第2話

 そのすそを、少女は急いでつかまえた。が、蹴っ飛ばされた。わっと仰のいたところを剣光一閃けんこういっせん。突風がまっすぐ後を追った。

 その先、


 ボッ


 と、すぐうしろで何かがぜた。黒煙がただよった。青い火の粉が豆を散らしたように降ってきた。

 少女は咄嗟とっさに息を詰めた。突き倒されるように地面に倒れた。目も耳も鼻も口も固く閉ざした。そうやってこのおそろしきが過ぎるのを待つよりほか助からないと、本能が直感したのだ。


 「大事ないか」


 そう響いた気がしてはっとした。おぶけさまの声だった。それはそれは優し気だった。それでふっと気がゆるんだ。

 途端、真っ暗闇が口を開けた。

 ひと口に呑まれた。

 悲鳴をあげる間もなかった。

 あとは地獄の底無し沼だ。汚泥がまとわりついてズブズブ沈む。容赦なく引っ張り込まれる。足掻あがけどもかえってわるい。自ら泥を搔き寄せるかたちになって、重く深く沈殿してゆく。

 そのうち四方八方がうごめきはじめる。闇のような泥か、泥のような闇か、にわかに集まる。人のかたちをとってぞろりぞろりと這い出してくる。無数のうじが湧くに似る。全身漆黒で目鼻はバラバラ。長い舌をのばし、腕をからませ、くさい息を吹きかけてくる。隅々すみずみまさぐられ、肌を吸われる。血をすすられる。五臓六腑に歯を立てられる。くびされて今にも潰れる。たまらず喘ぐ。その口へ唾液を注ぎこまれたあたりから肉が溶け出す。ぐずぐずに崩れて穴が開く。奥にわらうのは無数の目。ふつふつと湯が沸くようにえてゆく。そうして闇だまりと化けるかどうか。

 少女の目はすでに虚ろ。脳裏は朦朧。それでもかすかにとらえたのは、ピッという刃鳴りの音。それから光。一条、また一条と射しては広がる。八千矛やちほこが闇を裂く。そんなような不思議にみとれた気がした。


 (なん、て、こと………)


 天が銀色にかがやいた。

 無数の星々が火を放つ。

 まっしろな灰が降ってくる。

 それは一面の花吹雪。

 そして風へ。

 果ては雲へ。

 長々と白くたなびき、天地一体。ひとつの大きなうねりとなる。ぐるり渦を描いて海となる。その水面には星がただよう。淡い明滅をくりかえす。その中心、茫漠ぼうばくと浮き立つのは影ひとつ。


 「龍をしたがえる鬼神…のような」


 とても現世うつしよのものとは思われなかった。


 「呑気のんきよな」


 ぷすっと笑われて、少女ははたと我に返った。開いていた口をあわてて押さえた。玉粒の汗が噴き出した。ふと黒煙のにおいがただよった。それから、


 (それ、から………???)


 あたまに濃い霧が垂れこめる。わからない。思い出せない。立ち呆けたまま指先だけがかすかにふるえた。

 が、それも束の間。いきなり荷駄にだのように担ぎ上げられたのには驚いた。身体がねた。すさまじい恐怖が背骨を走った。自分でも戸惑うほどだ。こらえきれず暴れまくった。そうでもしなくては狂死した。


 「やめてやめてッ! おねがい放し…ッ」

 「噛むな噛むな。爪をたてるな」

 「かっ、かんにん! 堪忍して!」

 「落ち着け。不埒ふらちはせぬ」

 「うそ!」

 「逃げる。ここから離れる。それだけよ」


 (そ、それ、だけ)


 少女は一応おとなしくなった。それでも噛みつくのをやめられない。おぶけさまの肩に歯を立てたきり、ちょっともうごけなくなっている。

 一方のおぶけさまは静かなものだ。ビクともしない。怒りもしない。変に笑おうとする気配もしない。なんともかんとも言って来ない。それが少女には得体が知れない。こういう大人をまともに知らない。どうしたらこんな大人の機嫌がわかるのか。わかるまでは噛むのをどうでもやめられない。離れたいのに離れられない。噛む力ばかりが強くなる。いっそ払い落してもらえたほうが、怒鳴りつけてもらえたほうがわかりいいし安堵あんどするのにと、少女は多少うらみにも近い気分で憂鬱ゆううつになった。

 が、次第にあごが痛くなってきた。口端くちはから垂れるよだれもひどい。なにせ噛んでいる肉が硬い。骨も太い。態度もせない。もうやめたくて仕方がない。それでもどうせよと言われない。


 (痛く…ない…の、か、な???)


 少女はさすがに困り果てた。目をきょろきょろと泳がせた。

 

 (あっ)


 と、そこでやっと気が付いた。何もなかった。何も見えなくなっていた。あったはずの河がなかった。それどころか景色がなかった。一面ひたすら真っ白で、天の叢雲むらくもがそのままおりてきたようだった。なんとなしに下へ目をやれば、おぶけさまの膝あたりまで白っぽくなっていた。

 少女は急に寒気をおぼえた。噛むのをやめた。ふにゃふにゃと力が抜けた。


 「今が潮目よ」


 おぶけさまは言って、落ちていた笠をゆっくり拾った。ついでに少女を担ぎ直した。


 「オレはよいが、そなたがマズい」

 「そ…れは、どういう」

 「ないしょ」

 「で、では、あの、なんか、黒っぽい、わたくし」

 「ひみつ」

 「!」

 「そう怒るな」

 「怒ってなど!」


 少女は怒鳴った。あっと思ったが、おぶけさまは別になんともない。触れた背があたたかい。それでおそるおそるホッとした。

 そんな間にも、とっととおぶけさまは駆け出している。

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