生がいる事もあってあからさまなヒットマンの侵入は許していないだろうが、では姑息なヤツとなるとどうか。一応俺の目にもそんなヤツは見当たらないが。
そもそもが——
凄まじく鼻が利く
——それでも。
念には念だ。急いだ方がいいだろう。
体温、心拍、血圧、発汗、歩容、目線等。体育祭に向けて佐川先生が極秘裏に設置を進めていた非接触型バイタルセンサーを兼ね備えた恐るべき防犯カメラが、それら生体生理データをモニタリングする。それを受けたCC謹製のAIが、その精神状態を判断してAR上で赤色に濃淡をつけるというオートロック機能は、言うなれば驚くべき精神状態識別システムだった。
それってつまり——
——日本だよなぁここって。
少々たじろぐ。
で、AIARを参考に紗生子が優先順位をつけ、その司令下で俺が各個打破して行く不審者達は、薄っぺらい興味でアンを追い回すストーカー紛いの者や、ゴシップ狙いのパパラッチ等。そんな可愛いげのある者達から、金目当てで闇バイトに応募してアンの何かをつけ狙う身の程知らずの短絡的な不届き者や、ストレートにその身の誘拐を企図した大胆不敵な者等、背後に良からぬ組織の介在を思わせる連中まで。
これは中々——
侮れないたわけ達だった。その無謀さはまさに
——バカ野郎ばっかだな。
な訳で、同じ男として少なからず情けなくなる俺だったりした。
近年はそんな体たらくも多ければ、闇の入口が身近になったという事だろう。それにしても何処の敵だか知らないが、あの手この手で懲りずに攻めてくるものだ。そんな国家や国際的反社会勢力などが入り乱れた、込み入った事情の案件とは知る由もない哀れな
「ちょっとお伺いしますが——」
と、ファーストコンタクトぐらいは学園職員の体で平身低頭の対応という事になる。で、簡単に来場ルールを説明すると、
「何の権限でそんな事が言えるんだよ!」
「何処に行こうが自由だろが! 知るかよ!?」
「見たいから来ただけなのに、悪者にされる意味が分かんねぇ!」
などと。分かりやすくも拙い牙を剥いてくれるので途端にやり易くなるところまで、とことん哀れな素人達だ。で、
「いてててて! おい! やめろよ! いてぇじゃねぇか!?」
ちょっと腕を取って人気の少ない所へ誘い込み。
「どうしましょう?」
「あぁん?」
こんな場面でも安定的にナメられる俺だが、何はともあれ
「勘違いするな。こっちの話だ」
後は紗生子に判断を委ねる。これをとにかくシステマティックに続ける俺だった。
ホントはなぁ——
こんな見境ないアホ共など同じ男の責任としてその叡慮を賜るまでもなく、とりあえずは鉄拳制裁としたいところなのだったが。それでも一応民間人相手とあらば、最低限の手続きは踏むとしたものだろう。
『校内は完全
建造物侵入だ、と断定する紗生子の命で俺が次々に確保する不審者を、敷地外から何処からともなく現れる応援要員扮する
「今度は何処へ連れて行くので?」
『さてな。何せ
「国家の闇というヤツですか?」
『民主主義をいい事に義務や責任そっちのけで自由を貪っていた甘チャン共を気遣うような暇はないんだ私は」
「一事が万事、という訳ですか」
『分かりやすい悪は楽でいい。情け容赦しなくていいからな』
正義の枠からはみ出しまくりの諜報機関の事だが、それでも根底では国家の延長上に名もなき民の存在を感じ取ろうとしている。それなりに全うに生きるその下々が馬鹿を見るような自由民主主義社会は、どう考えても不合理で理不尽
『——だろう。我らはそのための闇さ』
とか何とか。
「
『古風な事を言うな君も』
まあこの分だと君の
こんな具合でちまちまと。しらみ潰しにARをオールグリーンにした時には、既に体育祭が始まってしまっていた。歓声や混雑に暑さも加わって沸騰する校内で、気を緩めたら発狂しそうだ。
『二時間かかったか』
「そりゃそうですよ」
手当たり次第にノックアウトしてよいのなら二、三〇分もあればよかったが、数十ものターゲットをあくまでも職務質問方式で行状を確かめる姿勢を崩さなかったのだ。それもこのクソ残暑の中、只っ広い校内を右往左往。
——ご苦労さんの一言もねぇのかよ。
労いの一つや二つ、期待しても罰は当たらないのではないか。それもあったが、何ダース単位ものターゲットを黙々と連れ去った
『しかし
イヤホンの向こう側で苛立っていた紗生子は、確保数に比例して普段通りの只の高飛車女に戻っていた。
『システムが熟れてくれば在校者を常時判定出来るようになりますよ。校内にあるセンサー頼みなので校内限定ですが』
と言う佐川先生によると、あくまでも今は来場者カード絡みでエラーが出た者のみを対象としているだけだが、精神レベルが目視出来てしまうそれはちょっとしたテレパシーのようなものだ。
「超能力の世界って事ですか?」
これで脳波もモニタリング出来れば完璧だろうが、流石に技術が追いついていないらしい。
『あくまでも、元々人間に備わっている感覚のサポートに過ぎませんよ』
危険を察知する能力は動物が生命を繋ぐための本能であり、
『大なり小なり誰でも根拠のない直感を持っているものでしょう?』
このシステムはその根拠を数値化して明示したに過ぎない、のだとか。
『——と言っては技術屋としては悲しいですが、人間の能力や感覚に比べれば、まだまだ足元にも及びませんよ。実際のところご夫婦の勘は、不審者を見極めていた筈です』
『今わざとらしく
そこへ冷徹な司令官から、また天の声だ。
『それに私はゴローと違って根拠を説明出来る』
暑さで無駄口が過ぎる諸兄に一応言っておくがこれからが
「分かってます」
セキュリティーシステム上、正規入場者ばかりとなったならば、次は本来業務たるアンの警護である。何せアンの身辺を守る事が校内の平穏に直結すると言い切っても言い過ぎではないのだから、良くも悪くも果てしない影響力を持つお姫様だ。と、そこへ、
"もうシーマ先生使っていいの?"
