第112話 採血と、◯◯
僕の
小雪はシリンジの裏側を、右手人差し指と中指の腹で、表側を右手親指でつまんで、残る薬指と小指を、皮膚を引いている左親指の先に置き、そこを支点にして、穿刺目標点との角度を十五度ほどに調整して、形を決めたらそのまま滑らせるように目標点に進める。
長さ四cm近い針先は、シリンジの先端部の中心より下側に取り付けられている。
その針先が目標付近の皮膚に迫ってくる。
皮膚の痛点よりも、心の痛点が先に刺激されて、思わず目を逸らしてしまう。
「よく見てなさい。
この後は交替して、あなたにも私の採血をしてもらうんだから」
「僕は採血される側だけでいいです」
「それじゃ、今日来た意味が無いでしょ」
「そ、そうだな」
「よく見て。
シリンジの目盛りが打たれた、この面を上にすると、べベル、つまり針の斜めの切り口が、上になるように取り付けてあるから。
十五度から二十度位の角度で、目標点に真っ直ぐ入れて」
「はい」
注射針が皮膚に突き刺さった。
意外なことに、痛みはあまり感じなかった。
怖さで感覚が鈍っているのか、それとも小雪の技術が優れているのか。
「針先が皮膚を突き破った時、ぷつりという感触が伝わって来る。
さらに進めると、もう一度ぷつんと感触があるわ。
それが血管壁を突き破って、針先が入った証拠なの。
その感触を得られない時は、血管が中で逃げてるから、必ず針を
穿刺部位は、針を刺し入れた箇所と云う意味ね。
分ったかしら。
じゃあ行くわよ。
ほら、ぷつん」
なるほど。
でもそのまま進めたら、血管の反対側まで、針が突き抜けそうな気がしてぞくりとした。
その疑問が口を突いて出た。
「針が、血管の裏側まで突き抜けたりしないか」
答える前に小雪は、どういう訳か口を突き出すように
「そのままの角度で進めたら、突き抜けるんじゃない。
ほら見て。
シリンジの先に血の逆流が見えるでしょ」
「うん」
「血管に針が侵入して、あんたの血が入って来たのよ。
ここで角度を浅くするの。
針先を寝かして、針の三分の一位刺し入れて。
この後は、ここからゆっくりピストンを引くんだけど……」
小雪はそこで言葉を切った。
その目が恐ろしいほど冷たく輝いた。
何か企んでいるなと思った瞬間、僕の全身に悪寒が走った。
「ピストンを十分に戻してなかったの」
「何?」
「シリンジの中に、少し空気が残ってるでしょ」
シリンジ内部先端近くまで、押し付けられている筈の、黒いゴム(後にガスケットと言う部品名を知った)の先に、小さな空間があり、逆流した血は、シリンジの底に溜まって見えた。
吸い寄せられる様に見ていると、その小さな隙間がさらに小さくなった。
この女、一体何をした!
「まさかおまえ、今俺に空気を注射したんじゃないよな」
「空気を血管に入れたら・・・どうなるか知ってる?」
「そんなことしたら、血液の流れが止まって……」
僕は思わず腕を引こうとした。
「慌てないで。
今空気を抜くから」
「抜けるのか」
「うまく行けばね」
「うまく行かない時は、一体どうなるんだよ」
僕の声は、明らかに
言いようの無い恐怖に襲われた。
この女の本性は悪魔に違いない。
「大丈夫よ」
「本当か」
嘘を見極めようと、悪魔の顔を観た。
口許には笑みが溢れている。
思惑通り、追い詰められて、うろたえた僕が、この魔性の女を十分に満足させてしまったようだ。
「一CCも注入したら危険だけどね。
私が入れたのは血管の長さにして二センチか三センチだもん」
「それがどの位の量か、素人の俺にはさっぱり分らないよ」
「問題無い位、ごく微量ってことよ」
「安心して良いのか。
でもどうしてこんなことをするんだ」
「あんた、少しは覚悟して、私の所へ来たんじゃないの」
「こんなことをされるとは、思ってなかった」
「これ位されても当然でしょ」
「何故だ」
「あんたは、私と奈緒の仲を引き裂こうとしてるんでしょ」
「別にそんなつもりはない。
ただ確認したかっただけだ」
「何を確認したいのさ」
「それは……」
「やっぱりね」
僕は黙り込んでしまった。
「まあ、いいわ。
血の儀式を続けようよ」
小雪は、ピストンをゆっくりと引き始めた。
僕の濃い血液が、シリンジに満たされて行く。
血の気が引く感じと、ほっとする気持ちがミックスして変な感じだ。
気持ちが悪い……吐きそうだ。
シリンジに半分ほど血が溜まった時、小雪は言った。
「気分悪そうね。
これ位で勘弁してあげようか」
「早くその注射器を抜いてくれよ」
「良いのね」
小雪は、笑ってシリンジをすっと抜いた。
その途端、鮮血が水鉄砲の様な勢いで噴出した。
呆然とした僕は、血の行方を目で追った。
小雪が体を右に開き、寸前で噴血をかわしているのが見えた。
小雪のいた、裏側のビニールカーテンが血飛沫で赤く染まって行く。
すっと血の気が引いて行く気がするが、これくらいじゃ死なないと、冷静に判断している自分に気がついた。
吹き出す血の勢いはすぐ弱くなり、ちょろちょろになった。
小雪は僕の左腕に手を伸ばして、ワンタッチ駆血帯のリリースボタンを押した。
出血は、さらに弱まり染み出す程度になった。
パッケージを破って、小雪は分厚いガーゼパッドの付いた、大きなテープを出血部に貼り付けた。
「圧迫止血テープよ。
そのまま五分位じっとしていてね。
静脈だからその位で止まると思う」
あまりにも手際が良過ぎる。
「君は、随分酷いことをするんだな」
小雪は採血したシリンジの針先を、管立ての採血スピッツのゴムキャップに刺し通し、ピストンをゆっくりと押し込み、僕の血液を注入しながら答えた。
「早く抜いてくれって言うから、その通りにしただけよ」
「どうして、こんなことになったんだ」
ビニールカーテンを伝って、僕の赤い血がぽたぽたと床に流れ落ちている。
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