第134話 明菜への電話1

 僕は最後の質問を切り出した。

「ええと、手首に傷を付けたりは」


「ああ、それね。

 一度だけ浴槽の中で剃刀かみそりを当てたことがあるけど、湯が赤く染まって行くのを見て、怖くなって深くは切らなかった」


 理由はあえて訊かなかった。


「その一度だけなんだね」


「うん、傷はすぐ目立たなくなったけど、気になってリストバンドを使ってた時期がわりと長かったんだ」


「それなら、良かった。

 色々と言いたくない話をさせてしまって、本当に悪かった。

 ごめんね」


「良いの。

 吹っ切れたから話せたんだし」

 奈緒美はいかにもさばさばとした感じに見えた。


「小雪さんが、その傷のことを心配してたんだよ。

 奈緒は、今も昔のトラウマを抱えていて、そのことを話してくれそうにないって」


「そうなんだ、じゃあ次に会った時には、小雪にも告白しておくよ」


「大丈夫か」


「大丈夫だよ。

 それより、早く明菜さんに電話してあげなくちゃ。

 中絶の費用は智也が持ってあげた方が良いよ。

 多分十万円くらいは掛かる筈だから」


「そのくらいなら大丈夫だよ」


 お金で済ます気はないが、経済的困難は別の苦痛を起こす可能性があるだろう。


「手術のこと、安心させて上げないとね。

 同意書を渡すだけじゃなくて、手術に付き添って上げられるなら、そうした方が良いよ。 

 できる?」


 この奈緒美の優しさ、まるで天使だな。

 人によったら、僕はののしられてもおかしくないケースなのに。

 その優しさに、僕はつい甘えてしまう。


「安心させることができるかどうか自信ないけど、明菜ちゃんが同意してくれるなら、俺は付き添ってやりたい。

 でも、電話する前に彼女の不安な気持ちが、少しだけでも分かったような気がする。

 これも奈緒美のおかげだ」


 奈緒美はそこで、トレーの上を片付けだした。


「後で、明菜さんの様子を教えてね。

 それから、私の体験したこと、明菜さんに話してもいいからね」


 奈緒美は一体どうして、そんなことを言うのだろうか。


「うん、様子は後で連絡する。

 でも奈緒美の体験のことなんて言えるわけないだろ」


「もし必要だったら話しても良いよってこと。

 私、もう展示室に戻るから。

 私の作品、見なくてもいいから、今は明菜さんのことだけ考えて」


「そうさせてもらうよ。

 悪いね」


「じゃあ」


 奈緒美は二人分のトレーを重ねて、カウンター横の下膳さげぜん棚に持って行った。

 僕は手を軽く振って席を立つ。



 奈緒美と別れ、急坂を降りてバスに乗り、僕は橋本駅に向かった。



 バスを降りると、外は風が吹いて来て少し寒かった。

 駅前で、どこか長電話ができそうな所を探してみる。

 喫茶店では無理だし、どこか、どこだと探す内、カラオケの看板が目に止まった。

 これから電話する暗い内容とは、相反あいはんする娯楽施設だが、防音個室という点で理にかなっていた。


 土曜日正午近くのカラオケ店は、そこそこ人が入っているらしく、空いてる部屋は三人用の狭い部屋で、制限時間は二時間と告げられた。

 一人カラオケも珍しくなくなって来ているし、金さえ払えば店も文句は言わない。

 寧ろ心配は、電話の最中に店内の音楽や、隣の部屋からの歌声が聞こえてしまうこと。

 明菜ちゃんは気を悪くしそうだが、それは事情を話して最初に謝っておこう。


 部屋に通された僕は、すぐに携帯を取り出して、着信履歴から、一番上に表示された中島明菜なかしまあきなを選んで発信ボタンを押した。

 コール三回、四回、五回目で繋がった。


「西田です、電話、かなり遅くなってごめん。

 それに人を気にせず電話できる所探してたら、カラオケ店しか思いつかなくて、少し騒がしいけど、ここなら何でも話せるから了解して下さい」


「ああ、それで、何の音かと思った。

 突然連絡したのに電話くれてありがとう」


 暗い口調は変わらないが、さっきの電話と比べたらずっと会話らしくなっていた。


「今どこにいるの」

 状況確認の第一歩は、居場所だろう。

 許されるなら、駆けつけたい気持ちがあったからだ。


「朝からお腹が痛くて、自室で休んでた所」


 精神的ストレスのせいなのか、腹痛の薬が必要だろうか、食中しょくあたりなら医者へ連れていくべきかも知れない。

 妊娠で腹痛ということも、普通にあるのかも知れない、僕が知らないだけで。

 それに、言いにくいことなら、こちらから訊いてあげるべきだろう。


「明菜ちゃん、もしかしたら妊娠してるんじゃないの」


「え、ああ、うん、そうなの」

 きょを突かれたように、口ごもりながら答えてくれた。


「僕の子だよね」

 それ以外考えられないのに、この訊き方はどうなのかと、言ってから思ったが。


「う、うん、そうなの」

 寧ろ、ほっとしたような声が返って来た。


「同意書というのは、中絶のための書類でしょ」

 さっきまでは全然知らなかったのに、最初から分かっていたように話した。


「え、うん、よくわかったね」


 明菜ちゃんの口ぶりは、僕の言葉に少し驚いている様子で、しかも少し安心したような感じを受けた。

 明菜ちゃんに、みずからその説明をさせなくて良かった。


「必要なら僕はすぐ署名するし、明菜ちゃんが迷っているなら二人で話をしよう。

 何も一人で苦しむことないからね」


「やさしい、んだね」

 独り言ひとりごとのような響きだった。

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