第5話

 「おねえちゃん」


 呼ばれた声に目を上げた。

 そこへ雨粒がぽつりと落ちた。腫れた目には氷雪のようにつめたかった。それで顔をしかめたのを察したように、声が小さくなって言った。


 「おねえちゃん…」

 「うん」


 上を向いた。表情を見られまいと。

 隙間だらけの屋根から空がみえた。雲らしい雲はなく、小雨で全体に白っぽい。きもちとおなじで取り留めない。見上げれば大体そうだ。陽射ひざしはあるようでもこちら側まで届かない。りガラスを挟んだ向こう側に限るようだ。

 そんなような、秋も深まりかけた時分だった。


 「いいものあげる」


 声が近寄って、ふふふとわらった。ふところから大事そうにとり出したのは麻の小袋。中には茱萸ぐみの実。果汁がしみて、手先から着物のあちこちまで赤色になっていた。


 「これどうしたの?」


 先に心配が立って言った。そこから目鼻が見え出した。声がカタチとなり、顔がひとつ浮き上がった。まわりの干し草のカビた臭いが急にきた。


 「とったの? ひとりで?」


 たしかに言った。そのおぼえはしっかりある。ところであの雲はどこへ消えたか。

 そうよぎった途端に目の奥がチカチカ。あたまはグラグラ。景色はブレブレ。正体がどうにも定まらない。


 「できるよ!」


 弟がわっと言った。


 「うそ」


 なんとか返した。薄ぼんやりしたまま、しみじみ言った。


 「無理だよ…そんな小さいのに」

 「無理じゃないよ」

 「うん…」

 「おこってる?」

 「ううん」

 「じゃあたべて」

 「酸っぱいよ。無理だよ」

 「はやく! はやくたべて! 無理じゃないから!」


 わかったわかったからと、表情で取りつくろおうにもつらいのに気がついた。目ばかりか顔までパンパン。血膨れして話すのもやっと。口の中までズタズタに切れている。これではなにも口にできない。すでに血の味が歯茎までしみて胸クソな上に、自分の口臭で気も遠のく。

 それとは別に、実際、なにもかも食べたくなかった。自分ではどうがんばっても死にきれないというのが腹の底。あわよくば気づいたら死んで居たい。そっと、はじめから無かったように。そうなるようにと自分で自分をじわじわ甚振いたぶる。


 (いつか死ね)


 それで食べない。磨りガラスの向こう側にあたまからたおれ込みたい。

 それが叶わず、鈍い朝が来るたびうんざりする。まだ息をしているのかと。その延々えんえんくり返しで疲れきる。よくもまあ生きているのか、それともとっくに死んでいるのか。そろそろこんな調子からゆるされたい。その一方で、かすかに願い止まない自分がいるのだ。一度くらいは大人というやつになってみたい、そうすれば―――。


 「……………」


 と、弟の目はうごかない。涙をためて、何事かをこらえた顔だ。

 仕方ない。

 観念して、のひと粒か半粒かをやっと飲んだ。「ありがとう」と嘘を言った。小袋を持たせて返そうとしたところを、


 (うっ)


 と背中から蹴倒された。

 それはいい。いつものことだしワケもないのだ。しかしこのときは弟までいっしょにのされてグワッときた。目のまえが真っ暗になるほど怒りが湧いた。それでもどうしようもないのも分かっていた。身体のしんおびえきってうごけない。まるで呪いだ。自分で自分を雁字搦がんじがらめだ。こういうときのみじめったらしさときたらどん底で、死んだところで忘れやしない。

 そうやって滅多矢鱈めったやたらに打たれたあとは、上からの声にホッとするのだ。たすかったと、すくなくとも今は終わったと両手で拝む。みじめなやつらしく如何いかにもあわれっぽく、神か仏かに救われた勢いで。


 「こンの、泥棒猫ッ」


 穀潰ごくつぶし! 金食い虫! と似たようないつもの口上に、いつものしかめ面。へんな男にやられるまえは、もう少しきれいなひとだった。それにしても不思議でならない。この母は何だっていつもこうも苦しげだったか。しあわせになりたい。そう思いつけば唱えて拝むのが癖だったのに。


 「気味の悪い子だよ」


 べっと唾を吐くように母は言った。


 「いっつもこうだよ。膝抱えてブツブツぼそぼそ。こっち見りゃダンマリ。なに考えてんだい。死んでんのかいこの鬼っ子!」

 「やめとけやめとけ」


 男の声がにやにや言った。


 「金にならなくなるぜ」


 どんだけ頭がコレでもよぅ…と、じっとりとでまわすようなその声音に怖気おぞけ立つ。母に憎悪はないが男は駄目だ。あの目で見られていると思うだけで肉が腐る。はらわたを裂かれる。火をつけられる。その臭いでいっそ窒息してしまいたくなる。


 「そうだよ。…金といえば」


 母の声音が急に変わった。


 「いいかい、ちょっと…おまえに大事な頼みがあってね」

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