第139話 すすり泣き
突然、明菜ちゃんの顔から
「お腹が痛い、ちょっと休ませて」
そう言った明菜ちゃんは、ベッドに横になり、敷きっぱなしの毛布を引っ張って身体に掛けた。
少し表情が歪んでいる。
激痛という感じではなく、重苦しい鈍痛のように思えた。
「何か欲しいものがあれば買ってくるけど」
腹痛の薬は服用済みらしいし、今僕にできることが見当たらないのでそう言ってみた。
少し考える様子を見せてから、明菜ちゃんは言った。
「じゃあわるいけど、停留所の近くにドラッグストアがあるから、防水シーツを買ってきてくれないかな」
「防水シーツ?」
その言葉は初めて聞くもので、思わず聞き返した。
「介護用品のコーナーへ行けば、大人用おむつの近くに置いてると思う。
今朝も出血が多かったから、ベッドの上に敷いておこうかと思って」
その説明で、どんなものかイメージが掴めた。
「うん、分かった、他に欲しいものある」
「特には。
もう少し一緒に居てくれるなら、智也さんの夕食になるもの何か買ってきたら」
それは失念していた。
「あ、そう言われてたね。
うん、一緒に買ってくるよ。
明菜ちゃんは、何か食べたいものある?」
「今は、お腹が痛いから、何も食べられないけど、治まったら買い置きのカップラーメンでも食べるから気にしないで」
「飲み物は?」
「お茶が良いかな」
「うん、じゃあ行って来る」
僕は明菜ちゃんから鍵を預かって、ドラッグストアに向かった。
買い物をする前に、店の前に設置されている共用トイレを利用した。
三〇分で戻って来たが、呼び鈴に返事が無いので、預かった鍵を使ってドアを開けた。
ベッドは空だった。
トイレかな?
僕は、そのまま勉強机の椅子に座って、戻って来るのを待っていた。
静かな部屋で、何もしないでいると、どこかからすすり泣く声が聞こえる。
室内のどこかから。
僕はトイレを探してみた。
狭い部屋だから、それはすぐ見つかった。
すすり泣く声は、その中からだった。
「どうしたの、大丈夫か、明菜ちゃん」
僕は落ち着かせようと思って、できるだけ優しい言い方を心掛けた。
「うん、ごめん、ちょっと待って」
掠れた声が返って来た。
「いや、ゆっくりでいいよ」
僕は意味不明なことを言って机に戻った。
数分すると、目を腫らした明菜ちゃんが、重い体を引きずるように戻って来て、何も言わずこちらに背を向けてベッドに横になった。
僕は椅子に座ったまま、明菜ちゃんの様子を静かに見守っていた。
何が起こったのか分からないが、何かが起きたとしか思えなかった。
少しすると、ベッドで向こうを向いたまま、明菜ちゃんが呟くように言葉を発した。
「私、ひどいことしちゃった、どうしよう」
「何があったの」
僕は静かに訊いた。
「腹痛がひどくなって、トイレに入ったら、出血と一緒に血の
それはまるで独り言みたいだった。
血の塊・・・
「え、それって」
「うん、流産しちゃった」
今度はわりとしっかりした話し方だった。
「明菜ちゃんの身体は大丈夫なの」
流産した母体が健康な状態なのか、治療が必要な状態なのか、僕には全く見当が付かなかった。
「うん、お腹は急に楽になったけど、、、」
「うん」
「血の塊の中に、とっても小さな赤ちゃんがちらっと見えた」
放心してるのか、全く抑揚のない声だ。
小さな赤ちゃん、その言葉に一瞬頭の中が白くなった。
僕は直後に事態を把握したが、口から出たのはたったの
「え」
「それを見た途端、私 怖くなっちゃって全部流しちゃったんだ」
抑揚の無い響きが続いていた。
掛けて上げるべき言葉が見つからない。
「う、うん」
「私、ひどいことしちゃった」
突然の激しい言い方は、自分を責めているせいだろう。
こういう言い方はどうかと思うが、明日にでも中絶手術を受けようとしていたのだから、それと比べたらひどくはない、だろう・・・
何年か前に、TVの何かの番組で、
その番組は、中絶手術というのはこういう残虐行為なのだから、こどもを産めない状況では必ず避妊しなくてはならないという
その残虐行為をしなくてはならない状況を作り出したのが、避妊をせずに行為を始めてしまった、ほかならぬ僕である筈なのに、中絶手術と比べたらひどくないだろうと考えてしまった。
この瞬間に、責任を明菜ちゃんに転嫁してしまった自分のずるさに気がついて
明菜ちゃんがひどいことしちゃったのではなく、僕こそがひどいことをさせちゃったのだ。
とは言え、もう今からこの状況は変えられない訳で、僕は苦し紛れにこんなことを言ってしまった。
「いや、でも、既に死んでいた筈だから」
少し間があった。
その時の様子を思い出しているのだろうか。
「動いては居なかったけど、トイレに流すなんて、そんなこと許されるのかな」
激しさは消えたが、それは自分自身に問い掛けているようだった。
僕が明菜ちゃんの立場だったら、気が動転してやはりトイレに流してしまっただろうか、それとも必死に取り上げて、水とタオルできれいにしてから葬ることができただろうか、いやそんなこと全く分からない。
その状況になった人間にしか分からない、いや、その状況になっても分からないかも知れない。その
「それは、少し落ち着いてから考えようよ」
僕がやっと言えたのはそんなことだった。
「うん」
「それより、病院へ行った方が良くないかな」
明菜ちゃんの身体を心配して言ったつもりだが、言ってから、「それより」という言葉はどうだったんだろうと思った。
「たぶん、明日でも大丈夫だと思う。
すっかり全部出ちゃった感じだから」
明菜ちゃんが、幾分落ち着きを取り戻した感じがした。
「じゃあ、体調が悪くなったら病院へ行くということで、タクシー会社調べておくから」
「うん」
ようやく、明菜ちゃんは、顔をこちらに向けた。
「どうしよう、私」
その不安そうな顔を見たら、一人にしておく訳には行かないと思った。
「あのさ、俺、今夜ここに泊まっても良いかな。
明日一番で病院へ付き添うからさ」
「一緒に居てくれるの」
「明菜ちゃんが嫌じゃなければ、一緒に居たい」
僕がそう言うと、やっと表情に明るさが戻って来た。
腹痛が治まったせいで、顔色も良くなっていた。
「ありがとう。
でも、敷布団が無いの。
毛布なら別のがあるけど」
済まなそうな顔。
でもそんなことくらいどうってことはない。
東京西部と比べたらこっちはまだ全然暖かい。
「それで良いよ、エアコンは夜中も付けっ放しにしてもらって良いかな」
「うん」
「暖房さえつけてもらえれば、毛布一枚でも俺は大丈夫だから」
「ありがとう、ごめんね」
声にも張りが出て来た。
「少し、眠った方が良いよ」
「今は、お話している方が休まる。
眠ろうとしても、悪いことばかり考えそうで怖い」
「うん、そうだね、寝付くまでお話でもしようか」
それから、僕たちは、あたりさわりのない、津田沼や稲毛に関係する話、おいしいお店の話など、とりとめなく話した。
三〇分もすると、すやすやと寝息が聞こえてきた。
僕は明菜ちゃんの寝顔を数十秒ほど見つめてから、先程買ってきた弁当に手を伸ばした。
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