恋ひし涙の〈少納言〉
夜。庭の
蛍が、どこからともなく飛んできて、足元の草むらにとまった。
定子さまが、
私は今、定子さまのお子さまたちの子守役として、日々を過ごしている。
あの時、定子さまを失った私は、しばらくなにも考えることができなかった。
私も、死んでしまおうかと思った。
そんな時、ふと、
好きなことを書いては定子さまにお見せしていた草子。
半分くらいは、まだ白紙のままだった。
もう少し、生きていようと思った。この草子を書き尽くすまでは。
◇ ◇ ◇
夜、夢を見た。
蛍の舞う、夢の浮橋に、定子さまが立っていた。
「お久しぶりね、少納言」
「て、定子さま……!?」
私は、胸がぎゅうっと苦しくなった。
「どうして、会いに来てくれないの?」
「いや、それは……」
墓前には、なかなか足が向かなかった。
定子さまが死んでしまったことを、受け入れたくなかったのだと思う。
「もしかして、私のこと、忘れてしまったの?」
「違います!! なんというか、その、
「ふふふ、なにそれ。初めて会った時みたい」
定子さまは愛らしく笑った。
「ねえ、私が書き残した和歌のことだけど」
「主上さまへの歌でしょう?」
「それもあるけど。あの歌は、あなたに向けたものでもあるのよ」
「私に……?」
『夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひし涙の色ぞゆかしき』
夜をかけて約束したことを忘れないでくれているのなら、私を恋しいと泣くあなたの涙の色を教えてほしい。
「私との約束、覚えてる?」
「定子さまと、私の、約束……」
「そう。まっさらな紙が好きだっていうあなたに、渡した草子のこと」
「はい……。忘れるわけ、ないじゃないですか」
いつかの夜の、たわいもない約束。
――あなたの好きなものを書いて。いつか私にも見せてほしい。
「見せて」
「わかりました」
私は、自分の『好き』をいっぱいに書き留めた草子を、定子さまに手渡す。
春はあけぼのが好き。夏は夜が好き。秋は夕暮れ、冬は
花は、紅梅が好き。桜もすてき。藤の花は、房が長く色濃く咲いているのが好き。
「ふんふん。あれ、日記みたいなことも書いてるのね」
初めての出仕でどきどきしたときのこと、淑景舎さまをこっそり見たときのこと。
定子さまとおしゃべりしたこと。定子さまからお手紙をいただいたこと。
定子さまにお仕えしてすごした日々は、とても大切でかけがえのない思い出で、私にとっての『好き』の一部だった。
「定子さまとの日々が、大好きでした」
「私も、少納言と過ごす毎日が、好きだったわ」
過ぎ去ってしまった日々が、愛おしくて、恋しくて、私の両目からはぼろぼろと涙がこぼれた。
「ねえ、少納言。これから先もあなたの人生は続くのよ」
「でも、私、」
「あなたなら、大丈夫。私が守るもの」
定子さまは私の手を強く握った。
「しっかり生きて」
足元では桔梗の花が、
私は涙をぬぐったけれど、両目からはとめどなく涙があふれた。
その涙は『好き』の色だった。
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