第3話

 「あのっ」


 と少女はそれでも粘る。ホッとした途端にきたいことが山ほど出てきた。

 が、勢いでブッ飛ばされる。好奇も不安も景色といっしょに横っ飛びに飛んでゆく。さらにぐんぐんと加速してゆく。谷を吹き下り、あるいは巻き上がり、山の木立はすり抜ける。川の水は自ずと退しりぞく。ついには尾を引き消えてゆく。墨が水に流れるのを眺めるようだ。


 (つむじ風になったみたい)


 少女はぐるぐる目を回す。驚くより圧倒されて青息吐息だ。骨の髄まで溶けてしまう。どさりと大地におろされたところでなかなかカタチにまとまらず、しばらく声も出なかった。


 (あああ…)


 それでも光が射すのがぼんやりわかった。

 丘の上で、まわりは林。縁取る空は薄青だった。

 新鮮な空気が肺腑はいふに満ちた。

 鼻腔を湿らせる土の匂い。露を含んだ草葉の青っぽい匂い。ほのかに甘酸っぱく刺すようなのはタムシバの花の香か。ずんずん沁みて、五体がきとおってゆくようだった。それではじめて気がついた。


 「うわくさッ!」


 屍臭ししゅう腐臭ふしゅう、それにむくろの焼ける時の独特の臭いがうわっときた。ほかでもない自分の臭いだ。羊の生臭みをもっと強烈にしたやつで人も殺せる。これが肌やら髪やらに悪霊のようにまとわりついて離れない。こすっても落ちない。叩いても仕方がない。着物をてて丸裸になってみたところで変わらない。やすやすはらえるものでない。急に光が絶えてくらくなったのには嘔気おうきにかまけて気づけない。

 少女は吐けるだけ吐くも止め処がない。やめられない。このままでは内臓まで吐き出しそうだ。なんとかこらえようとしてなおわるい。涙と鼻水、それに脂汗がダダ洩れで七転八倒。そこへ、


 「ふぎゃっ」


 滝の雨が叩きつけた。

 瞬時にんだ。

 少女はしたたかに打ちのめされた。白目になった。それほどの仕打ちで半分死んだ。が、


 「!」


 と跳んで後じさり。気配にさといのが幸か不幸か、おちおち死にかけてもいられなかった。


 (だっだっ誰っ!?!?)


 細面ほそおもての女人がひとり。白拍子姿をしてそこに居た。月影を背に銀にかがやく。これが微かにもうごかない。息をしているのかもわからない。天女の塑像そぞうが立つかのようだ。その眼差しは瞬きもせず、水面のように少女をうつす。垂れ髪が風にそよぐ。顔が隠れたかと思いきや、次にあらわれたのは老翁だった。

 雲をかぶったような頭に、白髭は胸まで垂れる。よく日焼けした皺深い顔は松の木肌を思わせる。女人とちがってニコニコしている。おもむろにひと足踏み出し、扇を開く。くるりくるりと回して遊ぶ。扇絵の胡蝶がつぎつぎに飛び出す。鱗粉をぱちぱち散らす。少女のまわりでれて唄って星となる。

 うわわわっと払いのけて、少女は逃げた。

 その先には青い焚火。向こうに禿かむろがうずくまる。よくよく見れば、少女と瓜二つの顔をしている。それが白玉を串にして頬張っている。なにかの目玉のようにも見えてくる。てらてら光り、うにょうにょ動く。んでも食んでも泡が湧くようにえてくる。禿は面白がってケラケラわらう。立ち上がって、少女に串の一本を差し出してくる。

 棒立ちの少女はなにも言わない。言えやしない。串に目をやったきり顔面蒼白。いまにも引っくり返って卒倒寸前。そんなところか。

 …と、禿は小首をかしげた。思案気にうつむいたが、嗚呼と手を打ち敷物をひろげてみせた。その上に少女を手引いて座らせた。串はひっこめて、かわりにひさごを差し出した。


 「え」


 少女の顔がきょとんとした。目の前の瓢をしみじみ眺める。いつの間に座っている自分にそこで気づく。着衣まで真新しいのにあたふたする。素裸だったのが小袖こそで軽杉かるさん。飛び模様の梅花が開いたり閉じたり。これが一番ぎょっとした。

 それにしても何がどうやら、まったくもってわからない。どうしようもないが、となりの禿もまたピタリと動かない上に物も言う気色けしきもないから、向ける顔にこまってしまう。なにかを言おうと口が開く。

 そこへ瓢の吸い口が突っ込まれたからたまらない。大いにむせたが、注がれる清水の冷たさに生き返る。渇き切っていたことをようやく知る。途端、玉粒の涙が噴いて出た。疲労、それにワケもない感情という感情が嵐となって耐えられず、しばらく無心でわんわん泣いた。あとは急に落ち着いた。


 「小ざっぱりしたな」

 「はい。ぶっ」


 少女は思いきり水を噴いた。はずみで相手の頬をビンタした。


 「化かしたなこの人でなし!」


 うふっと、おぶけさまは頬を撫でた。禿など当たりまえに居やしない。もちろん老翁も、白拍子も、この人の気もわからないヒトデナシの詐術か妙技か冗談か。いずれにせよ良いご趣味だ。

 見渡せばもとの丘。林はしずかで空は薄青。多少なり雲はふえてはいたが、太陽は白けるほど明るく風はさわやか。何でもないただの朝に違いないが…


 (…なにものだろう、この御方)


 ブルッと少女は肩をすぼめた。

 今ここさえ夢かうつつか、嘘かまことか。その両方あるいはどちらでもないものか。この手の正体は探れば探るほど自ら沼地にかるようなもので、すのがいい。触らぬ神だと、本能の警鐘を遠くに聴きつつ、少女の胸はザワザワと落ち着かない。

 片やおぶけさまは、ぼやっとしている。少女の剣幕にもどこ吹く風。敷物の外を選んでゆったりしゃがんだ。草の芽をつまんでもぐもぐしている。なにを思うでなし考えるでなし言うでなし、煙ったような風情で相手にならない。

 これには少女の方がイラッとくる。さんざんおどかされたあとのこともある。たかが子どもとあなどられたか。もてあそばれたか。どういうつもりかあらためたい。子どもといえども次第によっては怒りますよと、少女はムカッ腹を抑えきれない。


 「あのッ、ひと言申し上げたく。わたくし」

 「ん?」


 と言うように、おぶけさま。空を向くカエルのようなつらだった。


 (なんだこのひと)


 これが大人のやるかおかと、少女はあきれた。力という力が抜けた。怒りも緊張もやる気のないゴムのように伸びてしまった。

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