第14章 明菜の妊娠
第107話 妊娠
この日の朝、中島明菜は、生理の遅れに苛立ちを隠せないでいた。
今日こそ産婦人科へ行って検査を受けるべきだろうかと。
普段から生理が重い明菜は、その日になってから慌てなくても済む様に、カレンダーには必ず予定日をマークしていた。
前回の生理は予定通りで、八月十二日土曜日からだった。
明菜の生理周期は二十八日、ぴったり四週間で長い間安定していた筈だ。
だから予定日として、九月九日土曜日に印を付けてある。
それが今日九月三十日の土曜日で、既に三週間も遅れている。
しかも昨日からかなりの吐き気がする。
(妊娠? あの時)
突然、別れた筈の西田智也の顔が浮かんで来た。
(何故、あなたはそんなに優しい笑顔を見せるの。
本当に好きなのは私じゃない癖に)
たった一夜の出来事だった。
思い出すだけで、明菜の胸の中は掻き乱された。
智也が嫌いで別れた訳じゃなかった。
八月二六日土曜日の夜、穴川IC近くのラブホテルに二人は泊まった。
早朝の三回目のセックス。
男が背後から、眠っている女を愛撫し始める。
女は、男と初めて迎えた朝に小さな幸せを感じた。
男の指先の感触と、触れられた快感に愛を感じた。
男の顔をよく見たかった。
女は体を入換えた。
二人が向き合ってからも、どういう故か男は、女の顔を見ようとしなかった。
二人の目が合った瞬間、男は中出しの大失態を演じた。
男はごめんと謝り、多分大丈夫と女は返事した。
女にはもう分ってしまった。
男は、別の女を思いながら自分を抱いたのだ。
快感の余韻を楽しむ余裕も無く、女はバスルームに飛び込んだ。
ハンドシャワーヘッドのダイアルを、ジェット水流に合わせ、女は奥の方まで洗い流したつもりだった……
(まさかね。
ヒロコだってよく二、三週間遅れることがあるって言ってたし)
また吐き気が明菜を襲った。
生理が遅れる友達が居るからと、この二週間自分を
昨日飲んだ胃腸薬の箱が、テーブルの上に出しっぱなしになっている。
明菜は箱を一旦手に取ってみて、薬箱へ戻した。
十時開店と同時に、明菜は近所のドラッグストアーを訪ねた。
薬棚の間を歩き回って、目的の品物を見つけた。
案外と値段は安かったが、駅まで行けば良かったかなと、明菜はこの時点で少しだけ後悔した。
近所の知人に見られる所を想像してしまったのだ。
直ぐ思い直した。
明菜の住むアパートで、親しく近所付き合いしている人は居なかったからだ。
今すぐ必要のない品物を、幾つか買い物籠に入れてレジに向った。
店員が薬を取り上げて、オプティカル・リーダーに
この早い時間に、レジに並んでいる買い物客はいなかった。
明菜はドラッグストアーを出ると、逃げるように自転車のペダルをこいだ。
アパートの自室へ戻ってから、明菜は漸く落ち着いた。
以前に、笑い話を聞いたことがあったからだ……
線が出たから妊娠したと騒ぐ女の子。
見せてごらんよと友達が言う。
確かに線は出ていたが一本だけ。
女の子の友達は、二本線なら妊娠、一本線ならできてないよと笑った。
女の子はほっとしたと云う話だ。
説明書には、細かい字がたくさん並んでいた。
『妊娠が分る仕組み』
胎児の絨毛(じゅうもう)から出るホルモンhCG(human Chorionic Gonadotropin: ヒト絨毛性性腺刺激ホルモン)を、おしっこから検出する。
この妊娠ホルモンhCGは、着床(受精卵が子宮壁に取り込まれる現象)してから初めて体の中で造られ、生理予定日(妊娠四週目)頃から、出産するまでおしっこに出て来る。
さらに別の項目を見て行くと、この検査薬では、生理が遅れて一週間後から妊娠判定が可能。
判定の精度は99.9%とある。
簡易な妊娠検査薬による高い判定精度と、かなり早い時期から判定可能であるという記載事実に驚いた。
使い方は簡単で、キャップを取り外し、尿吸収体に三秒間おしっこをかけ、一分間待つと終了窓に線が出る。
この時判定窓に線が出ていれば、妊娠の陽性判定となる。
判定窓に線が出てなければ、陰性判定となるなどの記載があった。
さらに注意書きの最後に、本検査薬は妊娠の早期判断の補助として用いるべきで、確定診断については、様々な診断方法の中から、専門医師が的確なものを選択実施し、その所見により総合的に行うもの、であると記載されいた。
陰性判定なら病院へ行く必要は無い。
陰性判定を強く願いながら、明菜は検査薬におしっこを掛けた。
判定まで一分間。
産婦人科へは絶対に行きたくない。
そう思った途端、産婦人科診療施術用の、特殊な医療椅子に着座させられた、自分の姿を明菜は想像した。
唐突な状況に躊躇していると、看護師は明菜の両膝を拡げ、無造作に片脚を取り、
ポテトチップスを大きくした様な形の、ぴかぴかに光る金属プレートの上に、腿を載せベルトできゅっと固定した。
ひんやりした感触に、思わず引こうとした左脚は、もうぴくりとも動かなかった。
残る右脚も同様にして固定されると、上半身まで全く身動きができなかった。
驚いて左右を振り返ると、両腕と両手首までが肘掛に固定されていた。
看護師がレバーを倒すと、椅子の背が水平近くまで倒され、目の上に鉄製アームで吊り下げられた、大型手術用ライトの明るさに明菜は眩惑された。
下半身に目を遣ると、強制的にM字開脚された両脚の付け根に、二つの金属ヘラを組み合わせた、小さなラッパみたいな器具が突っ込まれようとしている。
(冷たい!)
痛みは感じなかったが、医師は器具の小さなハンドルをくるくると回し始めた。
中の方まで風を感じ始める。
相変わらず医師は、その職業的表情を殆ど変えず、ペンライトを手にして顔をあの部分に近付けた。
奥の奥まで覗かれると云う、屈辱と恐怖のイメージに明菜は身震いした。
明菜の中で、掻爬(そうは)手術のイメージが
男性には決して分らない、負のイメージに
生理用品廃棄用のゴミ箱の上に、先ほど置いた妊娠検査薬を、明菜は恐る恐る手にした。
終了窓と判定窓の両方に、くっきりと線が表示されている。
頭の中が真っ白になる。
のろのろと衣服を直した明菜は、トイレから出た後、ベッドへ身体を放り出した。
天井を見詰めながら、これからどうすべきか考えてみる。
明菜は先週の始めから、平日勤務の事務関係の仕事についていた。
今はアルバイトだが、本採用も考慮してくれると言う好条件の職場だ。
平日に休みを取って、病院に行く選択肢は考えられない。
怖れていた結果が出てしまったが、明菜は漸く決心した。
残り0.1%の判定誤りに、僅かな期待を掛けて、津田沼ではなく、二駅離れた西船橋駅近くの小さな産科医院。
明菜はそこを訪ねることにした。
'''''''''''''''''''''''''''''''''' 第14章 完了 '''''''''''''''''''''''''''''''
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます