第65話 楽しくて

 ――急激な成長に戸惑った。


 中学2年の頃。

 ずっと外ばかりに目を向けていた俺が、ふいに自分を見て思った。


 俺が俺じゃなくなったみたいだって。

 それまでの世界が一変し、誰もが俺を見て怖がるようになった。


 ――鉄と砂の味がした。


 体育祭のリレーで最初はなにが起きたか分からなかった。

 いつくばった地面に真っ赤な血が広がっていた。


 呼吸ができなくなり、足がもつれ、倒れたと分かったのはそれからだ。

 怯え、震えることしかできなかった。


 俺は最後まで立ち上がることができなかった。


 ――突き刺さす痛みがした。


 体育祭明けの教室に入った瞬間、みんなを見て怖くなった。


 誰も一言も発せず、責めもせず、目をそらすだけ。

 怖くなった。


 怖がらせているのは俺だと分かってしまったから。

 みんなの目を通して、俺が怖いと教えられたから。


 だから同級生の顔を、目を見られなくなった。

 みんなを怖がらせないために?


 違う。

 俺が楽になるためだ。


 ――ずっと前を見れず、息ができなかった。


 俺は謝れなかった。

 中学を卒業するまで謝れなかった。

 機会はいくらでもあったのに。


 勇気を出して一歩踏み出せばよかったのに。

 全てを諦め、放り出して、自分の殻に閉じこもる道を選んでしまった。


 ……でも。

 でも、あの時、どこかで。


「俺のせいで、負けて、ごめん」


 その一言が言えたら。

 謝れたら違ったんだろうか。

 中学のみんなと笑いあえる道もあったんだろうか。


 ◆


 ……昔の夢を見た。


 寝覚めは最悪だった。

 身体がだるい。

 気だるさも一緒にして息を吐く。


「あら。目、覚めたようねえ」


 白衣を着た糸目の女性に声をかけられた。

 確か養護教諭の……日辻ひつじ先生だっけ。


 じゃあここは保健室で。夢を見たってことは寝てたってことで。寝てた原因は――。


「お、俺――!」

「安静に」


 日辻先生の人差し指が俺のおでこに触れる。

 ベッドから起き上がろうとした俺はそれだけで止められ、黙るしかなかった。


 上半身だけ起こし、日辻先生の話を聞く。


「大丈夫。慌てることなんて何一つないわよ。あれから一時間も経ってないから」

「そう……なんですか」


 一時間も経ってない。

 安心できる言葉のはずなのに、俺にとっては違った。


 保健室の外からはもう体育祭の音が消えていた。

 今日たくさん聞いてきた賑やかな声がもう聞こえない。


 ……やってしまった。


 最後の最後で倒れてしまうなんて。

 せっかく盛り上がっていた体育祭に水を差してしまった。


 みんなにどんな顔をして会えばいいのか分からなくても。

 今度こそ、俺は――。


 改めて日辻先生の診察を受ける間も、頭の中はこの先のことでいっぱいだった。


「軽い貧血ね。幸い頭は打たずにすんだわ。みんなとっさに反応して支えてくれたから。さすが運動部。反射神経がすごいわねえ」


 だから痛みがほとんどないのか。

 でも、確かに強い衝撃を感じたような。


「特にB組の天馬てんま君なんて、身体をなげうって下敷きになってくれたのよお。さすが陸上部のホープで速いわねえ」


 天馬君……そこまでしてくれたのか。


「その後学園長先生自ら運んでくれたのよ。今度お礼を言ってあげると喜ぶわよー。はい、先生特製スポーツドリンク。喉が渇いてるだろうけど、ゆっくりね」

「ありがとうございます」


 日辻先生から紙コップを受け取り、一口含む。


 色んな人に迷惑をかけてしまった。

 それも含めてお礼を言わないと。


「今日大活躍だったものねえ。最後のリレーも大接戦の逆転勝利だったし。先生も大興奮しちゃったくらいだもの。安堵で緊張の糸が切れて、疲れが一気に押し寄せてもおかしくないわ」


 リレーの前後で俺の感情の揺れ幅は過去最高だったはずだ。

 負の感情から一気に正の感情に。


 身体も今まで一番酷使しただろうし。

 ……原因は分かっている。

 今日は色んなことがあって、今も今後の対応に悩んでるけど。


「そうですね。楽しくて。無理、しすぎました」


 それだけは間違いない。


「青春ねえ。まあ、学園長先生の破ァッ! を受けて平気な顔してピンピンしてるんだもん。このくらいへっちゃらよねえ。

 保健室送りになった子たちの面倒を見てきた先生が言うんだから。自信を持っていいわよお」

「そ、そうなんですか」


 郷明きょうめい学園では大團園だいだんえん学園長の破ァッ! が一種のステータスになっているんだろうか? 戦闘力的な。


 獅子王さんも大興奮していたし。

 あの時も獅子王さんは楽しそうに笑っていた。


 会いたいな。

 今一番会いたくて、会うのが一番不安な人でもある。


「でも、メガネの方は耐えられなかったみたいねえ。修理するなり、買い換えないと駄目そうだけど……」


 日辻先生がベッドの横に置いてある棚を見た。

 だてメガネを手に取る。


 近くで見ると所々汚れているし、レンズのひび割れもさらに広がっている。

 ポケットに入れてたせいで、倒れた時に俺の下敷きになってしまったみたいだ。


 なんだか、今の俺みたいだな。

 ボロボロだけど、かろうじて無事なところが。


 もしかしすると、獅子王さんのおまじないが効いたのかもしれない。


「そうですね。修理して、大切にとっておきます。俺をずっと応援してくれた人の願いがこもった大事なお守りで。相棒ですから」

「そうなの。……じゃあ、ホルマリン漬けにしないとねえ」

「え? ホルマリン、漬け?」

「ふふふ。冗談よおー。リラックスできたかしら?」

「は、はい。その。診察に看護。ありがとうございました」


 普通に話せるようになったといっても俺は俺のままで。

 たいして変わっていないから、突拍子もない冗談を言われたら驚くしかない。


 しかしなんでホルマリン漬けなんだろ……?


「どーいたしましてー。貴方のお父さんは娘さんを先に家に送ってからまた迎えに来るそうよ。

 お母さんはちょっと前に仕事の電話で席を外してるけど、もうそろそろ戻ってくるんじゃないかしら。今日は寄り道せず安静に――」


 ノックの音に二人して入り口の方を向き、


「はい。どーぞー」


 日辻先生の返事を受け、ドアが開く音がした。


「失礼しまーす……」


 聞き慣れた声。次に見えたのは綺麗な金色の髪。さっき思い浮かべた笑顔と違って、心配で不安そうな顔をした獅子王さんだった。

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