第111話 採血の準備
小さな試験管の口に、軟質のプラスチックと、ゴムでできたキャップが付属している。
そのガラス管を、採血管あるいは採血スピッツと云い、注射器のことは奈緒美からも聞いていたが、シリンジと云うそうだ。
小雪は一旦手を洗いに行き、戻ってから卓上消毒剤をワンプッシュして、両手を擦り合わせた。
小雪の目がきらりと光り、広げた
次いで、たくさんある注射針ケースの中から一つを取り出し、ケースを開封し、その注射針をシリンジに取り付け、金属トレイに載せた。
それを見ているだけで、僕の鼓動は早くなって来た。
金属トレイにはその外、極薄のゴム手袋や小さな消毒綿パッケージなど、採血用セットと思われるもの一揃いが載せられた。
ダイニングの一角に目を遣ると、使用目的の分らない、巻かれたビニール製カーテンが吊り下がっていて、その向こう側にも何かの一部が見えている。
「これが気になる?」
「何なの」
「ここは処置室代わりになるのよ」
小雪はビニールカーテンの下がっている天井部分を指差し、その指先で円周を描いた。
彼女がなぞった通り、カーテンレールが、ダイニングテーブルと椅子を取り巻いている。
ダイニングテーブルは、透明ビニールのテーブル掛けで覆われていたし、床にも透明ゴムシートの様なものが敷かれていた。
壁にはアーム式の可動照明設備があり、どれも簡単な改造ばかりだが、確かに処置室としての機能を有している。
小雪はバッグから、手術着のようなものを取り出して、手早く身に着けた。
念の
これも血の儀式の、演出の一部なのだろうか。
次いで小雪は、ビニールカーテンを引き、ダイニングの一部を処置室に変身させた。
奈緒美も、ここで血の儀式を行ったのか。
僕は思わず生唾を飲み込んだ。
小さな音が響いたかも知れない。
小雪が意地悪く笑ったように見えた。
小雪は僕に背を向けると、ビニールカーテンの裏に立て掛けられていた、何かを引き出した。
それは小さくても重量感のある、折り畳み式テーブルだった。
慣れた手付きで、彼女はそれを組み立て、ダイニングテーブルの横に並べる。
次に小雪は、わっかになった平ゴムのベルトを手に取り、僕の元へやって来た。
命じられるままに、その場に立ち上がった。
すると彼女は、僕の左手からベルトを通し、肘の上まで引き上げて、バックル部分を押さえ、軽くストラップを引いた。
圧迫感で気分が悪くなる。
「これは何」
「ワンタッチ式
「何の為に使うもの」
あの告白の時、奈緒美から、採血の様子は一通り聞いたつもりだったが、不安な気持ちを打ち消す為に質問を繰り返した。
僕には、血液を採られることに対し、原始的恐怖心があって、実は献血にも一度として協力したことがない。
採血検査の記憶さえ無かった。
小雪の「余計なこと訊かないで」と云う返事が予想されたが、彼女は、僕の恐怖心を見出して余程嬉しかったに違いない。
目の前の女は確かに小さく笑った。
「採血や静脈内注射をする時、一時的に、静脈血の流れをこれで抑えるの」
「どうして」
「静脈血管を
他にも目的はあるけれどね」
「怒張って」
「あんた、びびってるの」
「血を採られることは怖い。
注射も大嫌いだ」
「子どもね」
小雪は嬉しそうに笑った。
「大人になっても、怖いものは怖いんだ」
「はい、はい。
怒張って云うのは、血管を膨らませることよ。
血管の先の方を押さえると、行き場を失った血液で、圧力が上がって血管が膨らむの。
注射する血管が太くなって刺し易いでしょ」
小雪は、バックルを操作して、駆血帯を少し
「椅子持って来て。
ここに腰掛けて」
言われた通り僕は、椅子をそこまで移動し、低く奥行きの短いテーブルの前に座り直した。
小雪は、そこに直方体の枕の様なものをセットし、手の平を上にして、『採血枕』に
指示に素直に従う患者を、高みから見下ろして、彼女はまるで、看護師長か女医か女王様の様に見えた。
「随分本格的なんだ」
「姉さんは練習熱心だからね」
「君は、注射の練習台にさせられたらしいね」
「そうよ。お互いにね」
小さな反撃のつもりだったが、対面に腰掛けた小雪は平然と答え、僕の手首を手元に
もう少し手前に腰掛けてと指示され、そのようにすると、手首と肘と肩まで左腕が一直線になり、しかも楽な姿勢だった。
小雪は手を伸ばして、ワンタッチ式駆血帯のストラップを少し引いた。
あの圧迫感が帰って来たが、さっきよりはずっと落ち着いていることが、自分でも分った。
「親指を中に入れて握りしめて」
小雪は薄手のゴム手袋を嵌めて、小袋を開き、中からアルコールで湿った消毒綿を取り出す。
僕の左手首を左手で押さえ、肘の内側の前腕部分に消毒綿を当て、中心部から外周へと、円を描くようにして
アルコールが冷やっこい。
拭かれた箇所も冷たいが、背筋まで冷えて来た。
「その太い注射器一杯まで採血するのか」
「まだ怖いの」
「怖いさ」
「血液検査なら、20mlのシリンジにたっぷり採る所だけど、それほど怖いなら半分でも良いのよ」
「そうして下さい」
「怖がりさんね」
小雪は消毒箇所より、手首に近い箇所の皮膚を、左手親指で引っ張った。
「血管を固定する為に皮膚を引くの。
血管に穿刺(せんし)するまで引き続けるのよ。
血管が逃げると巧く行かないから」
奈緒美のリアルな告白を思い出したが、聴くのと実践とでは大違いだ。
小雪の注射テクニックが抜群だと言った、奈緒美の言葉を今は信じるしかない。
大袈裟かも知れないが、彼女に命を預けるような気分さえして来る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます