鴉原・からすはら
しおとれもん
第1話 完全犯罪
「烏原(からすはら)」
第1章 「妻殺しの完全犯罪」
「ショーヘイが11勝だってえ!すごいねあの子。」
真ん丸の眼をした妻。余計に満月が膨らんだ様に丸い眼をしたバカっぽいアサリが、部屋のドアをガチャガチャと開けてドタドタと埃を立てながら、ドアを開け放して出ていった。
「開けたら閉める!」つい癖で怒鳴るが、部屋の外は真っ暗の廊下で、しんと静まり返っていた・・・。
そうか、アサリが死んで2ヶ月か、机上の遺影に話しかける。
一階のカフェも閉めたままで、あさりが元気な頃は義父が手伝いに来てくれていたが、それも無くなりひっそりとしていた。
ここは、鈴蘭台駅を真っ直ぐ出たファーストクロス、右角地のビルの角部屋で日当たりが良く、浮き上がった埃が日光に射されてスローモーションの様に沸き立ち下りて来る埃が良く分かるカフェのスキップフロア、スキップフロアと言っても間仕切りのドアが廊下を
仕切り、厨房と廊下と階段をドアで仕切っている。
廊下の階段を下り、ドアを開けるとカフェ厨房に入れた。
ガチャン!刹那!皿を割った音が聴こえてきた。
またアサリがドアを閉めなかった・・・。
カフェ厨房に備えられた調理台兼冷蔵庫へ何気に置いた当店当月の損益計算書を確かに確認しての事だろうと、察しは付いた。
「これだけ客が来なかったら商売上がったりよ、どうやって暮して行けば良いの来月!」目尻が釣り上がったアサリがバーン! と、損益計算書を厨房カウンターに叩きつけ、サイケデリックな態度で紫掛かった黄色い声で叫ぶ!
「アサリが客を見てないだけや! 短気は損気やぞ?」義父が嗜めた。が、・・・。
それをも聴かずして店を飛び出した!
キュルキュルキュルキュル! ドン! 表をみるとアサリが、宅配トラックに跳ねられ次の交差点の手前まで約30m飛び、その先には夥しい鮮血が接道に広がっていた。
トラックのフロント部分を観ると、前部が凹み、フロントガラスがアサリの頭大にヒビ割れアサリの毛髪が3本から4本がへばり付いていた。
色々な素晴らしい可能性が未来に向けて広がっていたが、義父は両手を前に出し震えておろおろしていて、甲は天を仰ぎ、顔面を引き攣らせ奥歯を食い縛り涙を流すまいとしている様だった。
誰にも見られない様に・・・。程なく妻のアサリの傍らへ駆け寄った! アサリ!
慟哭の始まりだった。
個別に配る荷物を大量に積載しているコンテナ積載の4トントラックは、急ブレーキを踏み込もうにも制動距離が延びる。車輌総重量が重いからだ・・・。
垂直に太陽光が降り注ぎ電柱から電柱へ張り渡る高圧線が黒い影となって歩道に残像を落としていたミッドサマー、正午の事だった。
カフェベンツは大曽根甲(おおそねこう)がオーナーだ。
鈴蘭台東町の一角にある外壁がブルー一色の鉄骨鉄筋構造で、4階建ビルの1階にあるのがそれだ。
第2章
「茶川龍之介(ちゃがわりゅうのすけ)賞」
鈴蘭台駅の東にひとつ目の交差点の右角地に有るのが分かり良く待ち合わせのランドマークとして、カフェベンツは需要が高い。
午前5時、早朝のモーニングセットを注文するサラリーマンが入れ替わり立ち代り厚切りバタートーストとベーコンエッグプラスラーメンサラダを食べてブレンドのホットコーヒーを飲み出勤して行くハブステーションとしてまだ暗い内から賑わう。
但し無言でだ。
時が経ち夜明け間近のアスファルトは紫色に輝き出す・・・。
信号が赤から蒼へ音も無く一斉に替わった。
南から北へ延びる車道にキープレフトを守りスクーターが走っていた。
甲はカフェのスキップフロアから北側の窓を介し駅前道路の風景を観るのが好きでよくこのスキップフロアから窓外を眺めていた。
今度書く新作のアイデアを求めて、窓外を眺めていた盂蘭盆会の午前四時半、勿論甲は、日本の新人作家で苦節10年目にしてタイトル「烏原・からすはら」で新人賞を受賞してそのままデビュー、ラッキーな事にデビュー作「烏原」が大衆に受けてあれよアレヨと言う間に重版出来を重ね、初版から200万部も刷られて茶川龍之介(ちゃがわりゅうのすけ)章を受賞した。