"どうかしたか?"
俺より先に決定権者の紗生子が答えると、
"何かこの暑さで使役の先生が倒れたらしくて"
"ゴローじゃなくて私の出番じゃないのか?"
校医兼任の紗生子でもある。
"自分で歩いて保健室へ行ったぐらいだから大丈夫だと思うけど、使役要員がさぁ"
時計を見ると、午前一〇時を回ったばかりだ。
——確かに。
既に三〇℃を超えていそうな暑さであり、残暑の午前中とは一線を画す酷暑といってよいだろう。そこへ向けて日頃頭でっかちの生徒達を教える先生達の事ならば、それに耐え得る体力を期待するのもまた酷というものだ。
で、一〇分後。
俺はグラウンドの中で、何故かペンギンの着ぐるみを被らされて立たされていた。
こ、こりゃあ——
問答無用で暑い。
その俺の傍にはホワイトボードがあり、左右を見渡すと虎やら熊やら兎やら。似たような着ぐるみがホワイトボードと共に立たされている。
そんな中で、
"ビィィィッ!"
電子スターターピストルが鳴って、数十m先で横一列に並んでいた一〇人前後の生徒達が、こちらに向かって走り出した。その生徒達と着ぐるみの間には、平均台や網や車のタイヤなどが転がっているそれは障害物競走だ。
ええと——
問題を書かなくては。スタートと同時にホワイトボードに問題を書き始める着ぐるみ達は、クイズ出題役の教職員だ。フリーコースであるため、参加生徒達は先着順で好きな着ぐるみの問題に取りつける。その段階でホワイトボードがひっくり返されて、初めて問題とご対面だ。要するに、出題傾向がバレないようにするための
問題はどんなものでもよいが、生徒達がスタートしてからホワイトボードに取りつくまでにマーカーで記載しなくてはならない。もし間に合わなければ出題役であっても後で罰ゲームがある、という中々の周到振りだ。
——まぁ簡単でいいだろ。
と、脳トレでよく使う暗算を書いて早速取りついて来た生徒に開示すると、見事に瞬殺されてさっさと通過された。流石は進学校の生徒だ。もっとも障害物競走のクイズなのだから、
——こんなもんか。
と思っていたら、他の着ぐるみの前では揃いも揃って生徒達が足止めを食らっている。何とも真面目に出題する着ぐるみ達だ、と横目で感心しつつも競技が中盤を迎えた頃、空調が利いた主幹教諭室で一仕事終えて一息ついている紗生子から思いがけない忠告がもたらされた。
『通過タイムが一番短い着ぐるみにも罰ゲームがあるようだぞ』
「ええっ!? そうなんですか!?」
『だって本部席の前でタイム計ってるぞ? ゴールタイムじゃなさそうだしな』
言われて横を見てみると、着ぐるみの出題を監視する生徒達がいて、確かにその手にストップウオッチが見える。
「マ、マジで!?」
と思わず叫んだ俺の傍を、また一人の生徒が難なく通過していった。
「——ヤバい!」
何を出題するか。まるで考えていなかった俺に考える暇はない。運悪くもこのクソ暑い中を出題役にされてしまった他の着ぐるみ達は、事前に出題内容を考えていた、とは後で聞いた話だ。
——それを先に言ってくれよ!
とはまさに後の祭りで、要するに罰ゲームを受けないための策略だったのだ。寄ってたかって事情を知らない新米職員の俺を陥れるという、姑息なやり口である。
結局、ペンギンゾーンの通過タイムはダントツの短さで、紗生子の予想通り罰ゲームを食らわされる事になった俺に下された罰は、
「あ、あちぃ」
そのままの格好で次の競技に強制参加、という何とも無慈悲なものだった。
「ちょっとペンギンさん!? しっかりしてよ!」
「してますよ!」
「って、前に全然進まないじゃないのよ!」
という今度の競技はムカデ競争だ。その教職員チームの一員として参加させられたペンギンの俺は、
「動ける訳ないっしょ!? こんな形で!」
丸々としたぬいぐるみの中で息苦しさに悶絶しながらも、ファンシーな可愛らしさの外見にリアルな遅鈍さをまんまと晒す格好となった。
「ビリになったら罰ゲームだよぉ!」
「またですか!?」
で、ペンギンが足を引っ張った教職員チームは見事にまた罰ゲームを食らい。
「や、やっと脱げたぁ」
殺人的な暑さの着ぐるみからようやく解放されたかと思うと、次なる罰ゲームは仮装リレーの着せられ役だった。
「って、また着せられるのかよっ!?」
今脱いだばかりだぞ、と思わず感情まかせに悪態を吐いていると
『この暑さを三種目連続とは流石にタフだな』
すっかり見学モードの紗生子の冷やかしだ。
「倒れたら労災ですよこれは!?」
敗者に容赦ない罰ゲームのスパイラルは、時代錯誤も甚だしい過酷さだと思うのだが。
『詳しいじゃないか』
まぁ着ぐるみさえ脱げば——
こっちのものだ。が、ようやく普段着を許されたのも束の間。障害物競走の時と同様、またしてもグラウンド内に立たされた俺は、やはり数十m先のスタートラインから生徒達が順番に一品ずつ持ち寄るパーツというか着る物に
「ちょっと先生! 早く脱いでよ!?」
早速、危機的状況に陥らされた。
「はぁん!? この状況でパンツ一丁になれってのかよ!?」
何せ周囲には一万前後もの観衆だ。何歩か譲って脱ぐのはよいとして、今日日のセンシティブ思考の世情では、見苦しい格好を晒してしまうと苦情がくるのではないか。という憂慮をよそに、
「——って待たんかい!?」
二人がかりで来ている生徒がいきなりズボンに取りつき、無理矢理引きずり下ろそうとする。
「次のペアでバスタオル持って来させりゃあいいだろが!?」
「もたついたらまたビリになるよ?」
「なるか! 今度はそんなに厚着じゃないんだろう!?」
間一髪でズボンを死守してリクエストを押し通した結果、数ペアの来襲で完成した仮装は、
「何じゃこりゃあ?」
ピンク色のド派手な長袖シャツとステテコに肌色の腹巻き姿。その至る所に愛嬌のある顔が描かれているそれは、
「変なお○さんだよ」
パーティーグッズではお馴染みのコスプレらしかった。何とも間抜けな格好だが、
「よし! もういいんだろ!?」
とにかくゴールしてさっさと着替えてしまえばよいのだ。が、
「ダメダメ! メイクがいるんだうちのクラスは!」
