第109話 小雪を訪ねる

「まさか!」


「麻薬とかには一切関係ありません。

 それは確かです。

 坂野さんの姉が看護師をしているらしくて、恐らく注射の練習みたいなものだとは思うのですが。

 でもそうした説明が何も無いから、中々納得が行かないんです」


 奈緒美から栗田に連絡がないと聞いてから、自分でも驚くほど大胆になっていた。

 彼を信頼できる人間だとは思っているが、淫靡いんびな響きのある、血の儀式についてはできる限り秘密を守りたい。


「ふうむ。

 坂野の姉が看護師だという話なら、私も聞いたことがある。

 渡瀬が君に対して、どうして説明できないのか、ちょっと気になる所だな」


「坂野さんから、奈緒美さんとのことを何とか聞き出してもらえませんか。

 いやそれよりも僕が、直接彼女に訊くべきだろうな。

 ああ坂野さんの連絡先さえ分れば……」


「ああ、ちょっと待ってくれ」


 栗田は、胸ポケットから手帳を取り出し、ページを何枚か捲り、メモ紙に番号を写し取った。


「ここに電話してみてくれ。

 坂野の携帯番号だ」


「誰から番号を訊いたと言えば良いでしょうか」


「とりあえず渡瀬から直接訊いたか、渡瀬の携帯を、勝手に見たことにしておいてくれ。

 今は個人情報保護とか、色々うるさいからな」


 これで訪問の目的は達成だ。

 メモ紙をポケットにしまった時、栗田が言った。


「さっき君が、何故坂野小雪のことを知らない振りしたのか、今は訊かないでおこう。

 渡瀬のことは色々と大変だと思うが、彼女の為に頑張ってくれ」


 栗田のことを、少し甘く見過ぎていたようだ。

 彼は、悩み続ける奈緒美のことを長い間指導して来た。

 注射痕と云う材料から、血の儀式やその目的を、彼が洞察したとしても不思議は無い。

 何しろ彼は、僕にとっては未知の存在である坂野小雪のことも、彼女が高校一年生の時から、八年もの間見続けて来たのだ。


 最後に一つだけいいかと、栗田は僕の目を見た。


「君が慎重で、考え深い人間だと私は信じている。

 実は坂野には、一風変わった所があるんだ。

 彼女と話をする時、何か気にさわることを言われても、決して短気を起こすな。

 彼女の真意がどこにあるか、冷静に推し量りたまえ。

 坂野のことも、君ならきっと理解できる筈だ」




 その日の夕方、僕はあるアパートを目指して、葛飾区新小岩の街を歩いていた。

 乗って来たバイクは、今しがたそこのコンビニに駐車して来た。

 ここからはもう近い筈だ。



 これかな。

 そう思って見上げたのは、二階建ての小じゃれた外観のアパートだ。

 外壁は薄紫で聞いていた通りだが、建物にアパート名は見つからなかった。

 確認しようと携帯を取り出した途端、『オートマモード』の着歌が鳴った。


 ディスプレーには、小雪の名前が表示されている。


「割と早かったじゃない」


「僕が見えるのか」


 ブルーのライダージャケットを着て行くと電話しておいたから、恐らく窓から僕の姿を確認したのだろう。


「二階の一番奥だから、早く上がってらっしゃい」


「一人?」


「姉は遅くならないと帰って来ない。

 だからって安心しないでよ。

 部屋には非常ベルもあるんだからね」


「何もしやしないよ」


「念の為よ。

 奈緒の恋人だとしても、私はあんたを知らないし」


「僕は獰猛な狼じゃない。

 どちらかと言えば草食の羊さ」


「危ないヤツに限って、似たようなことを言うんだよね」


「じゃあ、近くのファミレスに場所を変更しよう。

 その方が誤解が無くて良いと思うしね」


「ダメよ」


「どうして」


「質問タイムには早過ぎるんじゃない。

 早く上がって来て」


「OK」


 実はほっとしていた。

 一人暮らしの、それも見知らぬ女の部屋を探し歩くなんて、例え相手から指定されたこととは言え、かなり後ろめたい。

 正確に言えば、ここに住んでいるのは小雪の姉だ。

 大学まで近いからか、小雪はこの部屋によく泊めてもらうらしい。

 妹が合鍵を持っていると言う事は、姉には恐らく恋人の様な存在が無いのだろう。

 まあこの際、そんなことは関係の無い話だが。


 一番奥の二〇八号室まで、覚悟を決めながら僕はゆっくりと歩んだ。

 一つ手前の部屋を通過する時、奥のドアが開き、小雪と思われる女が顔を見せた。

 奈緒美より幾らか小柄な女だ。


「早く入って」


「お邪魔します」


 リビングとダイニングが、ワンルームになっているせいか広々としている。

 照明もかなり明るい。

 下町のアパートと言っても、賃貸マンション位には見える部屋だ。


 中へ入ると、小雪は、奥の窓際にあるベージュ色のソファを指差した。

 僕はダイニングスペースを通り抜け、そこへ腰掛けた。

 小雪はダイニングチェアを取って来て、僕の真ん前に置いた。

 ミニスカートの若い女に、真正面に腰掛けられて目のやり場に困った。

 始めは、男の反応をおもしろがっているのかと思ったが、どうやらそれは思い違いのようだ。

 訪ねて来た親友の恋人を、よく観察してやろうというのが正解に近いだろう。


 上から下までめる様に観られて、気まずさをはぐらかす様に、僕は口を開いた。

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