このビルはそれの印税で建築された。
経費節約で木造軸組みの4階建てを計画したが、駅前の地域協定では防火地域に指定されていて断念。
決まりは決まりで、どんなに足掻いても木造というだけで確認申請は却下された。
それならばと、SRC鉄骨鉄筋のラーメン構造とまでは行かないが、RC構造で防火仕様のマイビルディングを建築して、自宅兼収益物件に転向、1Fに甲経営のカフェ、2Fに甲経営のリフォーム会社、3F、4Fにはテナントのスナックが4店舗入ってテナント料で甲ファミリーの生活を賄っている。
飲み掛けのメロンフィズに氷とレモンを入れようと席を立った。キキキーーッ! ドン!という追突音が炸裂したので、腰窓から覗いてみると、車のフロントガラスが粉々に散乱してスクーターがぐちゃぐちゃにへしゃげていたが、観る影もなかった! 事故現場から約10数メートル先に中年男が、倒れてピクピクしていたが、飛ばされたのかスクーターが壊れたから歩いて行くも力尽きたのか判然としなかった。
「チッ!死ねば?」と舌打ちをして毒舌を吐きメロンフィズを残りの水面から一mm足し元の窓際に戻った。
ソファーに腰を下ろして朝まで此処で寝ようと椅子に凭れウトウトしていた。
暫くすると駅前通りがザワザワと騒々しく、おまけに救急車のサイレン音がしたかと思うと、甲はうとうととしかけていたが、完全に目覚めてしまいエアコンを回していたのに飲みかけのメロンフィズは氷も溶けて生温くなっていたので顔を歪めて一気に飲み干し、I型キッチンにグラスをしまった。
もう太陽は天高く出ていて今日も35℃を超えそうだ。
もう首は汗が滲んでいた。
その頃、烏腹では・・・。
「おーい、起きろ!」アサリの肩を揺さぶる白い手は、血管の浮き出たコラーゲンの無いゴツゴツとして哀訴が無い。
いつも揺り起こされている甲の手は少し冷たいケド・・・。
第3章 「青い眼の死神タナトスとその娘リンバ」
「起きろって!出発の時間だあよ!」アサリの右足首の横に立ち、アサリの背中に向けて怒鳴る!
タナトスのしわがれた声に反応してアサリが飛び起きたのは大昔に亡くなったアサリ自身の祖父の声に似ていたからだ!
「あ、おばあさん此処は何処なの?」右腹を下に横たわっていたアサリはうつ伏せになり水源地に頭を向けて倒れていたが、両手を突いて両肘を伸ばし上半身を目一杯起き上がらせ、障害物が無く沿岸まで望める綺麗な湖面がエメラルドグリーンの光がキラキラと眩しいくらいに反射してタナトスの身体を通り抜け、アサリの両頬がスクリーンになつて光の波が白昼のレーザー光線の様にユラユラと反映されていた。
勾配3%の貯水池までの池畔に引力の感覚は無かった。
貯水池から後退して熊笹が生息している境界から貯水池の水面までの泥濘の鬩ぎ合いは、勾配が約8%。あった。
滑り落ち易い勾配にアサリはもう重力を感じない身体になっていて水際に佇むとその身体は幽かな残像として反映されていた・・・。 霊体の性(さが)だった。
アサリは見える訳が無いのに赤い水車を探していた。
生暖かい南風が時々アサリの顔を抜ける・・・。
「何処なのここ・・・。」ポツリと呟く。
アサリはクルリと約180度、背後のタナトスの方へ顔を向けた。
「烏腹の水源地だよ。さあ、水に入りな!」ザワザワと、周辺の山々に木霊が反響していた。
怖しく重低音の怒鳴り声! ドバーン! 腹に響く。
幼い甲が聴いた事のある声が、烏原の湖周辺に住む鹿や野うさぎが驚いて湖に飛び込み水没した・・・。
声のベクトルが、アサリの顔や身体を吹き飛ばし粉々になってそのパウダーは、天高く舞い上がってゆっくりと舞い落ち、やがてアサリは元に戻った。
秋風が吹いたせいで所々、アサリの両眼と口はピースが欠けその欠けた部位が黒い空洞に為っていた。
甲はアサリを荼毘に伏した夜、不思議な夢を見た・・・。
幼少期に父と遊びに行った。空は抜けるような青空が広がっていた初秋の乾いた風に親子の絆は誰にも邪魔されない、そういう風に感じ取っていた6歳の亀石公園で亀石の甲羅に跨る甲は横に並んだ父と薄暗い貯水池を水面の中心を見ていた。