何でも仮装に使う部品数が少ないため、メイクをするハンデつきなのだとか。
「な、なにぃ!?」
「ほら! 塗りたぐるから動かないでよ!?」
「うわっぷ!?」
と、いきなり顔にドーランを押しつけられた。
で、また数ペアが押し寄せては、泥棒髭や紅ほっぺを仕上げて行く。最後に海苔眉毛を描き殴られ、
「こ、これ後で落ちるんだろうな!?」
まあそれはともかく、出来上がったのなら今度こそゴールへ走り抜けるだけだ。
「ちょっとまだまだ!」
が、また生徒達に押し留められてしまった。
「二人一緒にゴールしないとダメなんだってば!」
「なにぃ!?」
という俺の隣には、確かに何故か競技開始時から人のよさそうなバーコード頭の教頭先生が苦笑いしながら立たされている。やはり着々と仮装させられているが俺より着る物のパーツが多く、まだ完成していなかった。
「ウソだろ!? こんなんじゃまたビリっけつになるだろがっ!?」
「余
で、また数ペアの来襲でようやく完成した教頭先生は【バ○殿様】という、これまた愛嬌満点のド派手なお殿様だった。頭は折角カツラを被れる機会だというのに、ちょんまげ頭という情け容赦のなさである。個人の繊細な感情を逆撫でする生徒達は青春の只中で、今だからこそ大した手入れをせずともフサフサの毛髪な訳で、屈辱的にもそれを失った教頭先生の無念が透けて見えるようだ。
いやはや何とも——
気の毒な事だが、人ごとで感傷に浸っている場合ではない。このクソ暑い中、揃いも揃って何という間抜けな格好か。これは絶対、生徒達の教職員に対する日頃の鬱憤晴らしである事は疑う余地もなかったが、何であろうと競技はまだ終わらない。何と次にやって来た生徒達が教頭先生と俺の足首を紐でまとめて縛っているではないか。
「おいおい! 今度はなんだ!?」
「二人三脚で、サイの目の数だけ走ってゴールだよ!」
で、もう一人の生徒が手にしている大きなサイコロを振って、
「先生六だ! 頑張って!」
出た目の一〇〇倍mを走ってゴールという中々の
「鬼か!?」
理解不能な競技だ。
「このクソ暑いのにこんな格好で二人三脚で六〇〇mとかありえねぇ!」
という俺の絶叫も虚しく、観衆の失笑を掻っ攫った教頭先生と俺のコンビは、
「も、もう無理です。げ、限界」
「きょ、教頭先生!?」
結局、途中でオーバーヒートしてしまい棄権。ゴールすら出来ず失格となった。
『結局また罰ゲームじゃないか』
「これは競技に問題アリでしょ!?」
『文武両道がモットーだからなこの学校は』
「それは生徒の話でしょ!?」
『教職員たるもの範とならんとな』
「還暦直前の教頭先生も除外されない訳ですか!?」
競技後にその教頭先生を保健室まで連れて行くおまけまでついた挙句、暇を持て余しているらしい紗生子にイヤホン越しとはいえ延々何事かを逆撫でされ続ける俺に容赦なく下された次なる罰ゲームは、午前中一杯仮装状態のままで過ごす事だった。
「うわぁ、ひどい事になってるねぇ」
使役を手伝いながらもふらふら校内を哨戒していると、競技の合間で抜けて来たらしいワラビーとすれ違った。トイレだろう。
「何やってんの?」
「見て分からんか?」
「そりゃあそんなカッコじゃあ——」
ぶふっ、と失笑される俺は、敷地の東西を連絡する本館一階南寄りに位置する吹き抜けで、間もなく出番を迎える玉入れの玉をチェックしていた。
「毎年困ったバカたれが、玉入れの玉に小細工するそうだからな」
煙玉や癇癪玉を仕込む鼠小僧がいるらしい。全く困ったバカたれは何処にでもいるものだ。
「そういやぁ倒れて保健室行った先生って誰?」
さっき教頭先生を連れて行った時には、数人の生徒と保健の先生しかいなかった。そいつのせいで今の俺のザマがあるというのに、だ。
「体育の松本先生だけど?」
「おい、くっちゃべってないでチェックしろよ」
そこへちょうどその
「ちっ、こいつか」
思わず紗生子ばりに舌打ちが出る。
「何?」
「いや何でも」
他の教科担任なら分からないでもないが、よりによって体育教師が体調不良の体たらくを晒しても今日日は許される訳だ。保健室帰りとは思えない顔つきに加えて相変わらずの横柄さで、要するに詐病だろう。
——仮にも教育者たるモンが。
"おつむ弱いから恥掻きたくなかったのよ。こいついいカッコしいだし。私が呼んだばっかりにごめんねぇ"
本人を前にメッセージに切り替えたワラビーが、
"でもいい男はどんな格好でも似合うねぇ"
紛らわしいウインクをするものだから、つい顔をしかめる俺だ。
「おいおい、お前ら何か怪しいな?」
それを中々立ち去ろうとしない約一名が、無駄にあおってくれる。こういう輩がくだらない噂を広めていくのだろうと思い当たると、余計腹が立ってきた。
——さっさとどっか行けっての。
このおつむの弱いいいカッコしいは、ロックオンしつつ無視しておくとして。ワラビーの傍に、
「クラークさんは?」
その警護対象が見当たらないのが気になる。
「トイレだけど。ずっとくっついてても何だし」
「それはそうだが——」
と立ち話をしているところへ、
『その隙を突かれたようだぞ
「えっ!?」
「ウッソォ!?」
「だから何なんだお前ら!?」
ついてこられない松本に構わずワラビーが校舎内に立ち戻り、出て来たばかりの最寄りのトイレを覗くが
「いない!」
珍しく焦燥感露に叫ぶ。
『ジョーイは屋上へ配置! ゴローは追跡! 校内西側だ!』
ワサンボンは現場待機だ、と言う声が疾走し始めた俺の耳の奥へ一瞬遠ざかるが、
『講堂へ入った! 屋上へ向かうぞゴロー! ジョーイは飛来物に注意しろ!』
『六時の方向にヘリ一機!』
『これは——!』
『ちっ、とんだお客だ』
佐川先生の絶句と紗生子の舌打ちが被った。同時に早速講堂屋上へ駆け上がった俺の前には、総じて地味な服装の中小二人組に拉致されたアンがいる。二人共このクソ暑いのにニット帽を被っており、合わせてサングラスにマスク姿で人相も輪郭も捉え所に乏しい。小さい方は身長が一五〇台でアンより二〇cmは低いように見えるのに、一人で上背のアンを見事に取り押さえている
——女?
