第113話 鬱血と痣

 小雪は、赤い血が半分近く入った採血管を、上下にゆっくりとひっくり返す作業を繰り返している。

 とても綺麗な紅い色……


(これが、あの時奈緒美の言っていた、血液に抗凝固剤を混ぜる転倒混和てんとうこんわか)


 採血スピッツのシールに、僕の名前をメモしてから、漸く小雪は口を開いた。


「駆血帯を先に外さなきゃいけなかったのよ。

 ごめんね、手順を間違えちゃった」


 溜息ためいきが出た。

 小雪の気は、これで済んだのだろうか。

 僕は、今すぐここを出て行くべきか。

 いや、もう少しだけ奈緒美の為に……


「覚悟ができてるみたいね」


 答える気力も無い。


 小雪は、使用済みのシリンジを、二リットル程の、プラスティック容器に捨てた。

 表示によると、その容器は医療用廃棄ボトルで、シリンジもプラスティックの使い捨てタイプらしい。


 次いで小雪は、飛び散った血を拭き取り始めた。

 血の始末の仕方をよく知っている。

 そう思えた。

 僕の出血が止まる頃には、彼女の清掃作業も終わっていた。


 丁寧な手洗いと消毒を済ませ、小雪は同じサイズのシリンジに注射針を取り付け、金属トレイに、他の小物類と一緒に並べた。


「もうすっかり止まったみたいね」


「お陰様でね」


 僕は言い方に、精一杯の皮肉を込めた。

 小雪は嬉しそうに笑った。

 別に喜ばそうというつもりなど、これっぽっちも無かったが。


「今度は私の採血をしてもらうわ。

 手順は一つ一つ教えるから。

 私は血の噴水なんか見せたくないし。

 それとも、さっきの仕返しをしたいかしら。

 あ、採血の時は、わずらわしいでしょうけど手袋してね」


 怪しい目付きだ。

 もちろん、仕返しなど考えてもいなかった。

 それ位なら、彼女を突き飛ばして今すぐここを出て行くさ。


 逐一ちくいち、小雪の指示とアドバイスを受けながら、僕は彼女の採血を進めた。

 注射針を刺し入れる時は、これまで経験したことのない、不思議な興奮を覚えた。

 一つ目のぷつんという感触でぞくりしたが、二つ目の感触ではサディスティックな気分になって、小雪の顔を観てやった。


 嫌悪感? 恐らくそうだろう。

 目を閉じたり、逸らしたりはしなかったが、明らかに小雪は不快感を示していた。


「痛いのか」


 シリンジの先に小雪の血が入って来た。


「痛くないよ。

 そこでシリンジを少し寝かして。

 そう。

 そのまま三分の一まで針を差し込んで」


 指示された通り針先を進め、もう一度小雪を見詰めた。


「君の指示の仕方は完璧だ。

 ど素人の僕にさえ、こんなにもすんなりと注射させることができる。

 それなのに何故、奈緒美の腕にあんな鬱血うっけつができたんだ。

 あれは故意に失敗したのか」


 小雪の嫌悪感は、大きくなったようだ。


「素人なんだから、採血が終るまでは集中してよ」


 僕は口を閉じた。


 小雪の的確なアドバイスに従って、ゆっくりとピストンを引き続け、シリンジの20mlの目盛り近くまで血が溜まった。

 これが魔性の女の血液か。

 僕のと同じ色をしているのが、どうしても不思議だ。


「それ位で十分ね。

 消毒綿を針先の上に被せて、駆血帯のリリースボタン、そう、それを押してベルトを緩める。

 そのままの角度を保って、一定の速度でシリンジを抜いて。

 そこで消毒綿を押さえて。

 ありがとう。

 二番目の黒キャップの採血スピッツに、シリンジの針を刺し込んで、その血液を全部注入してから、空のシリンジは、トレイに戻しておいてくれる。

 血が付着してないようなら、手袋をとってそこに捨てて。

 一応手の消毒をしておいた方が良いよ」


 注射箇所に、圧迫止血テープを貼りつけ、小雪はフリーになった手で、僕が注入し終えたばかりの採血管を手に取った。

 ガラス管内を移動する小雪の血液と、見詰めるその目が紅く輝いて見えた。


「上手にできたね。

 筋が良いわ」


「君の指示の仕方が適切だったからさ」


「さっきの質問だけど。

 あの日、奈緒は私が穿刺せんしする時、とても嫌な顔をしたの。

 奈緒のあんな表情、初めて見た」


「さっき君が見せた、不快感と同じじゃないか」


 小雪は、横顔を見せたまま話し続ける。


「どんな顔してたの、私」


 僕は、小雪の表情を思い出しながら答えた。


「嫌いな男とセックスしたら、あんな顔になるんじゃないか」


「智也君も、かなり意地悪だね」


「素直なだけさ」


「あの時、二度目のぷつりと云う感触で、恍惚こうこつの表情を予想しながら、奈緒の顔を観た。

 その時私は冷静さを失ってしまった」


「二度目のは、血管に針先が入った感触だよね」


「そうよ。

 私はシリンジを寝かすことを忘れて、そのまま進めた。

 三度目の感触があった」


「血管の反対側まで突き抜けたのか!」


「そういうことよ」


「内出血して鬱血したのか」


「ちょっと、あんたの言葉の使い方が好い加減過ぎて、私すごくいらいらするんだけど。

 さっきは、

『何故、奈緒美の腕にあんな鬱血ができたんだ』

と間違った癖に、今度は偶然にしても言葉を正しく使ってる」


「何のことだ?

 話をごまかすなよ」


「うっけつのことよ。

 鬱血は、局所に静脈血が増している状態。

 つまり進行中の症状を言うの。

 静脈血管を突き破って内出血したんだから、あの時は確かに鬱血したけれど、それは直ぐ止まった筈。

 出血量が多かったから、暫くは痣になって残るでしょうね。

 でもそれはあくまでも内出血の痕よ。

 作家志望だったら、言葉を正しく使いなさいよね。

 意味が分らなかったら、辞書引いて調べなさいよ。

 鬱血、鬱血って笑わせないでよ、アマチュア作家さん。

 奈緒美のは一次的な内出血なの。

 もう治ってるのよ!」

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