不意に顔を出した女が甲親子の方を観ていた。
髪の長い人だと分かったのは上半身が上がって行き裸の臍の辺りまで留まったからだ。長い髪が濡れていて頭や首、肩、髪が胸にへばり付いて胸の凹凸が分かるくらいにピタッとへばり付いていた・・・。
肌が白かったし腰が括れていた・・。
「あのお姉ちゃん誰なの?」父に問い掛けるが黙ったまま父はニコニコと、目尻の皺は良く観る父の横顔の笑顔・・・。
アサリを見詰めたまま、甲の問いに答えなかった。
父がチークを塗った様に頬が赤らんだ顔をしていたのは、懐かしい人にでも出会った様に瞳が潤んでいたから近所の人にでも出会ったのだと、軽い気持ちで観ていたが、水面に顔を出したアサリは甲に向かっておいでおいでと・・・、実は甲にでは無く、父に手招きを繰り返していた。
その距離は20mも無かったが、スポットでレビューは繰り返され鮮明に甲の脳裏に繁栄されていた。
やがてその女を目掛けてフェンスを越えた父がシャツを脱いで自ら入水し、溺れていた!
口を大きく開け何かを叫んだ!
そしてアサリは父の頭に覆い被さり・・・。二人とも沈んで行った。
最後まで気泡が出た後も甲は両手を口に添えて叫んでいた。
「お父ちゃん!お父ちゃん・・・。」暫くは父が上がってこないか、不安な眼差しを向けていた。
虫捕りの時に甲よりも背の高い草むらへ父が一人入って行き暫く待たされた事があるが、今度は前とは違い水中だからその中にずっと居れば息が出来ない事ぐらい幼い甲でも分かっていた。
大粒の涙が甲の頬を伝い顎先に溜って一つ、二つ、父と出かけるからお気に入りの左胸に像さんの絵の描いた白いポロシャツを着ていたが、それも涙で汚れていた。
甲は希望を持って貯水池の水面を見詰め、「甲、帰ろうか?」と父が背中を叩いて来るのでは無いかと、後ろを向き向き、水面を観ていたが、赤とんぼが風に乗ってクルと甲の頭上を飛び回る頃・・・甲が泣きじゃくりながら亀石公園の西側を行くと左手に坂があり下って右手前に烏原町と夢野町の境の急な坂道を上がる序に権現さん所謂、熊野神社へ横切り帰った事を今でも覚えている。
自宅に辿り着くまで父が待っているのではないか?と思い、父と遊びに行った所へ回って見たが、誰一人、甲の顔見知りの大人には出会わなかった。
もしかして父が貯水池から上がって来て、亀石公園の亀の甲羅に跨って休んでいるかも知れない! と思ったら居ても立っても居れなくて、ダッシュで亀石公園に引き返した! 23㎝の運動靴の紐が切れて脱げたが、甲は靴下のまま走り続けた! 亀石公園までの最後の坂道を駆け上がり右に曲がってお父ちゃん! と、叫んだ!しかし、待っていたのは石を積んで亀の形をした亀石だった・・・。
もう大粒の涙が溢れて着ていた象さんの絵の描いた白いポロシャツは涙と汗で汚れていた。
左わき腹に泥が付いていたのは、坂道を恐ろしく早い足で駆け上がろうとして落石に躓いたからだ! 左膝を擦り剥いて血が滲んでいた。
右横を見たが、一人だったからゆっくりと亀石に近付き、亀の甲羅に跨った。
「危ないから下りなさい。」父の声がするかもと・・・右に、左に後ろに下に、眼を遣りながら父の姿を探した。
甲は亀石の甲羅の上で、俯き「お父ちゃん。」えっえっえっと、嗚咽を続けた。
西日が左目に眩しく涙に濡れた頬を乾いた風が乾かせる・・・。
ユックリと亀石の甲羅から降りて、トボトボと歩いた。
親子で来たのに・・・、子供だけ一人ぼっちで・・・、冒頭はあんなに嬉しくて楽しかったのに・・・。
今は悲しみが納まらなかった・・・。
夜に為ったらどうせ布団に入って父と「あの時は怖かったねえ。」と、会話をしているに違いない。と、高を括ったが、甲の想いは成熟しなかった。
アサリと父は湖畔に流れ着いて、うつ伏せに倒れていたからだ。
長い髪に藻が絡み着いていた。と、二人を発見した警官が言っていた。が、発見した時は二人だったのに女が消えて男の遺体のみだったと。