のようだ。もう一人の中くらいの方はどうみても
——男。
に見える。一応【猿の文吉】の例もあり、断定せず思考に余地を残す癖がついている俺だ。その一六〇台の痩躯が、動揺皆無の佇まいでじっとりとこちらを注視していた。その距離、約一〇m。柔道や剣道でいう
『ジョーイ、狙撃中止だ!』
そんな俺のコンタクトを見たらしい紗生子から思わぬ指示が飛んだ。ジョーイの腕前なら人質を掻い潜って敵を狙い撃つ事が出来る距離感だというのに。
『ゴロー、ヘリが来る前に二人を確保しろ!』
「は?」
『その
何というチグハグな命令か。
「無茶言いますね」
『ちょうど丸腰だろう?』
「ええまぁ」
何せ【変なお○さん】のままだ。
これが——
果たしてどんな仕込みか。
「何だお前らは!?」
その緊迫した場面で、まさかの体育の松本が登場だ。
『何でコイツがいるんだゴロー!?』
同感なのだが確かめている時間はない。
「使役中だったんで。急に抜けたのが気になったようです」
「は? 誰と話してんだお前?」
そうこうしている間にも南の空からヘリが接近する。もう一、二分もあれば直上だ。うだうだ説明している暇はない。
「その子をどうしようってんだ!?」
流石に素人らしく、俺の横に来た松本が不用意に相手に近づく素振りを見せた。俺よりも立派な体躯のこの男は剣道部顧問で、少しは腕に覚えがあるらしい。相手の手に
まぁ——
いいカッコしいならその血が騒ぐのも無理はない、といったところか。
「場合によっては警察を呼ぶぞ!」
——何を悠長な。
警察を恐れるような腰砕けがアンを狙う訳がないではないか。思わず失笑しかけた俺は、得意気に前に出ようとした松本の
「なっ!?」
その足を引っかけ、前方につんのめらせたところを追加で背中を一押し。誇らしげな体躯を前屈させると、格好だけは立派なその背中を踏み台に、
「よっ」
一気に相手の懐目がけて飛び込んだ。前衛の男を体当たりで薙ぎ倒し、その勢いででんぐり返しのまま後衛の女の足を人質のアン諸共刈り取り。
「きゃっ!?」
もつれながらも倒れたアンだけを掻っ攫って、また
「怪我はないですか?」
「うん」
立ち上がって背中に隠したアンの語尾が、緊張感なく苦笑で緩む。階下に降りる出入口は一か所、敵を挟んだ向こう側だ。笑っていられる状況ではないのだが、
「流石にその格好じゃ笑っちゃうよ」
「あの男のせいですよ」
不名誉な姿を晒す元凶となった松本は、アンと入れ替わりでまんまと人質になっているではないか。つくづく使えないヤツだ。
「いでででで! や、やめろ!」
今度は男の方が
「おい! 早く助けろ! 何ぐずぐずしてんだ!?」
「あんな事言ってるよ?」
「大丈夫ですよ。剣道部顧問ですから」
の筈が、
「お前ら、あの子がアメリカのお偉いさんの娘さんと知っての事か!?」
何とも間抜けな事を言っている。
「いででで! おい、いてえからやめろって言ってんだろ!? アンちゃん! お父さんに言ってこんなヤツらやっつけてもらってよ!?」
しまいには、決められた腕がやり切れなくなったのか、
「お、おい! 俺なんか人質の価値がないだろ!? 人質交換しようぜ!? な!?」
言ってはならない事を吐き始めた。
「何か、また人質にならないとダメなのかなぁ?」
「俺と代われって事じゃないです?」
「先生に私程の価値があるの?」
「あ、そうか」
はっきり言われて少し寂しい気もするが、
「私はその価値を認めてるけど、世間様はって事よ?」
そんなフォローを小娘の年代に入れられるのが一層情けない。それにしても、
「腕が痛くて、つい本音が出るんですかね?」
こんなヤツが顧問とあっては剣道部も高が知れている。呆れる俺達を前に松本は、一度だけなら冗談で済んだかも知れないものを、何の策か知らないがアンに「代われ」と要求を繰り返し。挙句の果てには
「おい! アメ公マジで何とかしてくれ!」
と泣きべそをかき始めた。
「あれで教師?」
「ええ体育科の。精強な剣道部顧問です」
そんな有り得ないやり取りの中で敵方二人組は全く物を言わず、刻一刻とヘリが近づく。
「もう聞くに耐えないんだけど」
「俺が
「分かった」
「素直ですね」
「だってやっぱり先生って頼もしいんだもん。そんな形でも」
「そりゃどう、も!」
と、俺は隠し持っていた仕込み玉を松本の顔面目がけて投げつけた。
「いで!?」
【パパパン!】
どうやら癇癪玉だったらしい。その衝撃と破裂音に驚きバタついた
「えっ!?」
という間抜けな
「ハァッ!」
と、気を吐いた後衛の女が狙いすました回し蹴りの返礼だ。それを力任せに腕で払い除けたどさくさで逆に腰を取り、そのまま足元に転がっている二男の上にスープレックスを決めたところで
「カンカンカン!」
と、アンがゴングの口真似をした。
「見かけによらず豪快ねぇ!」
「何をのんきな——!」
早く逃げろ、と言いかけたその時、ようやく一目散に駆け出したアンは何故かそのまま俺に飛びついて来る。
「そんな格好でもやっぱり先生最高!」
「いいから逃げなさいって!」
のびているのは敵二人のサンドイッチになった松本一人だ。その
「こうしてられるんならもう何だっていい!」
「バカな事を言いなさんなって!」
俺に頬ずりするアンが離れようとせずジタバタするため、結局のびている具以外は俺の足元から飛び退ってしまった。
「あちゃあ——」
とりあえずここまでの流れでアンを取り返して逃げ道も確保出来たからよしとするが、全く困ったお姫様だ。敵方はその身の熟しから紗生子の言う通り中々の手練れで戯れている余裕はない。アンも松本も俺の言う事を聞かないのならば事実上四対一の構図だ。加えて上空には件のヘリがもう殆ど直上におり状況は悪化の一途。とりあえず民間機のようだが、またドアガンが出てくるようなら始末に負えない。
「必殺カンフー出すっきゃないでしょ?」
「だから逃げろっての!」
屋上出入口へ向けてアンの背中を押し出したところで、今度は男の方が飛び込んで来た。
——うわ!
