第8話

 おやおやおや。

 そう聞こえた。

 ぱちっとまばたき。

 ふっと、頬に風を感じた。水は退いた。唄は沈んだ。木漏れ日が辺りを点々と白くしていた。

 その上を鯨雲くじらぐもがゆったり泳ぐ。まどろみの海の王ように、ちいさな虹を冠にいただいて。


 サアァァァアッ………


 と、目線を下げれば白い雨。

 下から上へ、表から裏へ。

 降りてまた湧き上がれば、足もとがずぶずぶとぬかるんだ。

 否、自分がぬらりと溶けだしたのだ。黒い汚泥おでいだ。腐乱した魚のような臭いがたちこめる。たちまちどろどろ。それをずずずっと汁でもすするようにしてまれてしまった。

 そこは川底か。

 もっと深い海の底か。

 ゴボゴボとまとわりつくようなのは泡だろうか。あるいは自分か。精霊と言われればそうかもしれない。浮き沈みもせず離れもしない。ちかちかと点滅して微笑ほほえむようだ。こっちだよと手招くようだ。

 ぼうっと青白い灯が浮き上がる。

 三味線しゃみせんが鳴りひびく。

 幾つもの影が立つ。ずらずら並んで唄えや踊れ。手をひらひら舞わせながら、足をどんどん踏み鳴らしながら、赤い橋をずいずい渡る。こっちへ向かってやって来る。長い舌だ。白い腕だ。あの夜の細道がって来る。


 ―――やしゃで やのしゃで

    やのしゃで やしゃで―――


 (なに…なんなの)


 耳を塞いだ。

 目も閉じた。

 口はつぐんだ。

 貝になって泥をかぶった。


 (どうしてどうしてどうしてどうして)


 どうして自分がこんな目にうのか。

 なんの因果だ。もうさっぱりわからない。ただ大人の言いつけをきいただけだ。ふつうのことだ。それを死ぬ思いでがんばった。そうまでしていい子にした自分の何がわるい。何が罪だ。どういう罰だ。ほんのちょっとくらい浮かばれたいのに、どうにもこうにもむくわれない。

 幸せになりたいとまで思っていない。そんな大それた願いは願えない。叶わなかったときの落胆、塵積ちりつもって絶望のほうが魔よりもおそろしく呪わしい。ついに母は来てくれないのだ。それなら始めから願わない。ひたすら言いつけを守って、いつかただ死ぬ。それをじっと待ちわびる。神仏に御赦おゆるしを請うように。

 だからもういい。もうなにも願わないから、ほっといてほしいのだ。しずかに貝になってこうしていたい。それすら叶わないというなら自分で自分を呪うしか能がなくなる。体中の血が濁ってうみになる。こらえたところでいずれ爆発。裏返れば真っ黒な厭魅ヒトデナシ。そうなるまえに粉微塵こなみじんにしてはらい清めたいと、これまた呪う。半死半生、延々この無間むげん地獄を輪廻りんねする。


 「それくらいなら」


 と、そこに手が差し向けられた。

 思わず取った。

 負っかぶさるように背中から声がした。


 ―――つぎはおねえちゃんの晩。


 「ひっ…!」

 「どうしたんだい」


 と、取ったままの手が言った。


 「わるい夢でも見たのかい」

 「…あ…か、母さ…………」

 「おかしな子だね」


 口調も姿もたしかに母だ。

 うそだろう。

 いや、まさか。


 「まあいいよ」


 手を引いて母は言った。


 「いっしょにおいで。そんなところで、捨て犬みたいにふるえてないでさ」


 (ちが…、ちがう)