それ以降の行動や救助方法を一切覚えて無いと水難救助調書に記されていた。
そして父は助からず、うつ伏せの父を返したら両眼にミミズや蛭が食いついて皮膚の中で蠢いていた。子供には見せたくは無いと思ったらしい・・・。
間違いじゃなかったよな! と思う甲・・・。いつの間にか涙が両目から流れて目尻から伝い両頬を濡らしていた。
甲はもう目覚めていたが、臨時雇いの従業員が忙しく店を切り盛りしているのに顔を出さず、ただただ、天井を見て回想をしていた還暦の夏・・・。
父の通夜の明け方、独りの女が手を合わせに来た・・・。
その日から甲に着かず離れず世話を焼いた。
苦しみや悲しみから脱却した甲が成長し、その女は烏丸朝里(からすまあさり)と言ったが、彼女が父を殺したのは間違いない!
そのままアサリは甲の世話を焼き続け、甲の妻になった。
アサリを抱いても心を許さずいつでも距離を置いていた。
アサリはおっちょこちょいで、その欠点を利点として捉えていた。
アサリに復讐する為だった・・・。
アサリがドタバタと、自宅の掃除を終えて店のカウンター奥に立つ。
何気に甲が置いていた店のモーニングセットの売り上げを書き足してない損益計算書が眼に入り、手に持ち上から順に眼を通す・・・。
アサリはやがて激昂し出した!「こんなの赤字決算じゃない! 来月どうやって食べて行くの!」
モーニングセットが完売した正午前、店内はガラガラだったから背景はナイスタイムリーだった。
しかも4?、5?のテナント料は月々15万円だったから食うに困る訳がなかった。 もう少しバカで無かったら死なずに済んだのに・・・。
半狂乱のアサリが店から飛び出し、何時もの時間で宅配の4トントラックは信号が青に為る前に交差点を通過しようと、アクセルを踏んだ刹那! アサリはあの世へと旅立った・・・。
笑っちゃうなあ!
あの時、天を仰いでいたのは泣いていたのでは無く、笑っていたからだ。右手を挙げて両目を押さえていたのは、日射が眩しかったからで、特に悲しかった訳では無く、昨日のナイターで巨人が半身にノーヒットに抑えられた事を思い出していたからだった。
甲が、夢に導かれるように店が休みの朝、烏原の貯水池前に立っていた・・・。
市内の荒川・湊川の氾濫を抑える為、神戸市が苦肉の策で考え出した烏原ダムの開発造成は、烏原村を水没させる事によって湊川町や新開地に住む市民にとって安寧の地となった。
明治38年の事だったが、太平洋戦争の神戸空襲によって焼き出された市民は水を求めて烏原貯水池の底に沈んで行った。
戦後レジームに於いて貯水池周辺は手付かずのままだったが、昭和20年8月以降平和が戻った神戸市は、釣り人や子供の水遊びの事故が相次いでいた。
菊水町からゴオーッと、いう地鳴りにも聴こえる音が坂道を上がって来て甲の背後を通過していった・・・。
懐かしい騒音だったがふと、我に返った甲は小学生の時、同じような体験をした事を思い出していた。
薄緑の背の高い金網フェンスは神戸市が設えたもので、小学校の校庭のフェンスと同じものだった。
頻繁に甲の背後を通過するダンプカーは貯水池の北側の先に造成されている石井ダムの残土を処分していたのだろう。
大曽根甲の実家は熊野町に在った。
土地は借地だが、家屋は購入済みの屋内を二軒に仕切る構造壁が東西に家屋一軒分走る、所謂二軒長屋だったが、これについては賃料が発生しなかった。
建物は全額現金購入していたため所有権は大曽根家にあったからだ。
幼い頃の甲の遊び場は、近所の幼馴染と駆けっこ、鬼ごっこ、かくれんぼ、蝋石で道路に絵を描きケンケンパーなどで遊んだ。
夏には昆虫採集に山へ出掛ける事もあったが、専ら独りで行動していた。
収穫した昆虫を幼馴染と分ける際にケンカが勃発するからだった。
甲の良く行く山は清水町の奥にある清水山だったが、町民は(おだいし)と呼んでいて、その昔、お大師さんが山を開いたという都市伝説がまかり通っていた。
誰もが信じていた。
甲の好きな昆虫はカブトムシ、クワガタ等の甲虫でこれらの採集に甲は心血を注いでいた。