シンプルなストレートの正拳突きが予想通り速い。紗生子がいう通りの
こりゃあちょっと——
つい反射で顎を狙うような相手ならば、怪我をさせずに捕獲というのは難しいかも知れない。バタバタ羽音がうるさいヘリは既に真上だ。
「ちっ!」
このままだと敵と俺の間でのびたままの
「ゴーゴー先生!」
相変わらず逃げようとしないアンが、また絡め取られてしまう。
どいつもこいつも——
「面倒かけやがる!」
もう誰が聞いていようと知った事か。気合と共にまた敵に飛び込んだ俺は、二人まとめてタックルで突き飛ばした隙に、松本の両足首を掴んでジャイアントスイングで出入口側にぶん投げてやった。その間隙を突いた敵二人が瞬間でまた肉薄して、二対一の乱打戦になる。
——んなろぉ!
中々に手強いのに怪我をさせるななどと。我儘なリクエストについ腹が立って鼻息が荒くなる俺だ。その乱戦で素人なら一撃必倒レベルの手刀を女の首筋に、男の方は頬を引っ叩いて脳を揺さぶってやったというのに、二人とも小兵ながら実に打たれ強い。それを必死こいてやっているのが【変なお○さん】という、傍目に見れば有り得ない滑稽さだ。
『ヘリが降りて来たぞ』
その最中、場違いなのんきさの紗生子の声でとりあえず互いに背後へ飛び退ったところで、
『それまで!』
イヤホンに校内のエージェントではない、女の凛々しい声が響いた。
「え?」
思わず周囲を見渡す俺だが、まさに目前に着陸するヘリの轟音と風圧の向こう側で、敵だった二人の男女が見るからに肩を落として脱力している。
『いやぁ実にお強い!』
『徒手ではとても敵いませんわ』
しかもこれまたイヤホンを通して感想のような声まで聞こえてくるではないか。
「やっぱセンセー最強ね!」
更にまた懲りずにアンがしがみついて来て、訳が分からない。で、ヘリが着陸したかと思うと
「こら! アン、離れなさい! 淑女のする事ではありませんよ!」
極めつけが中から後光が降り注ぐかのような、実に堂々とした品の良い淑女が降機して来て。その叱責ついでに俺を見ながら一言。
「何です、その格好は?」
変質者でも見るような冷視と、初対面でも容赦ない厳しさと。有無を言わせない威風凛々たる出で立ちは、まるで紗生子を見るようだ。
「はぁすぃません」
もう何がなんだか。弁解する気にもなれない。
その小一時間後。昼がきた。
昼休みに入った体育祭は、会場のあちこちで弁当を広げるお馴染みの光景が広がる中で、何故か俺はまた理事長室の応接ソファーの上座に座らされて、
「罰ゲームとはいえ、さっきの格好は何事です? 大の男があのような体たらくで——」
何故か説教を受けていた。
防災訓練の時もそうだったが、事が終われば理事長室という流れが出来つつあり、理事長に罪はないのだが何となく
——この部屋。
嫌いになりそうな。
ようやく普段着が許され、顔に塗りたぐられたドーランを落としてスッキリしたのに、気持ちは晴れない。
目の前の下座には、やはり理事長。その横にはアンが掛けており、俺の目の前で何故か嬉しそうにしている。その背後には敵方だった女が俯き加減に姿勢良く立っており、サングラスとマスクを取っ払っていた。服も着替えており、何故か三角巾にエプロン姿でまるでメイドのようだ。また、議長席の対面には佐川先生と、やはり敵だった男が並んで座っており、この二人は何処か顔つきが似ているような気がするのは果たして気のせいなのか。
「聞いているのですか!?」
「え?——申し訳ございません」
「まぁ何とも冴えない方ですね。紗生子さん、説明してお上げなさい」
「君の脇が甘いというお話だ」
やはり俺と一緒に上座に座らされている紗生子が、苦虫を潰しながらも珍しく大人しい。全ては議長席に座る来訪者のせいだった。
理事長の実祖母という席次通りのこの場の長は、高坂財閥宗家の現当主夫人にして、長年に渡り日本の中枢を影ながら支え続けた功労者、らしい。つまりは、
「そりゃあ稀代の女フィクサーからすれば、大抵の人間は甘チャンに見えるだろう?」
「フィクサー、ですか?」
「ああ。何せ事実上のCC創設者だからな」
「ええっ!?」
という、恐るべきお局様なのだとか。だから初見なのにこんなにも
——ぎゃんぎゃんと。
うるさい訳だ。
「そういう事は、本人を目の前に言うものではありませんよ?」
「失礼しました。何分私も例に違わず脇が甘いものですから」
驚くべきはあの紗生子が敬語で、一応それなりに謙譲しているという衝撃である。
「だからこその、白々しい指輪という訳ですか」
「そうですね。弁明仕様もなく」
「あなたともあろうお方が。随分と丸くなられたものですね。それなりにお年を召されたせいかしら?」
「そうですね。
それにしても先程来、バチバチとこの二人が火花が散らしているように見えるのは気のせいではないだろう。その証拠に、アンがニコニコとあからさまに喜んでいる。
「これって離婚しかないでしょ!? 伯母様!?」
やはり。この困った姫様の思考は、紗生子と俺の事になると思いの外短絡的で、呆れを通り越して微笑ましさすら覚える今日この頃だ。
「軽々にそんな事を口にするものではありませんよ? アンさん」
と窘める理事長は、お局様をお婆様と呼んでいる。
「姉様は本学園の学祖三谷家の先代長女。アンの母はその五女だ」
そんな俺の疑問を、相変わらず察しのよい紗生子が絶妙のタイミングで説明してくれた。
「つまり理事長が姪っ子さんで、クラークさんが叔母さんって事ですか?」
「正確にはアンが
「【ジュウシュクボ】に【ジュウテツ】ですか」
もっとも法律家らしい紗生子の正確過ぎる家族法上の文言は、俺の耳には余り馴染みがない。
