第7話

 「なんかきこえる?」


 弟が言った。ぎゅうっと手を握ってきたのを、


 「え、なんて?」


 わざと素っ気そっけなくあしらった。


 「うた? こえかなあ?」

 「風だよ」

 「ねえねえ、やしゃしゃしゃ聞こえる」

 「知らないよ」

 「おねえちゃん」

 「およしって。もう」

 「そっちじゃないよ」


 はっと握った手のほうを見れば、ぼろぼろの提燈ちょうちんが風にぶらぶら。

 真後ろから弟の声が。


 「こっちだよ」

 「え」

 「赤い橋。ほら」


 そう指さした方に向くか向かぬかの刹那に、音ひとつ。ぽたりと落ちる墨の一滴。水に滲んで煙のように闇をひろげる。

 そんな夜明けの晩に橋がかかる。

 いわやが口をあけて待っている。

 大岩が屏風びょうぶのように囲い立つ。上には老松おいまつ。月明かりも雨粒も通さない。

 その暗い足もとを冷気がとおる。ザワリと波立つ。足首のあたりをとらえて凍るようだ。奥へ奥へと流れて誘う。水か川か潮かのように。

 その上をこだまが通る。遠近おちこち音頭おんどして定まらない。


 ―――やしゃで やのしゃで

    やのしゃで やしゃで―――


 声のような風のような。

 それにしてもとにかく寒い。提燈の火は炯々けいけいと輝くが温度はない。ちらりともはためかない。それを見るうち、ふと冴えた。


 「…ねえ、あんた平気?」


 弟の無事を確かめた。


 (あれっ、いつの間に)


 自分よりずっと先へ先へと進んでいるのに驚いた。あとすこしであかりも届かなくなるではないか。ザブザブと波音ばかりを大きく立てて。


 (あんなに逃げよう逃げよう、こわがってたのにさ…)


 しかしこういう場所があったろうかと別に思った。空気がちがう。どこか妙だ。聞いた話とも合わない気がする。こんな川など見たこともない。このまま行ったところでくだんやしろがあるのかどうか、あやしいものだ。

 しかしおびの幅ほどの一本道だ。ひたすら真っすぐ辿たどってきたはずだというのに、いやどうもおかしい、どこでどう間違えればこうなるか、そういえばあの赤い橋はと振り返ろうとした寸前、


 「おねえちゃん」

 「うん?」


 火が消えた。

 どっと突風。

 提燈ちょうちんが引きちぎれて飛んでいった。


 「おねえちゃんっ」

 「どこ!?」

 「おねえちゃん!!!」

 

 ヒヒヒと自分の声がわらって絶えた。

 おっかぶさるように、バチッとなにかがぜて足がすくんだ。

 そこへ月の光が射してきた。正面は真っ白に消えてなくなる。見渡す限りノッペラボウだ。その間にも天井がビシビシ割れる。壁がバラバラ剥がれ落ちる。水音がザアザア高まる。足もとが今にもすくわれる。

 雨が降る。点々とこぼれる墨のように。ポツポツとみてぼやける。そのあたりから色のない火が燃えあがる。めらめらと穴をひろげて向こうが透ける。吸い込まれてゆく。

 そんなように自分まで煙が上がって其処彼処そこかしこと穴になるのは嘘のようで、熱くもなければ痛みもない。どういう感情もうごかない。石ころにでもなったようだ。それにしてもあの子はどこだと、半分寝たような目を泳がせた。


 「おねえちゃん」


 と、その子は腰の下まで溶けていた。白い顔がこちらを見ていた。

 何が何だかわからなかった。咄嗟とっさには見たものが信じられなかった。



 「おねえちゃ…」


 と呼ぶ声に心臓がはねた。正気に返った。獣のような声が出た。

 差し伸ばされた手を必死でつかんだ。ぼろりと崩れた。燃え尽きる間際まぎわの炭だった。それがぐいぐい穴にまれる。引っ張り込まれる。ぼろりぼろりと、つかんでいるこちらまでくずになっていきそうだった。

 それでもなんとか引き上げた。

 弟の息はあった。その腰から下は真っ黒だった。


 (洗おう)


 と何故か思った。理屈でなかった。どこかで洗おう。清めよう。そうすればよみがえるとでも信じ切って背負い上げた。とにかく信じなければうごけなかった。

 腰ひもで互いを結んだ。鉄砲玉のように駆け出した。が、


 (ど、どこへ行けば…!?)


 「そう、どこ行くの?」


 えっとすべって顔から転んだ。

 自分の声だ。ありもしないことだが、そうはっきりと耳にきこえたのは確かだった。

 起きて見回せども、当たりまえに無人だ。

 四方八方、ひらかれてはいる。しかし道らしい道はない。来た道も川になってわからない。どこへでも行けばいい。しかしどこにでも真っ暗な衝立ついたてがたてられているようで、ただの一歩がおそろしくて踏み出せない。足もとがざわめく以外は誰が追ってくるでなし、ののしるでなし、打つでなし、ただただ自分の声がするだけだのに。


 「どこへ、行けば」


 声がかすれた。


 「帰りたいの?」


 声がいた。


 「か」


 帰りたくない。言いつけも守れず帰ったところで地獄の釜だ。煮詰められてドロドロだ。

 そうふるえる一方で、わずかな欲のあるのもしっている。それは猛毒のように微量ながらも自他をおかす。


 「それってなあに」


 声がふたたびいてきた。

 それはと言いかけて口をつぐんだ。


 (なにか、言ってもらいたい)


 できれば優しい言葉をかけてもらいたい。心配されたい。こっちを見てもらいたい。ちょっとでもまともにかまってもらいたい。それならののしってもらってかまわない。ブチのめしてもらっても。

 なんでもこらえる。なんでも平気。だからどうか叶えてもらいたい。これだけ分かりやすくボロになってみせるのだから、ほんのわずかでも、すこしだけでも、


 (もらいたいもらいたいもらいたいもらいたい)


 そうやって満たされることのない欲がブツブツ拝んでいるのをしっている。

 喉奥がジリジリ痛む。ボタボタ血のたれる顔をおさえる。生皮がズルズルに剥けて骨まで透けるか。そんな錯覚に引っ張り込まれてうしろから唄がせまる。


 ―――やしゃで やのしゃで

    やのしゃで やしゃで―――


 (やめてやめてやめてやめて)


 「じゃあ、やめよっか」

 「いかないで!」


 自分にまで見捨てられたくなかった。

 わるい子にもなりたくなかった。


 「じゃあ、行くの?」

 「わ、わかんない…」

 「行かないの?」

 「どこ? どこへ??? どこにも行けない。なんにもみえない」

 「じゃあ、帰る?」

 「わかんないよ。どうしよう」

 「行く?」

 「ほんとうにわかんないって!」

 「こっちへおいでよ」

 「どっち」

 「おいでおいで」

 「だから、どっち」

 「こっちだよーう」


 かぶっていたむしろをかなぐり捨てた。

 ぱっと向こうに灯がついた。赤い灯だった。

 その途端に橋になった。白い道が続いて見えた。

 背の弟が重くなった。急にしゃべった。そこから出るなと。


 「なにガアろう、、、ト…???」

 「うわああああああッッッ!!!」

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