6歳や7歳で山へ入り危険な体験や不思議な体験を数多くして来たがその体験を自分ひとりの事件として、胸中に納めるタイプだったので、(男は黙ってサッポロビール)というフレーズが良く似合っていた。
10歳になったあるとき、おだいしの頂上へ行く挑戦をしてみたいと思った。
思ったら即行動してみないと気が済まない質だったから即実行した。
頂上への山道は色々な生き物に出会う・・・。
昆虫のマイマイカブリ(通称ゴミムシ)やハンミョウ(通称道しるべ)野鳥の鶉(うずら)毒蛇のマムシ、生きていない人間(通称幽霊)など・・・。
今日は沢山大人が頂上から下りて来るなと、思いながら甲が白装束の老夫婦とすれ違って頂上への最後の階段を登ろうとしたとき、黒いとんがり帽子や黒いマントを纏ったおばあさんが下りてきた。
真夏なのに暑苦しそうだ・・・。
「ナンや婆さんか・・・。」と、心に思った刹那!
「お婆さんで悪かったね。」一瞬で眼の前に立ったお婆さんが言う。
青い眼をしていた。
「アタシは死に神や。」と、すれ違った老夫婦の方を向き、「コラア!さっさと歩かんかいエンマに言って落とすぞ!」地獄の事だった。
けたたましい地鳴りにも似た怒号が甲のハラワタを抉った!
「マア、あんたはまだ子供やからなあ、子供は生きなアカンわな。ワハハハハハ!」と笑いながら消えて行った。
あれから50年以上が経ち死と背中合わせの苦しい体験をしてきたが、自ら命を放棄する様な短絡的な行動は取らなかった。
後ろを向いて生きていなかったからだ。
この頃の甲は幽霊を見ても普通の大人の恰好ですれ違うから少しも怖くなかったが、今思えば良く平気で居られたと思い、あの時の体験は二度としたくないと思っていた。
特に死に神等は二度と出遭いたくない人物、イヤ神様だった。
思い出に浸った甲が、ふと左側の金網を観たら大人が一人入れる様な穴が空いていた。
それは50年前にこの金網を潜り抜けて貯水源地内部へ入り樹液が滴るクヌギの老木が二本生えていて、その老木にノコギリクワガタの番いが2セット留まっていたのを 発見! だから一人で行動するんや! とほくそ笑み合計4匹のクワガタを採集したのを思い出し 何気に入って見る事にした。
左足から入った。
熊笹を踏みそうになるが、爪先を立てて着地、それを回避した。
遠くからエンマコオロギの鳴き声が聴こえて来た。
もう9月を12日まで過ぎて甲の年齢は還暦プラス1歳だが、辺りに秋の匂いが充満していた。
紅葉も間も無く始まりそうだ。
遠目で貯水池の水面を視認した。
遠くのアメリカコロラド州のパウエル湖では、コロラド川が干上がり、湖面の水深が下がって、干上がる状態に陥っていた。
原因はロッキー山脈の干ばつと、言われている。
数週間前には満々と湛えられた湖水に浮かぶボートが確認出来たが、今では湖底が見える状態で湖底にはボートが転がり大きなクラックが確認出来ていた。
この烏原の貯水池も給配水が事足りているが、それは神戸市内の9箇所の水源地が機動しているからで、上流からの給水を疎かにしてはアメリカの二の舞に為るだけだ。
逡巡している甲の脳裏に、「遊ぼう・・・、遊んで・・・。」と、女の子の蚊の鳴くような声に心を揺り動かされ耳を澄ました。
「遊ぼう・・・。あ、そ・・・、ぼ、う。」徐々に聴こえなくなり甲の眼の前がパッと、明るくなった!今まで蔓化の植物に行く手を塞がれて、甲の掌大の緑の葉がおいでおいでと、ヒラヒラ風にたなびいていて瑠璃色の昆虫が葉に留まって休憩していたが、それも何処か消えて無くなり眼前には南北に広がる烏原の貯水池の水が満々と豊富な水量を湛えていた。
貯水池の南、亀石公園から北に向かって貯水池を望めば、琵琶湖の面持ちを持っていた。
貯水池ダムは明治38年に完成した。
除幕式に当たって手漕ぎボートが貸し出され神戸市民のリクレーションとして賑わったそうだが、今はもうその面影も無く、ただ広い湖面に紅葉間近の葉っぱが浮かんでいるだけだった。・・・。
突然ヒュールルーーと、北風紛いの西風が吹き荒んだ!