「労働関係法は
そこをさり気なくも、俺の素性を押さえている事を匂わせてくれる紗生子は、何処だろうと小悪さを忘れない皮肉屋というヤツだ。それならば、俺の頭の容量など高が知れている事ぐらい
「分かって言ってますよね、絶対」
「さぁなぁ」
紗生子のこの手の嫌味にも随分と慣れた。間違っても情が移ったとかではなく、単にそれだけ分の時を重ねただけの事だが。
「まぁ簡単に言えば【
上流階級は
「って、前にも説明したろう?」
「そうでしたっけ?」
では、紗生子との関係性はどうなのか。
「私は理事長と仲良くさせてもらったお陰様で、これら上級国民の方々とお近づきになれたに過ぎないんだ」
と本人がさり気なくつけ加えるが、それにしては
——態度がデカい。
ように見えるのは、やはり気のせいではないだろう。それにしても遠慮がないというか、恐れを知らないというか。
「ホント白々しいったらありゃしない。結局紗生子が一番好き放題やってんじゃない」
と、上級国民の一員たるアンが訳知り顔であげつらうが、
「どういう意味だ?」
その面々を前にまるで怯む様子もなく。やはりいつも通りに瞬間沸騰する紗生子だ。
「エージェントの身分をいい事にやりたい放題し放題。任務を
「してないだろ!」
「してるわよ! ねえみんな?」
とアンが見回す中に、何故か背後のメイドのような女が含まれている。そんな俺の疑問を、
「アンお抱えのメイドだ」
一々教えてくれる紗生子だ。
「って事は、住み込みの家政士さんって事で?」
「そういえば、紹介してなかったな」
赴任から三か月。
「最近、私の食事を作ってくれてるのも——」
「そういう事だ」
とか何とか。
「——まさかこの方もエージェントとか?」
「違う。が、高坂家からの派遣でな。高坂の使用人ともなれば、一癖も二癖もある特殊技能保有者がそれなりにいるのさ」
と紗生子が口を開いたタイミングで、
「イザベルです。ベルとお呼びくださいませ」
やはりアラサーの小柄で可愛らしいその人は、日本人離れした白さでフランス人形のようだった。
「日仏ハーフでして。シーマ先生とはフランス絡みでお話が合うかも知れませんね」
以後、お見知りおきくださいまし、と見事な立居振舞は流石名家の使用人としたものだったが、先刻の油断ならぬ肉弾戦を繰り広げたあの女と同一人物とは俄かに信じ難い。
「ついでだ
と、立て続けに紗生子が佐川先生の隣の男に水を向けると、
「佐川
一見していぶし銀のナイスガイが、やはり姿勢よく僅かに腰を折った。年が分かりにくいが、少なくとも四〇は超えているか。それを臆面もなく呼び捨てにした紗生子だ。もっともそのイメージは紗生子と合致するが、つまり年長者に対する礼が必要ない程の関係、という事なのか。
「執事だ。因みにやはりエージェントではないが、中々の
「そうだったんですか!?」
「先程は、弟めが大変失礼しました」
話が思わぬ方向に咲いていき、佐川先生が柳のような柔らかさで頭をさげた。
「つまり、ベルさんと弟さんは、同じ勤め先のご同僚って事ですか?」
「二人に限らず、我ら以外はみんな高坂家絡みって事だ」
その長が議長席のお局様な訳だ。CC創設者というこの長の家といいその配下といい。先刻来の話し振りから全員が当たり前のようにCCの存在を認識しており、俺の素性も承知の様子で中々油断ならぬ人々だ。今更ながらに
「高坂家はCC以上のネタを握っている」
と言っていた、いつぞやの佐川先生の余談を思い出した俺だった。
——そういえば。
紗生子にしても俺の素性を赴任当日にいきなり暴いてくれたのだから、その身は高坂家と浅からぬ縁という事なのだろう。
「勘違いするな」
「は?」
「この面々が特殊過ぎるんだ。CCが極秘裏の諜報機関である事に変わりはない。少なからず闇に塗れた人間でもない限り都市伝説レベルだ」
「そう、なんですか?」
「もぉ。紗生子を攻め立ててる時にこれだからさぁ」
そこへアンが拗ねた声を上げた。
「先生天然過ぎるよ。まぁそれがいいんだけどさぁ」
「この面々を前に、油断したら二人の世界に入りそうですしね?」
今度は理事長が入れ替わり。
「仕方ないだろう。要領の悪い部下なんだ。一々教えてやらんとすぐおいてけぼりになるしな」
「それ程までにお気に入り、という事でございましょう?」
「何が言いたい?」
「お披露目の場、という事ですよ」
だから上座に座らされているようなのだが、詳しくはまた説明してもらわないとよく分からない事を言い始めたものだ。で、それとなく紗生子の方をチラ見すると、
「少しは自分で考えろ。大体君が鈍い——それこそ脇が甘いから一々突き上げられるんだ。少しは普段の怠け癖を改めろ」
「はぁすぃません」
叱られついでに
【ぐうぅぅ——】
腹が鳴ってしまった。
「——これだ。やり切れん」
紗生子の嘆息に、一拍遅れで周囲が失笑に包まれる。
「こういう男なんだ。少しは私の気苦労も察してくれ」
誰にともなく漏らした紗生子の愚痴に反応したのは意外にも
「普段のご様子は存じませんが、先程は正直歯が立ちませんでした」
と言う佐川執事だ。
「やはり実戦に長けた方は違います。まるで動きに予想がつかない」
実は少し頬が、というその左頬は、申し訳なくも俺が引っ叩いたのだが。
「私もです。プロの肉弾戦の迫力に圧倒され通しでした」
とつけ加えるのは、やはり先程ご紹介にあずかったばかりのベルさんだ。やはり首の一撃は今でも痛いらしく、後出しで責められるようで非常に心苦しいが、
「す、すみません」
「いえ。仕方ありませんわ」
あのぐらいでなくては、というその微笑みの裏側を知ってしまった身としては、折角対面したのに何となく怖い。
