第141話 明るい別れ

「残留物が無くてほっとした。

 後は経過観察で三、四日後に一回通院するだけで良いって」

 医院を出てからの明菜ちゃんの第一声は、そんな感想だった。

 表情に暗い所は微塵みじんも見えなかった。


「何か残ってたら、鉗子かんしで掻き出さなくちゃならなかったから、それが無くて良かったね」


 明菜ちゃんの言葉と表情に釣られて、僕はそんな生々しいことを言ってしまったが、明菜ちゃんは、それを気に止めなかったようだ。


「うん、数日間、運動をしなければ問題ないって言われたし」


「でも、明日の月曜日は仕事を休んだ方が良いじゃないかな」

 女性の身体への影響は分からないが、昨日、今日と、肉体的にも精神的にもかなり大変だった筈だ。


「でも、正式採用の審査期間中だから、今は休めないよ」

 明菜ちゃんは、そんなことを言った。


 急に空腹を覚えた明菜ちゃんと、早めの昼食をるため、西船橋駅近辺のファミレスに入った。

 まだ肉類を食す気にならないのか、彼女が注文したのは、山盛りパスタと温野菜サラダとスープだった。

 昨日の夜と、今日の朝食を抜いているのだから、それでも遠慮気味な量だったかも知れない。

 僕もそんな彼女に遠慮して、肉類は避けて、サンドイッチとコーヒーの軽い食事にしておいた。

 明菜ちゃんと一緒に食事するのはいつ以来だろう。

 この先、こんなことは無くなるのだろうと思うと、二人の食事が愛おしく思われた。


 早めに食事を終えた僕は、席を外して、ある所へ電話を掛けた。

 そして良い情報を得た僕は、その求人情報に予約を入れておいた。


 僕が席に戻ると、明菜ちゃんはゆったりとコーヒーを楽しんでいた。

 聞いてみると、やっと食事がおいしく感じられたという。

 やはり、これまでは、つわりとかで味覚に変調をきたしていたのだろうと考えた。


 僕は明菜ちゃんの真向かいに、腰掛け直してから話しかけた。

「さっき父に電話してみたんだ。

 父は津田沼駅のすぐ近くで司法書士事務所をやってるんだけど、最近退職者が一人出たって聞いていたから、近々求人を出すのかって」


「え、どういうこと」

 明菜ちゃんには、僕の提案が伝わらなかったらしい。

 気がはやっていたせいで、少しつたない言い方だったせいもある。


「つまり、明菜ちゃんが明日から数日休んで、今の職場で正式採用してもらえないようだったら、父の事務所で事務仕事をしたらどうかって思ったんだよ。

 そこそこ給料は良いと思うよ、うちは」

 今度は、よく分かるように説明してみた。


 明菜ちゃんの目が大きくなる。

「そんなにしてもらっても良いのかな」


 多分、今、明菜ちゃんの生活には余裕が無い、僕は彼女の暮らしぶりを見てそう判断していた。

 津田沼駅近という立地と、事務仕事という内容に加え、給料が良いという話が魅力的だったようだ。

 大きな悩み事が解決して、新生活を立て直そうという意欲が湧いてきたんだったら、とても良い兆候だろう。


「気にしないで、どうせ求人予定があるんだし、明菜ちゃんだったら、すぐ仕事覚えられると思うよ」


「じゃあ、今の仕事先で、正式採用が保留された時はよろしくお願いします」

 少し考えるだろうかとも思っていたが、明菜ちゃんは前向きな姿勢を見せてくれた。


「給与などの条件を聞いておくから、今の条件と比べてみてよ」


「うん、何から何までお世話になって、ごめんなさい」


「元は僕に責任があることだから、気にしなくて良いんだよ」

 元気を取り戻したように見える明菜ちゃんに対し、僕の気分も弾んでいた。


「それでも、とてもありがたい申し出だよ」


「この後、まだ心細かったら、今日も一緒に居ようか」

 明るさが復活した明菜ちゃんとなら、もう少し一緒に居たいと思ったのは本当だ。


「大丈夫、病院でお薬ももらったし、先生も、数日はリラックスして日常生活を送れば問題ないって言ってくれたし。

 それに、渡瀬さんに悪いからね」


 唐突に渡瀬さんという名前が出て来て、僕はかなり戸惑った。

「そう、なの」


「うん、絶対に話したくない、妊娠と中絶の体験を、私のために、智也さんに話してくれた渡瀬さんに、これ以上の迷惑を掛けたくないから」


「随分と気を使うんだね。

 渡瀬さんは、多分僕の為に告白してくれたんだと思うよ」


「それでもね、とても私にはできそうもないことだから」


「そうかな」


「そうだよ。

 あ、もし私が、智也さんのお父さんの事務所に勤めることになったら、渡瀬さんはどう思うんだろう。

 やっぱり遠慮した方が良いかな」

 そう言ってから、明菜ちゃんはうつむいた。


「渡瀬さんはそんな人じゃないよ」

 僕は軽い調子でそう答えた。


「そうだよね、うん」

 明菜ちゃんは、笑顔を見せた。


「だから、明日、明後日は仕事を休んで、転職のことも前向きに考えて欲しい。

 仕事のできる人が来てくれれば、父も助かるんだし」


「そう言ってもらえると、とてもありがたいです」

 もう明菜ちゃんは、僕の目には心配なさそうに見えた。


 明菜ちゃんが遠慮したので、僕は津田沼駅の北側ロータリーで、バスに乗った所まで見送って別れた。

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