「お兄ちゃん・・・、遊ぼう。」脳裏に、イヤ脳が反応した! 確かに甲の外部から発せられたものでは無かった。
誰?胸中に問い掛けてみた! ここだよ・・・ここ・・・こ、こ・・・。
謎の声に促される様に一歩一歩、前へ移動した。
やがて・・・爪先が湖面に触れた! 湖畔と水面の鬩ぎ合いに立つ甲!
突然足首を掴まれた! 下方へ目線をやると子供の様な小さな両手が甲の両足首を
掴んで離さなかった!ギリギリと締め付ける!泥にまみれた幼い手は力強く泥濘の直下へ沈み込ませようというのか! 甲の内果や外果がもう! 泥の中まで埋まってしまった!
刹那、「リンバ! もうエエワイな!離してやれ。」しわがれた声はその手を窘めるように 幼い手に言っていた。
「ウワッ! 止めてくれ!」甲が後ずさりしようとしたが足首を固定されているせいで、尻餅を付いた! ジャバン! 水の音がした!幽かに臀部が冷たい! 辺りはもう貯水池の水面で、先ほどまで甲が立っていた池畔は、遥か彼方!甲は貯水池のど真ん中まで引き摺られていた!
「コラ、リンバ! オマエの我侭はもう許さん! 消えてオシマイ!」
怒号がして水面が津波の様にささくれ立ち、ゴゴゴー!と、約5mの高さまで迫上がり甲を襲う!
「ウワッ!」甲は波に飲まれ息が出来ない!リンバは毛先にウェーブが掛かった金髪をしている。
「ママ、アタシの事を認めてヨッ!」 人間に恋したの!
「一緒に暮したいの!」切々と訴える声がしていた!
「為らんワ!」即答だった!
「だってオマエ、しばらく一緒に暮していただろうが! 嫁のアサリさえも殺してしまうくらいにこの男は根性が腐っとるんだぞ!?」 甲の後頭部に響いていたが、その声は遥か上空に位置する二人だと、感じ取れていた。
脳波を感じながら甲は察しが付いていた。僕の事か!?
死に神のお婆さんは、タナトス。
神のカーストは2番目の順位に着いている。
タナトスの娘がリンバ。
彼女は甲に惚れているらしい。
「初めて見たときから好きになった・・・ヒ・ト・メ・ボ・レ一目惚れ。」
脳波が届いていた!
「貴方のお父さんが戦争前に恋仲になった女のアサリに扮して傍に着いたけど何で嫌うの? 悲しげな叫びはリンバの叫びに覆い被さりアサリの叫びに変わった!
「そうか! アサリ、オマエは親父の愛人だったのか! そんな親父のお古なんか要らんワイ!」
甲は貯水池の津波に身を揉まれながら叫んだ!強か水を飲んでいた!
しかし、突然止んだ津波にフワッと、宙に浮いたかと思うと、甲の身体は元の熊笹に尻餅をついた状態で覚醒し、足首を掴んでいたのはアサリの両手だったのだ!