「まぁ少しだけど本場仕込みのカンフーを拝めたしね」
今度は俺の言う事を聞かずに困らせたアンが、
「身体のキレが違うよねやっぱり。圧倒的ってああいう事なのよ」
それに乗っかって褒めた。何だか気味が悪いがその後も、
「体力テストも満点でしたしね」
と佐川先生が。
「生徒達を始め学園内も、そろそろ何かに裏打ちされた凄みを感じているようです。人望はそのうちついてくるでしょうし、学園側としてもこの上ない限りです」
と理事長まで。
「あなたは? 紗生子さん?」
「皆が言った通りですよ」
「私は
それはあなたにしか言えないでしょう、と言うお局様に
「もう分かったろう?」
「は?」
「要するに体育祭の観覧がてら、アメリカ側のエージェントの具合を確かめにわざわざおいでになられたんだ。相談役は」
「相談役?」
腕試しを機会を与えられた、という事だったようだ。
「この学園の非常勤役員のお一人だ。事実上の最高位者にして最終決定権者さ。何せ理事長の
で、その権力を裏づけるが如く、先程の手合わせの中でまさかの失態を連発していた体育の松本先生は、やはり何処からともなく現れた
「まぁ下手に楯突かない方がいい類の人間さ」
紗生子をして、冗談ながらもそう言わしめる存在のようだ。
「そんな事言って、言い逃れは許しませんよ」
「もういいでしょう? アメリカ側のエージェントらしく中々惚けたところがありますが、以下同文ですよ」
「その同文はもういいの。私が聞きたいのは、どうしてこの方を夫に選んだのか。その理由です」
「何故か見合いを押しつけられ続けててな。敵わないんだ」
「はあ」
「こら! 何をこそこそしてるの!」
名実共に威厳を携えているのは鈍い俺でもよく分かるが、紗生子がわざとらしく軽口を叩くように、不思議とそれに見合う緊張感や壁を感じさせないのは何故だろうか。それどころか、何処かしらお茶目というか。
「だから私の落ち度だと、前にも説明した通りですよ」
「そんな事で偽装とはいえ結婚するようなあなたではない事は、ここにいる全員が分かっている事です! 今まで何人の殿御を泣かしてきたか分かっているのですか!?」
「さあ?」
「一〇七人ですよ!」
「そんなに!?」
つい突っ込んだ俺に、俄かに目が集まった。
「——すぃません、その。予想外に多かったもので」
それにしてもアラサーでその数が有り得るのか。全部断るだけでも大変だった事だろうに。
「煩悩の数に迫っていたとはな。我ながら笑える」
と、自分の事ながら数を知らなかったらしい紗生子の自嘲にも
「笑い事ではありません!」
断固、追及を緩めない相談役だ。
「
それは単純に考えて確かに大変な事だろう。非公開組織のスパイなど。怪しい以外の形容が思い浮かばない。そのためのお相手を一〇七人も見つけてくる手間を思うと、この二人の間には余程の事があるのだろう。
「だからそれはいらぬお世話だと、毎度申している通りです」
「あなたがよくても、後見人としてはそうも参りません!」
「それは姉様が勝手に言っているだけでしょう。私には後見をお願いしたような御仁はおりませんし、それが必要な年でもありませんよ」
「だからあなたはそれでよくとも、私はよくないの!」
全く誰に似てこんな頑固な分からず屋になったものか、などと頭を抱える相談役と呆れながらも淡々と答える紗生子が、口論の中にもそれを楽しんでいるように感じるのはやはり気のせいなのか。
「これもお二人の中では定期的に必要な儀式ですから」
と、やはり楽しげな理事長が俺に向かって軽く首を傾げると、
「はぁ——」
ついに相談役が盛大な溜息を吐き出した。
「今日日の周りの女達ときたら、どうしてこうも
「それはご主人の事ですか?」
紗生子が絶妙なタイミングで突っ込むと、
「——だからです。私はあなた方に先立って苦労をしてきた身ですから、折角そうならないように申し上げているというのに」
嘆くような口振りの相談役に、また俺以外の周囲が失笑を漏らした。
「高坂家は代々女衆が強いんだ」
「そう、なんですか」
逆に男衆は、不思議と大人しめの人々が多いらしい。
「そういう人達を見てきたからこそ、と言っておきましょうか」
まるで見計らったかのような紗生子のその一言で、
「あなたを慕ってお見合いを待ち侘びている方々に、何とお答えしたものか——」
この場は紗生子が制したようだ。
「——また腹の虫に鳴かれても気の毒です。そろそろお昼にしましょう」
以上で相談役の裁定は終了したらしい。それを受けた佐川執事の采配で女中めいた人々が静々と理事長室に入って来ると、瞬く間に御膳が並ぶ。で、整ったところで、
「とりあえず
「はっ」
突然名前を呼ばれた俺は、瞬時に反り腰で応答した。久し振りに階級で呼ばれたからではなく、その声の凛々しさが今ではすっかり慣れた紗生子のそれと被る迫力で、面識が浅い分だけ緊張が背中に伝播したようだ。
「流石に察したか。海千山千の怖い御仁だから気をつけろ」
「言いがかりはよしなさい」
そんな紗生子の軽口に一々反応する相談役は、
「高坂
一見して往年の大物女優の如き上品さと厳格さしか見えないというのに、不思議とその背後から茶目っ気がチラついて見える。
「お、気に入られたようだぞ」
「そう、ですか?」
「姉様は滅多な事ではご自分から名乗られないからな」
「それは単に有名だからでは?」
「だからだ。物を知らない君に合わせてくださったという事さ。そもそもそういう事をする方ではないんだ」
「——これは確かに。放っておいたら二人で話し続けますわ。任務上とはいえ、仲が宜しいこと」
