第6話

 ざああああっ…と雨のままに天がただれて、夜になった。


 「おねえちゃん…」


 (いやだ)


 この夜のことはしっている。これ以上くり返さなくてもしっている。月のかたちから色までおぼえている。ところでの雲はどこへ消えか。


 「おねえちゃんってば!」

 「うん」

 「なんでむしろかぶってるの」

 「う…ん? うんうん」

 「ねえ、にげようよぉ」

 「どこへ」


 と言いたいのを寸ででんだ。

 どこへも逃げられない。当てもない。

 ここだけの話、そんな思いを巡らせたことはあるにはあった。弟といっしょにたくらんだことも。とはいえ、子どもの考えることだから他愛たあいもない。世界もせまい。ここでなければどこでもいいというくらい。できれば遠く、りガラスを突き抜けた先がいい。そこにひらけるのは高き庭。鳥は飛び交い、花は満開。かんばしい限りだが、やたらまばゆい。一面星々。真っ白で目に見えたものでない。見えるとすれば自分の足裏の影ばかり。

 にもかくにも誰にもぶちのめされることはないのだ。それで十分。ばかりか、足音に鳥肌が立つことも、目線で串刺しにされることもない。これぞ放たれた鳥の気分だ。ここでなら生きていようが死んでしまおうが転生しようが、おかまいなしだ。もう全部放っとけ。最高だ!

 ところがこれが変なもので、途中から温度が下がる。

 母をおいてけぼりにすること。

 弟まできれいさっぱり忘れていたこと。

 後ろめたさに立ち止まればたちまちに死人の温度。それよりも冷たい刃物が背にあてられる。ささやかれる。どういう娘だ。なんという姉だ。結局は自分おまえひとりが可愛いばかり。


 「「ちがうか?」」


 途端、うしろの正面に肩を引かれる。さて誰が誰だ。真っ黒な顔と顔だ。カチ当たって渾然一体こんぜんいったい。燃え上がって灰の雪降る。物言わずに沈殿してゆく。いつからどこまで。結んで開いて、手を打ってそれがむあたりまで。


 「「ご覧よ…?」」


 せめて目玉のあるうちに。

 このザマ。この為体ていたらく

 つまりはそれだけのことだったのだよ。

 自分おまえが何者だろうが、何者でもなかろうが。どこにろうが、どこにもるまいが。唱えて拝んでよみがえっての阿呆踊りだ。手足がちぎれて首が落ちても有難ありがたみ。おちおち往生してもいられないのさ。

 さてもさても。

 そんなこんなで。

 責めて打って呪いつづける。自分で自分を。ご苦労なことだ。

 姿かたちを変えれども化けれども、生きようが死のうが転生しようが、逃げても逃げてもおかまいなしだ。よくよく見ればと、そこで目が覚めそうになってまあ最悪だろう? 

 そんなくらいなら、いっそこのままが気楽極楽。大人の言いつけどおりにりさえすれば、にはならないはずだ。他はなにも見ず聞かず考えずに済む。母もしあわせ。目出度めでたし、目出度めでたし。そのはずだのに、肝心の母は嘆いてばかり。折檻せっかんむどころか一層ひどい。


 (???????????????????????????????)


 なにを間違えて、なにが悪い?

 母こそ何を考えているのか? なにを言ってほしいのか? 母は本当には何を言いたい? なにを叫んでいるのだろうか?

 言いつけてくれたら全部その通りにしてみせるというのに。

 いやもうまったくわからない。ぜんぶに合点がいかないが、このあたまでは追っつかない。すでにずっとぼんやりしている。いい子になりたい。ただそれだけのことだのに。

 そんなこんなで瞬間々々、息継ぎだけまかなっている。あとは膝を抱えてこうして居る。果てもなく居る。これがふつう。つまりは堂々巡り。ほかのやり方などあろうがなかろうがうわの空だし、今さらだ。

 なんにせよかごの中の鳥。

 逃げたいのは山々のようで、逃げたくもないはなし。


 「おねえちゃん」

 「わかってるよ!!!」


 突き飛ばすように叫んだ自分の声に、ギクリとした。これではまるで母のようだ。ああこわいと下唇をぐっと噛んだ。

 が、時間がない。

 とにもかくにも言いつけどおりだ。弟の手をこわごわ引いて、薄暗い細道を歩き出した。


 「行って、帰るだけだよ…」

 「でも」

 「あんたも聞いたでしょ、おいしい賭けなんだって。行って帰ってくるだけ。それだけでさ、母さんの独り占めにできるんだって。今夜分の、仲間の稼ぎが全部だよ」

 「そんなのウソだよ」


 そう思う。子どもの自分でも、それより子どもの弟でもそう思う。

 なにしろ行く場所というのがいわく付き。

 すたれたやしろか何かでまわりは荒れ野。人馬禽獣じんばきんじゅうを石に刻んだものが点々と転がるばかりで、まつる者はすでにない。昼夜を問わず生きたものは近寄らない。いつ頃からか、そこに年経た猿が棲みついたという四方山話よもやまばなし。これがただの猿でなく風雲をふるって自由自在に飛び回る。人を宙へ連れ去り裂いて喰らう。もしくは犯す。これと出遭って生きて帰った者はないのだとか。

 そんな場所へ行って帰れというのは、賭けというより子殺しでないか。それありきのか。


 「ひとのこころをよむんだって」


 弟が言った。


 「だからウソつきはトラの手でちぎるんだって」

 「猿なのに?」

 「わかんない。でもシッポはヘビで、かまれるとみんなくさるの。くさるってなに?」

 「よしなよ。だれが言ったのさ」

 「雲とか風とかビュービューふくって。影もながいの。すごくはやいの。朝から晩まで、こうやってとんで消したり出したりする。だからだれにもつかまらないって」

 「ふぅん。じゃあきっと平気だね」

 「え、なんで?」

 「だれも帰らなかったら、そんなことわかんないよ」


 だから作り話だよと、言いながら口がへの字になっていた。自分で自分をはげましているようなものだったが、それでも多少気はまぎれるか。

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