第137話 中絶の話

「一二週を過ぎると大変らしいね」


 明菜ちゃんは、僕の言葉に相当驚いたようだ。

「え、何でそんなこと知ってるの」


「あ、いや」

 僕は言葉をにごした。


「誰かに話したの、渡瀬さんに?」

 明菜ちゃんに緊張感が戻って来た。


「あ、いや」


相模原市さがみはらしの橋本駅からって言ってたけど、だったら渡瀬さんの多摩美術大学とは全然違う所か」

 明菜ちゃんは、独り言のようにそう言って、緊張感を解いた。


 でもそれは明菜ちゃんの勘違いなので、僕は訂正しなければならなかった。

「いや、橋本駅と八王子駅はわりと近いんだよ」


 ぼくの言葉で、再び明菜ちゃんの言葉が固くなった。

「もしかしたら今日、西田さん、彼女の大学に行ってたんだ。

 電話した時、隣に渡瀬さんが居たの」


「うん」


「ひどい! 私が妊娠してるかもしれないと話したの?」

 その声は大きくはなかったが、怒気が感じられた。


「ごめん、流れ的に話さなくちゃいけない感じになっちゃって」


「あの人にだけは知られたくなかった」

 明菜ちゃんは、ほとんど聞こえない声を出した。


「ごめん」

 僕はそれしか言えなかった。


 しばらくの間、空間は静寂に支配されてしまった。

 僕も明菜ちゃんも、顔は向き合っていたが、視線は下を向いていた。


 突然、明菜ちゃんが吹っ切れた言い方をした。

「もう 関係ないか、あの人も、西田さんも」


 吹っ切れているというよりは、突き放した言葉だった。


「いや、俺は関係あるよ、当事者だし」

 僕はそう抗議した。


「当事者って、あまりいい響きじゃないよね」

 明菜ちゃんはそう言って、僕を軽くにらんだ。


 そう指摘されてみると、確かに僕は言葉の選択を間違っていた。


「ごめんね、俺、無神経で」

 絞り出すようにそう言った。


「うん、分かった。

 ついムキになっちゃって。

 同意書も書いてもらったし、手術代も出してもらえるんだし、感謝してます」

 明菜ちゃんは、今度こそ吹っ切れたのか、そう言って頭を軽く下げた。


 僕は明菜ちゃんにそんな思いをさせる為にここに来た訳じゃない。

 もう関係ないか、という言葉を否定したかっただけだった。

 原因は僕にあるが、明菜ちゃんを支えてやりたいという気持ちに偽りはないつもりだ。


「そんな言い方しないでくれ」

 うつむいて僕は小さな声を返した。


「初期中絶できれば、すぐ今の仕事もできるだろうし、私は大丈夫だから」


 ただの空元気だろうとは思ったが、明菜ちゃんが今どこかで働いていることが分かった。


「新しい仕事が見つかったんだね」


 こんな言葉の方が、明菜ちゃんには心地良かったらしい。


「うん、もしかしたら正社員にしてもらえそうなんだ」


「良かったね」


「平日は休む訳に行かないから、今日同意書もらえて良かったよ。

 本当は今日、中絶手術しようかと思ってたけど、体調悪いし、私が行ってる病院は土日もやってるから明日早く行こうかな。

 来週だとぎりぎりだし」


 言ってることは前向きそうだが、やはり空元気にしか感じられない。


「じゃあ、明日は付き添うから」


「うん、ありがとう。

 それで本当にお別れってことにしましょう」

 さっぱりした感じでそう言われた。


 僕は恐る恐る訊いてみる。

「あの、手術の方法は決まってるの」


「なんで、そんなこと訊くの」

 意外な質問だったらしい。


「いや、吸引法なら少しは安全かなって思ってさ」


 僕が口にした中絶手術の方法に、明菜ちゃんは少なからず驚いた様子だった。


 少し間を置いてから明菜ちゃんは言った。

「私の病院は、安全のため掻爬そうは手術にしましょうって言ってたけど」


 安全のため、その言葉は納得が行かなかった。

「どんな病院なの」


「西船橋の小さな医院だけど」

 僕の質問の意図を計れないような表情だったが、明菜ちゃんは素直に答えてくれた。


「大きな病院だったら、初期中絶は吸引法でできる場合が多いって聞いたけど」


「それも渡瀬さんから訊いたの」


「うん、ごめん」


 明菜ちゃんは少し意地悪そうな顔で、僕にこう訊いた。

「なんでそんなに、渡瀬さんは中絶に詳しいの」


「なんでって、いや」


「もしかしたら、渡瀬さんも中絶したことがあるんじゃないの」


 明菜ちゃんに潜む、小さな悪魔が顔を出したように思えた。

 僕は沈黙した。

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