第106話 裏切り
五回目の、美大試験の日程が近づいて来て、奈緒美は私大受験を考えるようになった。
思いもしなかった四浪生活で、親に掛けた大きな経済的負担。
それ以上に、五浪したら、自分はどうにかなってしまうのではないかと、ストレスがこれ以上抱え切れない程大きくなった。
奈緒美は、主任教師の栗田に相談して、多摩美を受験することにしたが、誓いの儀式を交わした小雪には、どうしてもそれを言えなかった。
多摩美の合格が決まると、何もかも燃え尽きた様に感じた。
藝大の五回目の受験は、一次試験の段階で棄権した。
それからは小雪を避けるようなった。
小雪が、絶対に自分を赦さないと、奈緒美には分っていたからだ。
「それなのに、一年半も経ってから、坂野さんと再会する気になったのはどうしてなんだい」
「どうしてなんだろう」
「俺が訊いてるんだけど」
「私、不安定な状態が結構好きだったのかも知れない。
自分にはよく似合ってると思ってた。
小雪には憎まれているし、赦されないだろうと思っていた。
会わなければ不安定な状態が続く。
でもそれは、私には心地良い状態だった。
それなのに、どうして会いに行ったのかな。
でも結果として、小雪は赦してくれた。
今度原宿で、二人だけのグループ展を開くつもりなんだ」
「奈緒美から、坂野さんに連絡したんだね」
「うん」
「凄い勇気出したね」
「智也と付き合い出してから、私の中で何かが変わり始めたのかもね」
本当に僕が、奈緒美の何かを変えたのだろうか。
こんな無力な僕が。
熱い気持ちで見詰めると、奈緒美が眩しそうな顔をした。
「僕は君の光になれそうかい」
「まだそこまではね」
「だろうな」
奈緒美も、熱い視線を投げ掛けて来た。
「私、初めて人に愛された気がする」
唐突に、愛と云う言葉が出て来て、少し戸惑った。
でも僕は、その言葉を使わなかっただけで、
「両親や姉さんも、奈緒美をうんと愛しているだろ」
奈緒美は、少しがっかりしたように見えた。
「奈緒美。
もしかして、お父さんやお母さんから、愛されてないと思ってる?」
奈緒美は頷いて肯定した。
驚いた。
掛けるべき言葉が見つからなかった。
奈緒美は、どうしてそんな風に考えるのか。
僕はまだ、奈緒美の家族と話したことがない。
そんな僕が今、孤独を噛み締めている奈緒美に対して、何を言えるだろう。
ただ、目の前に居る奈緒美を、たまらなく
奈緒美が愛に渇いているとしたら、僕の愛で潤してやりたいと思った。
でもそれを口にした途端、空々しく響きそうで怖かった。
「俺も、親父からずっと嫌われてると思ってた時期があったけれど、実はそうじゃなかったんだ」
「私、家族全員に、凄く迷惑掛けているから。
厄介者だし」
「そんなことないだろ。
そんな風に勝手に考えるなよ」
「だと良いけれど。
姉さんは家を出て行く時、これからは、あんたの顔を、毎日見ずに済むんだねって笑った」
「そんな酷いことを。
何故なんだ」
「色々あったんだよ」
何も言えなかった。
家族全員への迷惑。
やはり中学三年生の時の、音楽教師小川との不倫愛が、原因になっているのか。
それとも高一の頃、親でも手が付けられない位、荒れ狂っていたのだろうか。
そんなことを、僕が考えているとも知らず、奈緒美は不思議そうに言った。
「理由を訊かないの」
「話したいのかい」
「今はあんまり話したくないかな」
「いいさ。
奈緒美が話したくなるまで、ずっと待ってる。
俺、きっと、奈緒美の光になってみせるから」
「最初にそう言ってくれた時、私が暗闇の中に居るとどうして思ったの」
「それほど深い意味は無かったんだ。
ヒカルのコンサートで、君という光が僕を探し出してくれたように、君が迷った時は、僕が道を照らす光になれたら良いなと思っただけさ」
「あの時から、智也が私の光だった気がする」
「その言葉は嬉しいけど、奈緒美は今落ち込んでいるから、そう思うのさ」
「ありがとう、智也」
「痛い!」
不意を突かれた。
腫れた鼻に、思い切り強く唇を押し付けられた。
奈緒美に加えられた、愛を伴う痛みは快感だ。
遂に、僕の中に秘められたMを、奈緒美に開拓されてしまったようだ。
「肝心なことを訊き忘れる所だった」
「何」
「今度の血の儀式は、何の為にやったの」
「だから、もう二度と裏切らないと言う誓いの為だよ」
「そんなこと、仲直りに必要なのかな」
「智也には分らないかも」
「奈緒美には、よく分ってるのか」
「四度も血の儀式をしたのに、私は小雪を裏切った。
それでも小雪は赦してくれた。
そして、もう一度血の儀式の誓いをたてようと小雪が言ったの。
きっと小雪と私にしか分らないよ」
視線を避けるように、奈緒美は俯いた。
奈緒美にも分っている筈だ。
あの時すぐ僕に話せなかったのは、疑問を抱いていた、血の儀式の復活を認めてしまったからなのだ。
「坂野小雪とグループ展をやる時は、俺も招待してくれ」
「もちろん」
「俺、小雪さんに会ってみたいんだ。
いいだろ」
「うん」
奈緒美は了解したが、坂野小雪に会ってどうしたいのか、この時はまだ自分でも分らなかった。
''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''' 第13章 完了 '''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''
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