第140話 病院へ

 翌朝、僕は明菜ちゃんが着替えしている気配で目が覚めた。


 目を向けると、明菜ちゃんは背中を向けて、上着のボタンを止めている所だった。

「あ、ごめん」


「もう着替え終わった所だから、大丈夫だよ」


 そう答えた明菜ちゃんの顔色は良い。

 昨日とは雲泥の差だ。


 ほっとした僕は時間が気になった。

「今何時」


「7時過ぎよ」


 なら丁度良いか。

 時間の余裕がある。


「じゃあ顔洗ってくるね、トイレも借りるね」

 僕はそう言った。


「ご遠慮なく、洗面はトイレの前だから。

 タオルは置いてあるから」


「あ、そうだったね。

 うん、タオル使わせてもらうね」


 僕は洗面所に置いてあった、マウスウオッシュを借りて、お口くちゅくちゅで歯磨きの代わりにした。

 顔を洗うと、結構さっぱりした気分になった。


 キッチンのテーブルにいた明菜ちゃんから声が掛かった。

「あ、ごめんね、歯ブラシなら新しいの、買い置きがあったんだけど、出しておくの忘れちゃって」


「大丈夫だよ、マウスウオッシュできれいになったから」


 続いてトイレに入った時、背中がヒヤリとする感じがした。ただの気のせいだろうが・・・あれは僕の子だったのだ・・・

 今は使わずに、別のトイレを使った方が良いか。

 そんな考えもよぎったが、明菜ちゃんはこれからもここで暮らすのだと思うと、僕だけが嫌なことを避けるのは違うと感じた。

 両手を数秒ほど合わせてから、そのトイレを使った。


 僕はキッチンのテーブルまで来てから、明菜ちゃんの顔色をよく確認した。

 昨日までの暗い表情は無かった。

 自責の念が無くなったかどうかまでは分からないが、ある程度の割り切りはできたのだろうと思った。


「体調はどう」


「昨日あれだけ腹痛があったけど、今はほとんどない」


「じゃ、これから医者に行けば、感染症なんかの心配はないかな」


「うん、多分ね」


 明菜ちゃんの体調が良さそうなので、昨日調べたタクシーは呼ばなかった。

 バスで津田沼駅まで出て、僕だけが軽い朝食を摂った。

 明菜ちゃんは空腹だと思うが、エコー検査とかが予想されるので食事を避けたのだ。

(実は後で知ったことだが、腹部エコー検査と違って消化器系を検査する訳ではないので、子宮内エコー検査では事前の食事制限は無い。)

 電車で三つ目の西船橋駅へ行き、駅にほど近い、明菜ちゃんが受診している産婦人科医院を目指した。


 日曜日朝一番の待合室は、先客が一人居るだけだった。

 その人や、受付の人から見たら、僕らは新婚の夫婦みたいに見えただろうか。

 僕らが暗い表情をしていれば、中絶かなと邪推されたかも知れないが、僕たちはそこそこ明るい顔をしていたと思う。

 それに今気がついたけど、二人の足元を見ると、それは津田沼パルコで買ったお揃いの茶色のレザースニーカーだった。


 少しすると、「中島さん、診察室へどうぞ」と呼ばれた。

 僕はどうすべきか分からなかったが、明菜ちゃんに誘われて一緒に診察室へ入った。

 まるで若い夫婦のように。


 年配の女医さんは、一瞬この人がお相手かという顔つきを見せたが、明菜ちゃんが昨日の様子を話しだすと、時折カルテに記入しながら必要な質問を投げ掛けた。


「では、今日は子宮内部に残留物が無いか、確認しましょう。

 何も残ってなければ、この後数日の間、激しい運動を避けるだけで、日常生活を普通に送ることができます。

 特に安静も必要ないと思います」


「残留物が残っていたらどうするんですか」

 明菜ちゃんがそう尋ねた。


「胎盤の残りかすがあれば、鉗子で掻き出すことになりますが、殆ど内容物が出たということですから、子宮頸管を広げる術前処置は必要ないと思いますよ」


「子宮内部の検査の方法は」

 少し不安げな様子で、明菜ちゃんは医者に質問した。


「エコーを使った画像診断ですね。

 それと、子宮頸管の診察が必要ですね。

 これは器具を使って、一時的に口を広げて内部を観察するだけです」


「はあ」


 不安な様子が消えない明菜ちゃんに対し、女医さんはこう言った。

「大丈夫ですよ、手術ではなく検査ですから、すぐ済みます」


「はい」

 少しだけ、不安な気配が薄くなった。


 女医はモニター画面を見ながら、下腹部に小さなアイロンみたいな器具を当て、少しずつずらして行く。

 僕は、むき出しの腹を見ないように、遠慮してよそを向いていた。


「エコー検査では、子宮内部に残留物は見つかりませんね」


「そうですか」

 明菜ちゃんがほっとしたのが、隣からでもよく分かった。


「後は子宮頸管の診察をしましょう」


「はい」


 女医と看護師に促されて、特殊な椅子のある向こうへと、明菜ちゃんだけが案内されて、カーテンが引かれた。


 僕は自分が診察される訳じゃないのに、何故か緊張して来た。

 明菜ちゃんは、カーテンの向こうで、脚を開いて乗せられる特殊な形状の椅子に腰掛け、特殊な器具で入り口を広げられ、ペンライトを当てられて、小さな鏡を使って中の様子を見る検査を受けているのだろう。

 もし医者が女医ではなかったら、どれだけのストレスになるのだろうか。


 検査は無事に終わり、抗生物質と子宮収縮剤が処方された。

 検査費用、診察料、薬代は僕が出した。

 手術ではなかったので、出費は予定よりかなり少なかった。

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