第138話 明菜の気持ち、奈緒美の気持ち

 奈緒美のそんな重大な秘密を、他人に言える訳がない。


 と、同時に、奈緒美が最後に言った言葉を思い出した。

『後で、明菜さんの様子を教えてね。

 それから、私の体験したこと、明菜さんに話してもいいからね』

 それをきっぱりと否定したら、必要だったら話しても良いっていうことよ、と奈緒美は言ったのだ。



 僕が毒のある言葉にショックを受けたと、明菜ちゃんは思ったらしい。


「あ、ごめんなさい、ひどいこと言って」

 そう言った明菜ちゃんは、下を向いた。


「いや、良いんだ。

 渡瀬さんは、必要なら話しても良いって言ってくれたから」


 明菜ちゃんが、顔を上げて僕を見つめる。

「何のこと」


「渡瀬さんは中絶したことがあるんだ」


「そんなことまで話すんだ、あの人」

 明菜ちゃんは、唖然とした様子を見せた。

 そこに混じる敵意は、ほんの僅かだったように思う。


「いや、これは今日初めて聞いたんだ」


 僕の返事に、明菜ちゃんは、全く訳が分からないという表情を見せる。

「どういうことですか」


「なんでそんな告白を突然するのか、その時はただ僕もびっくりしただけだったけど」

 僕はそこで言葉を切った。

 この時、奈緒美が告白をした理由が、突然腑に落ちた。


「けどって?」


「つまり、妊娠して中絶しなければならない女性が、どういう気持でいるのか、男の僕に理解させようと思ってのことだと、今は思う」


「つまり、私のことを思ってということですか」

 半信半疑、そういう表情だ。


「そうだと思う。

 だから今は、明菜さんのことだけ考えてあげて欲しいって言われたんだ」


「ふうん」


 その「ふうん」に、どんな意味が込められているのか分からなかったが、僕は奈緒美の為に主張した。

「本当の気持ちだと思うよ。

 掻爬そうはだと、術前処置じゅつぜんしょちが必要になるから、それも大変だって言ってた」


「術前処置のことまで教えてくれたの」


「うん・・・

 掻爬手術の数時間前から、子宮頸管しきゅうけいかんを広げて柔らかくするために、海藻を加工した棒を何本も突っ込まれて、入れる時も痛いけど、渡瀬さんは、水分を吸って棒が膨らんで、無理やりに押し拡げられる時がもっと辛かった、と言ってた」


「随分生々しいことまで教えてくれたんだね」


 言葉だけ聞くと、奈緒美を非難しているようだが、その声の調子で、そうではないと僕には感じられた。


「その時の医院は、田舎の小さな医院だったらしくて、大きな近代的な設備のある病院へ行けば、術前処置無しの吸引法きゅういんほうで済んだかも知れないって、後で勉強して知ったらしい」


「私も術前処置のこと聞いて少し怖くなったんだ」

 明菜ちゃんは、素直にそう言った。


「吸引法なら、手術は一五分で終わるらしいよ」


「え、そんなに簡単なの」

 明菜ちゃんの顔に、少しだけ希望が見えた気がした。


「俺も経験したことないから、痛いかどうかまでは分からないけど」


「そんなの、当たり前じゃない、変なこと言うのね、智也さん」

 明菜ちゃんは、そう言って笑った。


 それは、灯火ファンの集いに参加した日から、明菜ちゃんが消し去った笑顔の復活だった。


「智也さんと渡瀬さんて、不思議な関係ね」

 唐突に、明菜ちゃんはそんなことを口にした。

 しかもいつの間にか、明菜ちゃんの僕に対する呼称は、智也さんに戻っていた。


「え、どうして」


「最初に見た時、そして灯火ファンの集いで会った時の渡瀬さんと、今日、智也さんから聞いた渡瀬さんはまるで別人みたい。

 智也さんも他人ひとの気持ちがよく分かる人になったみたいだし」


 明菜ちゃんは、そんなことを言ってくれた。

 確かに、奈緒美は変わって来てるし、僕も少しは良い方に変わったという自覚はあった。


「僕はそんなに変わっただろうか」


「前から私には優しかったけど、誰にでもじゃなかったでしょ」


「嫌いな人には優しくなれないし、今でもそれは同じつもりだけど」


「そうなのかな、でも私はそう思うの」


「今は弱ってるから、そう思ってるだけだよ、きっと。

 でも、明菜ちゃんが疾走しっそうしてから、色々なことがあって、母には優しくできるようになったし、父とも本当の意味で和解できた。

 人の気持を理解できるとは言わないけど、理解したいと思えるようにはなったかな」


 明菜ちゃんにめられて、謙遜しようと思いながらも、自己肯定してしまったのが少し恥ずかしい。


「あの、私は疾走した訳じゃないよ。

 まあそれは良いけど、とにかく智也さんは変わったわ」


 顔色は相変わらず悪いが、明菜ちゃんは笑顔を取り戻してくれた。

 僕はこの後もできるだけのことはしたいと思っている。


「そうかな」


 明菜ちゃんは、僕の目を覗き込むようにしている。

「ちょっときついことを訊いても良い?」


「え、少し怖いな」


「渡瀬さんから、中絶経験のことを告白されて、智也さんはどう思ったの」


「え、それは、、、やっぱり驚いたよ」

 あの時はマジでびっくりした。


「渡瀬さんのことがいやにならなかったの」


「うん、ショックはあったけど、昔のことだし、交際していた相手のことも聞いたから納得できたんだ。

 遊びでうっかり妊娠した訳じゃなくて、その頃の渡瀬さんは、相手のことを信じていたらしいしね」


 僕は自分が妊娠させた相手を前にして、こんなことを話しているがどうなんだろう。

 僕も、遊びで明菜ちゃんをうっかり妊娠させた訳じゃないつもりだけど、明菜ちゃんは今どう思っているんだろう。


「それでも、いやになる人はいると思うけど」


「嫌にはならなかったね、全くそういうことはないよ」

 これはウソじゃなかった。


 自分でも不思議なほど、奈緒美の告白をすっと受け入れることができたのだ。

 今でもその人に心を残しているなら、話は別だが、奈緒美にそんな気がないことは明らかなので、遠い昔のことと割り切ることができている。


 明菜ちゃんは、一つため息を吐いた。

 それは恐らく自分の両親のことを思ってのことだろう。

 何故なら、明菜ちゃんはこう言ったからだ。

「そうなんだ・・・

 私の両親はお互いをずっと傷つけ合っていたから、そういう話を聞くと少しほっとする」


「そうだったんだ」

 それしか言えなかった。


「うん、でも私の両親のことはもう話さないよ。

 だって私たちの関係はもう終わるんだから」


 清々すがすがしい明菜ちゃんの表情を見ると、僕との仲が本当に終了するのだと思えた。


「うん、そうだね」


「私はもう大丈夫。

 智也さん、お互い納得してお別れしましょう」


「う、うん」

 僕は、自分の罪を感じて、少し曖昧な返事をした。

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