「恨めしい・・・甲・・・。」なおも甲の脳裏に届く! アサリの声しか聴こえなかった。
「あなたのお父さんを愛していたからね・・・、貴方はお父さんに生き写しだった。
それは見た目だけだったのよね、口惜しい・・・。」口惜しい、恨めしいと、呟いた。
「根性が腐り切ったヤツ!」恐ろしくビブラートの利いた声で甲の脳を揺さぶっていた。
その声を脳裏で受けた甲は体内から身震いしていた!なんで親父と知り合った?
声を出さず脳で思うだけで通信出来る事に気付いた甲は営々と脳波を送った!
「貴方のお父さんの大曽根利夫(おおそねとしお)さんに出会ったのは明治30年・・・。」
「えらい昔やないか!」 胃が熱く為った!
兵庫県神戸市兵庫区の烏原町には明治38年に完成した貯水池がある。
神戸市の兵庫区民はその貯水池を挙って(水源地)と呼んでいた。
「烏原村が廃村ですか?」15歳の烏丸朝里(からすまあさり)は想像がつかなかったが、まあ、こんなもんだろう。と、俄に降ってわいた話しに動揺していた。
何処に移住するんだろう、お爺ちゃんは?
アサリの両親はアサリが生まれて間もない頃、事故でこの世を去っていた。
両親の骨は烏原村の西側にある村墓地に埋葬されていた。
両手を合わせ白檀の樹皮を擂り潰して線香に加工した線香の煙を見ながら両親に報告していた。
「換地を用意してくれるんだから何も心配は要らんよ、アサリ? 荒田か、東山に候補地があると言うとったんやからかまわへんで?」アサリの心配を宥めようとしたが、烏原村は線香の製造が盛んで村に生えている白檀(びゃくだん)、沈香(じんこう)、椨(たぶ)、桂皮(けいひ)、丁子(ちょうじ)、等の樹皮を擂り潰し、線香に加工していた。
所謂烏原村の線香は天然原料を使用している上質な線香として、日本全国から需要され供給は日本一だった。
「換地が決まったぞ、住所は山田町や。」朝里は赤い水車小屋の中で白檀の樹皮を擂り潰す工程を任されていた。
「山田町って、醸造酒の山田錦のお米を作ってる田園がある町なの?」アサリは眼を輝かせ両指を組んで、希望を持って移住した先の町だったが、「廃村アサリ、お化けのアサリ!」と言っては蔑まれ所謂、虐めに遭っていた。子供は残酷で正直だった。
突然グイッ! と、右手首を掴まれ明後日の方向に引っ張られたのを転びそうに為りながらも手首を引っ張る主の方を見た時、ビビッと背中に電気が走った様に時めいた。
人目惚れだった。
「あいつらは、他所者を仲間に入れたがらんのよ。」勘弁してやってと、説明する男子を見詰め、キラキラとした瞳を輝かせていた。
無言で頷いていた。
名前は、大曽根利夫(おおそねとしお)という中学生で、間も無く軍隊に入る予定だという。
しかし、アサリはそんな思いを告げ、戦争に行っても死なないで帰ってきて欲しいと訴えた。
「そうか分かった!」両手に握り拳を作り素っ頓狂な声を張り上げた!
