第105話 採血と儀式
坂野の姉が看護師だったから、医療器具が身近にあったせいもある。
準看護師時代、妹の小雪は、何度も注射の練習台にされたことがある。
そればかりでなく、姉は注射される患者の感覚が知りたいと、妹に対し自分への注射を命じ、テクニックまでこと細かに指導した。
その時から小雪は、鮮血の色を、こよなく愛するようになったと言う。
自分の血液を、絵の具として使った事もある。初め鮮やかだった赤が、血中鉄分の酸化によって、黒く変色してがっかりした。
小雪の愛する色は、あくまでも鮮血の赤だ。
奈緒美は坂野の家に呼ばれ、小雪の部屋で、お互いの血を採血管に採り合って交換した。
来年こそは、二人揃って藝大に合格すると、血の証を立てたのだ。
始めは、遊び半分の気持ちだった。
奈緒美にとっては、高一時代のバイク遊び以来、久々にスリルが味わえるゲームだった。
誰とどんな風に、バイク遊びをしていたのか、奈緒美は語らなかったし、僕は訊けなかった。
採血の時、上腕にゴムバンドを巻かれ、前腕の内側上部を消毒綿で拭かれ、注射技術に関する詳細な説明を受けながら、細い
相手は医者でも看護師でもなく、自分と同じ高校生だと思ったら、急に怖くなったからだと言う。
奈緒美が、思わず目を
『よく見てて。
私の採血は、奈緒にやってもらうんだからね。
ちゃんと覚えてもらわないと、私だって怖いもの』と注意された。
小雪の注射テクニックは完璧で、薬液注射と採血の違いはあるが、今まで医者や看護師に打たれた、数少ない経験の中では一番痛くなかった。
シリンジ(注射器)に、自分の血が流れ込むのを見た時は、怖いというより妙に興奮したと言う。
シリンジ一杯に採った奈緒美の血液を、小雪は
鮮やかな血の色が、ガラス管内壁を染めた。
その色を見た時、小雪の気持ちがよく分ったと言う。
自分もこの色を、赤色絵の具として使ってみたいと感じた。
痛みと興奮を伴う、鮮血の紅(くれない)の色に、奈緒美も強く魅せられたのだ。
二人は役割を交替した。
採血される側の小雪から、
「自分の鼓動が早くなるのが分った。
落ち着いた小雪の声を聞きながら、左手の親指で皮膚を手前に引いた。
小雪の血管が固定されて、青く浮かび上がっていた。
『針の切り口を上に向けて、角度は十度から三十度。落ち着いてゆっくりとね』
小雪の説明通り、右手の親指と人指し指と中指の三本で、シリンジの先を上下につまんで、注意深く注射針を皮膚に刺し入れた。
ぷつんとした感触が、指先に伝わって来る。
『そのまま針を進めて』
目標の青い血管を真上から見た。
私が刺した注射針の位置はぴったりだった。
針をさらに挿入すると、またぷつんとした感触があった。私は今までに無いタイプの興奮を経験した。
熱い興奮じゃなくて、氷結するような興奮だった。
『うまく入ったわ。
血が逆流しているのが見えるでしょ』
小雪の言う通り、ピストンの黒いゴムの先、シリンジの口に、赤い液体が逆流していた。
『そのまま針を少し寝かせて。
そう、そのまま針の三分の一位まで挿入して』
私の手は少し震えていたけれど、小雪の声を聞くと不安が消えた。
言われた通りに注射針を進めた。
『そう、そこで良い。
右手はその位置で、動かないように固定する。
シリンジ外筒のつばもと。そこよ。
そこを左人指し指の指先の裏で支えて、親指と中指でピストンをゆっくり引くの。血液が入って来る分だけで良いからね。できるだけゆっくりと引く』
言われた通りにやると、思いのほか上手に出来た。
小雪の言葉が、まるで神の
その後も、私は指示された通りやってのけた。
二十MLのシリンジに、三分の二程採血して、用意してあった消毒綿を針の上に置き、上膊のゴムバンドを外してから、注射針を静かに引き抜いて、消毒綿で押さえた」
奈緒美は、小雪の血液が入った採血管をぷちぷちに包んで、小雪から借りた旅行用ポットの中瓶に、氷と一緒に詰め込んで持ち帰ったそうだ。
二人揃って藝大に合格すると言う誓いは、神聖な血の儀式によって固い
浪人して受けた二回目の藝大入学試験でも、奈緒美はデッサンの一次試験を突破できず、坂野だけが二次試験へと進んだ。
結果としては坂野も不合格。
再び二人は血の儀式を行った。
二浪で挑戦した三回目の藝大受験で、漸く奈緒美も一次試験を通過した。
初めて、二人揃って二次試験へと進んだのだ。
この時は、坂野がナーバスになり過ぎていた。
心配の余り奈緒美は、試験前夜に、坂野の家に泊まり込んで
二次試験は奈緒美の得意分野で、確たる自信があったが、坂野は苦手の立体構成を中々克服できず、自分だけ取り残されるのではないか、と落ち込んでいたのだ。
所が奈緒美は、講師陣からも合格確実と見られていたのに、平面構成の着彩で、考えられない失敗をして不合格となった。
奈緒美はその失敗について、あまり思い出したくない、と言葉を濁したが、僕は、モトビの主任講師栗田から聞いていた。
確か、六種類の小物類をモチーフとして、その全てを使用して、平面構成せよという命題だった筈だ。
最初の段階で、モチーフの飴玉を、うっかり道具バケツの中に落としてしまった。
奈緒美はそれに気付かず、五個のモチーフで構成した絵が完成した。
残り時間も僅かになった時、漸く自分のミスに気づき、そこから描き直したことで、全体のバランスを崩してしまった。
修正前の絵を、そのまま提出していたら、二次試験の合否結果は違っていた、かも知れないと栗田は言っていた。
二人の三次試験進出が阻まれて、三度目の血の儀式が行われた。
その翌年の敗退で、四度目の儀式が行われようとした時、奈緒美に大きな疑問が湧いて来た。
この儀式に縛られることこそが、自分の敗因なのではないかと。
血の儀式自体が、永遠の継続を求めているとしたら……
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