ふと柔らかくなった目が、また紗生子の何処かと被ったような。単に厳しさとのギャップがそう思わせるのか。後見を名乗るだけに、やはり親心のようなものなのか。
「厳格さの中に天然茶目っ気を持つ中々いない方だ。知っておいて損はない」
「はあ」
それにしても、今日の紗生子は口が軽い。
「いくら小言を言っても切りがありませんね。この人は全く」
「それ程のお気に入りなのです。あの紗生子さんが。最近では茶化しても開き直っておられるご様子で、こうなってくると少々悔しくもあるような——」
「もぉちょっと千鶴さん! そんな詳しい解説しないでよ! 余計腹立ってくるしさぁ! いいから早く食べようよぉ!」
下座の二人が揃って焼き餅を焼く様子に、
「仕方ないですね。何か負けたような気がするのが癪に触りますが、まあ時間も余りないようですし。どうぞ、召し上がれ」
言い訳のような相談役の一言で俄かにまた失笑が起こりながらも御膳の蓋が開けられた。
——よ、ようやくか。
何はともあれ、動きっ放しだった俺は腹が減っている。
「あ、この御膳のお代は——」
「また間抜けな事を——」
君はこのお局様がみみっちくも小銭を回収するように見えるのか、と眉間を摘み、渋い顔で嘆息する紗生子に追加の失笑が盛られた。
同日、夕方前。
午前中のドタバタに反し、午後は俺の出番もすっかりなくなった体育祭はそのまま無事に終了した。で、俺は紗生子の
「相談役をお送りしろ」
との命を受け、先行で講堂屋上に駐機しているヘリの傍に張りついている。何でも、
「あの年で、まだまだ敵を多くお作りあそばされる困ったお局様だからな」
身辺はそれなりに気を配る必要のある御大尽、という事らしい。
——やれやれ。
そんなところまで紗生子によく似た、何ともエネルギッシュなお局様だ。
既に双発のターボシャフトエンジンが唸っている中型機は、日本では余り見る機会が多くない仏国が誇る世界的コングロマリットの巨人
——フェレールのヘリねぇ。
その最新鋭機だった。そういえば紗生子の車も
——そうだよなぁ。
などとぼんやり思い出していると、理事長のエスコートで佐川執事を従えた
——まさか。
CC創設者ならば、整形でもしているのかも知れない。でなくては、鶴髪童顔ではないが髪も顔も共に若々しく実に均整であるため、どう見ても精々還暦ぐらいにしか見えず説明がつかないのだ。が、それだと理事長の年齢がおかしな事になってくる訳で。最近の老齢女性の若々しさは、俺の子供の頃の記憶とはまるで別物なのは分かるが、それにしても相談役の見映えは、俺の脳内にあるお年寄りの枠組みには、
どう考えても——
当てはまらない。と同時に、そんな若々しい女優然とした女傑が、カーディガンこそ羽織っているが紗生子同様にワンピース姿なものだから、それを常用している我が上司と
——被ったのか、ね。
見た目の煌びやかさと態度のデカさで年齢のピントが今一つ合わない事では、紗生子も似たようなものだ。要するに二人とも
そんな事をもやもやと考えながらも周囲に目を光らせている俺は、最低限の目礼でその主従一行を迎えた。が、その俺の前を通りがかった主が、不意に足を止める。
「その指輪がどういう物かご存じですか?」
その唐突さに、ギリギリの瞬発力で繰り出した返答が
「え?——と、確か、百円均一で買った有り合わせだ、と、主幹から」
という相変わらずの拙さを晒す俺だ。それにしても、昼飯前にも指輪の事をあげつらっていたが、何故またここで持ち出すのか。
「百円均一ですって?」
途端に顔をしかめた相談役は、一瞬後堪え切れなくなったように噴き出した。
「——まぁ確かに。本当のところは私も知らないのです。紗生子さんがそう仰るのなら、そうなのかも知れません」
ではまた、と言い置いた相談役が颯爽と機上の人になったかと思うと、あっという間にヘリが上昇して南方へ飛び去って行く。
理事長が、これまた意外にも無邪気に両手を振る隣で呆然とそれを見送った俺は、
「相談役って、おいくつなんですか?」
つい、そんな本心を口にしてしまった。
「あ、いや、すいません!——その、つい」
「やっぱり、気になりますか?」
引き続きいつになく無邪気な理事長が、嬉しそうな顔で俺を覗き込むので、思いがけず慌てて少し引いた俺だったが、
「今年で八三です」
その一言で理事長が、更なる衝撃を追加してくれたものだった。
「ええっ!?
スパイの世界に馴染んできて、外見の印象程当てにならないものはないと肌で体感して学んできている俺だが、
「自慢のお婆様ですから」
と、早くも豆粒大になったヘリに背を向けた理事長が怪しく笑む。
「毛染めやお化粧は、まぁ嗜みとして。別に美容整形している訳でもないんですよ」
「吉永小○合みたいですね、女優の」
「その名を口にする米軍の方を、私は初めて目の当たりにしたかも知れませんわ」
と途端に噴き出した理事長が、
「そろそろ戻りましょうか」
とつけ加えたついでに、ふと漏らした。
「——女の美しさを侮ってもらっては困りますよ? 生き様が容貌を象るのは、何も男性の特権ではありませんわ」
「ごもっともです」
今の俺の周囲は、幸か不幸かそんな女ばかりだ。
「特に紗生子さんは——」
と更に何事か言いかけた理事長だったが、
「——またこそこそお話してると怒られますね」
「はあ」
さっさと階下へ降りて行き、煙に巻かれてしまった。
理事長ってホント——
事ある毎に、何かと紗生子の事を話したがるものだ。それ程までに紗生子と仲が良い、という事なのだろう。
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