「今はエルニーニョが発生しているからインドネシア近海の海面水温が暖かく、だからサンマが捕れなかったんだな!」ウンウンと、二回頷いて死に神タナトスの方を見た。
「何のこっちゃ!」嗄れた婆さんの声はタナトスの声で、甲に呆れ顔を向けていた。
「来年ぐらいにラニーニャの発生確率が6〇%と高確率やワイ!」補足として、タナトスはラニーニャの発生確率も予測して見せた。
「そもそも子供は生きにゃあイカンとワシは子供のオマエを助けて来たんやがなあ、オマエも昔にワシと出逢っただろう?」
マジマジと、甲の目を見詰め何か言いたげに口をモゴモゴしていたが、50年前の青い眼はしていたものの甲は、何の事だかサッパリ分からなくて暫く俯いて考え込んでいた。 その瞬間、ハッと顔を挙げ「死に神の!?お婆さん!」お婆さんと言うな!と叫びそうなタナトスだった。
夕焼けが秋の空気を冷え込ませ数羽のカラスが鳴きながら西空の彼方へ飛んで行った。
「やっと気が付いたか? 子供は生きて欲しかったが・・・。」
「護ってやらなイカン大人が手を抜きよって!オマエみたいに腐った根性の奴らばかりやろう!」一端溜息をついて、マジマジと甲を見返し、滔滔と語り出した。
「この前も幼稚園児がアホな園長の手抜きで死んだワイ!ワシは迎えに行かんかったんやがな、リンバが迎えに行きよったんや!リンバは生き神やからな・・・。」
生き神とはアサリの様に死んだ人を生き返らせ再度悔いの無い様にリベンジさせる神だった。
もう池畔の泥濘は、水分を半分土に吸い取られ甲やアサリの足跡が散乱して今までの錯乱状態が垣間見られた。
「それで親父とは?」甲の争点はそこにあった。
アサリはタナトスのスーパー、ブレスにより霊体をバラバラにされて、その欠片は戻ったものの、眼と口は戻らず黒い穴が開いているのみだったが、それでも構わず甲を見詰めていた。
「利夫さんは戦地へ行ったわ・・・。そして戻らなかった。」二人は婚姻届を出さず、利夫の戸籍上は実家が有り独身状態だったため利夫の安否は不明のままだった。
「でもリンバ神様が利夫さんを見つけてその息子に惚れたのよ。あなたの事よ?」
一瞬たじろいだが、直ぐに体制を建て直し気持ちまで立て直した。
「親父が生きていたから俺が生まれたんだろ。?」自然の摂理を言ったまで、アサリは希望の眼差しを甲に向けていた。
真っ暗な洞窟の様な眼窩底から涙が流れていた。
やがて日が沈み空には天井のLEDのダウンライトを設えた様に白や赤や蒼の銀河が瞬いていた。
月の満ち欠けは間も無く十五夜だが、
「十四番目の月が一番好きだったわ。」大物歌手の様に歌うように呟いた。
涙ながらにロマンスを語ったアサリは、「何で私を殺そうと思ったの?」
核心を突いて来た。
甲は間髪入れず、「親父の仇を討ったまでや!」
メラメラと怒りの炎は燃え盛り、赤や蒼白いオーラが甲の身体を纏っていた。
「リンバが余計な事をしよって! 人間の摂理を動かしては為らんぞ生き神リンバ!」
タナトスの叫びが六甲山系の山々に木霊し、それは地殻に入り込んで、活断層を揺り起こした!数キロの断層のズレが、甚大な地震となり、神戸市以東の阪神間は、数千人の尊い命がタナトスに因って葬られた。
「しまった! こりゃあ忙しくなるわ! オイ生き神リンバ!オマエにも
役立つ時が有るかも知れんから一緒に来い!」
言うが早いか垂直に銀河へ向かって飛び、湊川より東へ飛び立った・・・。
「何よママ! アタシを認めてよねッ!」知らん~。遠くから聴こえていた。
呆然と一部始終を見ていた甲とアサリは、成す術も無く立ち尽くしていた。
ハッ!と気付いたが甲の左手にはアサリの腕と胴体が巻きついて、「ねえ、連れて行ってよ・・・。」ポツリと甲に囁く・・・。
「エッ! 電車か・・・、駅、駅、駅?・・・。新開地、湊川、ながた、丸山、ひよどりごえ、ひばりヶ丘・・・。
ひばりヶ丘やな!」
「ワープや!」ハッキリと、宣言していたが、それはアサリと一緒に行動するという同義語だった。
「あそこまで登る!」アサリの眼を見た!
指を差した向こう側には立派な私鉄が走っていた。
言い終わって左側のアサリを見ると・・・。ウルウルとした瞳に胸が高鳴る。
なんという感情だろう、熱い物が湧き上がってくる!
「オマエ・・・、可愛い。健気やな。」
例え親父の愛した女でも、良いか。もう一回遣り直そう。伴侶として・・・。
「行こか・・・。」
アサリの手を握り返し、烏原町からひばりヶ丘へ向かって歩き出した。
この世に再生出来たあさりは人として、富士額の色白の細い首、放漫な胸を形成し、括れた腰を左右に振りながら甲の温かい手を離さずしっかりと、愛するっ伴侶として、甲に従い甲の背中を観ながら一旦繋いだ手は肘を伸ばして顔を赤らめながら甲の軌跡を踏みながら・・・。(了)
鴉原・からすはら しおとれもん @siotoremmon
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