 「もう辛抱しんぼうしなくていいんだよ」


 あきれたように母はわらった。


 「おまえはもう…本当にこらえ性でいけないねえ。誰のためだか知らないけどさ、もうおよし。もういいのさ。沢山たくさんだろう」

 「…」

 「さ、ほら、シャキッとしな。これから母さんと逃げるんだよ。あんなクソともこんな貧乏暮らしとも金輪際こんりんざいおさらばするよ」

 「弟は…。ねえ、あの子はどこ」

 「いいから」

 「あの子はどこ。無事なの。どうなの。どうなったの。あの子はどこなの」

 「あの子じゃわかんないね」

 「あの子はどこ!!!」


 カッと母の手を振り払った。

 「もういいじゃないか」と母は言った。


 「こんな地獄、なにがいいのさ。いつまでそうやってるつもりだい。じめじめメソメソ。やめときな。おまえのためだよ。母さんは全部おまえのために言っ」

 「ちがう!」

 「なに」

 「ちがうちがうちがうちがう!」

 「なんだってんだい」

 「あんたなんて母さんじゃない!」

 「はああっ?」


 つかまえようとする母を突き飛ばして言った。


 「母さんはわたしなんてどうでもいい!」


 なんか一生知らない。それが母さんだと、ずっと前からわかっていたこと。


 「わたしと逃げるなんて絶対しない。クソはあいつじゃない、わたしの方。どうせあいつとうまいことやるんだ。うそばっかり。だけどもういい。あんたなんてもう知らない!」

 「このっ、もっぺん言ってみな!」

 「知らない!」

 「この恩知らずの裏切り者! おまえには感謝ってもんがない。どうしようもない鬼畜生だよ!」

 「生んで育ててやったって? それがこうだよ。ざまぁみろ!」

 「母さんを捨てるってのかい」

 「知らない!」

 「捨てるってんだね」

 「知らない!!!」

 「いいさそれでも。とっとと立ちな。ほら行くんだよ!」

 「いやだ!!!」

 「へえ~そうかい。そうなんだね。それで本当に後悔しないね?」


 (後悔するに決まってる…ッ)


 本当に本当はいっしょに逃げたい。一目散に手と手をとって。やさしくしてもらえるなら何だってしてみせたい。こっちを見てもらえるなら地獄も極楽。鬼畜生にだってなってやるのだ。これが後悔しないはずがない。


 (ばかだ、わたし)


 いつもこうだ。ずっとこうだ。

 こうしたら「しなきゃよかった」。ああしたら「別のがよかった」。できなかったら「どうせ自分は」。今この時は「母さんごめんなさい捨てないで」。

 一体なんだ。どうかしている。

 さがやまいか。たちごうか。

 絶望をわざわざ探して首からつっこむ。あろうことかそれで悦に入るというから奇妙奇天烈きみょうきてれつ。誰得でもない自己陶酔だ。これが莫迦ばかでなくてなんだというのだ。我ながらクソみたいな気分でグラグラするが、これからもガタガタふるえながらこんな調子だ。そういそいそとは変われない。

 これが自分だ。どうしようもない。わかってしまうのもどうしようもない。これでこの母の娘をやってきたのだ。母がかくらいはわかってしまう。ひどい話だ。望んでいたはずの言葉を、眼差しを、神の慈悲のように差し向けられて脱力するほどガックリくるとは、まさかこの瞬間ときまでわからなかった。わかったところで涙がもう止まりやしない。


 「金輪際こんりんざいおさらばだよ!」


 言ってやった。してやった。

 はげしい痛みでなにもかも張り裂けてしまいそうだったが、そこで首がぐるんっと大回転した。頬を思い切りはたかれていたらしい。はずみで、


 ズルリ………


 と、かぶっていた笠が落ちかけた。

 首までグラリ。いやな方へと傾いたのにはギクリとした。

 咄嗟とっさに押さえた。血が下がった。

 惜しかったねえと辺りがざわざわしたのもほんの束の間。


 「グゥぅォぉお…お…ぉ…オ…のっっっ!!!!!」

 「!」

 「くそタヌキめがあァぁあアァあぁああ!!!!!」


 ごっと風がうなった。吹き飛ぶかと思った。実際、浮いた。

 金棒のような腕で喉首をつかまれて足がぶらぶら。笠はぐらぐら。ぶんぶん振り回された挙句、地にびたびた打ちまくられて放られた。

 ドーンッと落雷。

 それがまだ聞こえるか。

 よくもまあ死なないものだと目を虚ろにさ迷わせれば、見えた母の姿は真っ赤っ赤。だらりと垂れた舌は地にまで届く。長い髪からは黒煙くろけむり。皮膚はズル剥け。その下からうろこがのぞく。それがむくむくと達磨だるまのように膨らんだ。直後、


 バツッ…!


 と炸裂。

 ばらばらと粉炭こなずみが降って積もった。


 「か…母さ」

 「あほタヌキいいいいいッ!!!」


 ひどいがなり声がとどろいた。

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