第104話 モトビのライバル

 高一の頃はすさんでいたと言う。

 中学卒業と同時に、家の都合で市川に転居して来て、進学した県立菅野高校では、知り合いが一人も居なくて、クラスではずっと孤立していたから。


 恐らくそれは、事実の半分に過ぎないだろう。


 祖父が亡くなったことも、家の事情の一つだろうが、転居した時のもっと詳しい事情と、荒んでいた高一の頃の様子も知りたかった。

 しかしながら、そこまで訊く訳には行かなかった。

 これは警察の事情聴取でもなければ、専門医による精神科の治療でもないのだ。



 二年生になると、進学校の菅野高校では、殆どの生徒が一般大学を目指して、受験対策の勉強を始めるようになる。

 奈緒美は、元来好きだった絵に打ち込んだ。

 形ばかり籍を置いていた、美術部の顧問教師から才能を認められ、美大進学を考えてみたらどうかと言われた。


 両親に話すと、やっと夢中になれるものを見つけられたのだから、好きなようにして良いと言われ、美術教師の推薦した、本八幡美術学院に通うようになった。

 そこで知り合ったのが坂野小雪だ。



 奈緒美は、高校二年生の時からモトビに通学し始めた。

 美大予備校へは、高三から通い始める人が多いから、奈緒美は少し早い方だ。

 一方坂野は、中学時代から藝大を最終目標に据えて、大きな情熱を傾け精進していたと言う。

 モトビには、奈緒美より一年早く高一から入学していた。

 同期生の中で、坂野小雪は、デッサン力において飛び抜けた存在だった。

 他の多くの生徒と同じ様に、そんな坂野を奈緒美はおそれ、憧れ、注目していた。


 奈緒美には、高校で友人と呼べる人は居なかったが、芸術を志向し、美大進学と云う共通目標を持つ、数多くの仲間と巡り合った事は幸運だった。

 高一の頃の荒みは嘘の様に消えた。


 どの美大予備校も似たようなものだろうが、モトビでは、課題が終了する毎に、講師陣による作品講評が行われる。

 数十点の作品群から、一、二点の優秀作が参考作品に選ばれ、重点的に講評される。

 その栄誉は、生徒の誰もが求めるものだ。

 テーマがデッサンの時、坂野の作品は、五割を超える確率で参作さんさくに選定された。

 高二対象の、少人数の基礎科クラスでも、高三で、デザイン工芸科の芸大コースに進んだ後も、その後の浪人時代においても、それは変わらなかった。


 一方の奈緒美も、絵は元々好きだったし、小中学校を通じて他人より巧かった方だが、奈緒美の美術に関する本格的勉強は、実質的に高二からスタートしたと言える。

 高二で入ったモトビで、初めて参考作品に選定されたのが高三の夏で、平面構成の着彩が課題だった。

 遅咲きながらそれ以来、着彩テーマで奈緒美の描いた絵が、参作を外すことは滅多に無かった。



 得意分野はそれぞれ違うが、二人はお互いをライバルと認め合い、切磋琢磨せっさたくましたのだ。

 二人が共に目指した目標が、藝大デザイン科だった。


 初めての受験の時、心からお互いの健闘を誓い合った。

 モトビではライバルだったが、藝大受験では同じ予備校の仲間だった。

 奈緒美は、一次試験のデッサンで不合格。

 坂野は二次試験へと進んだが、立体構成(形体)では辛うじてCだったものの、平面構成でD評価が付いて不合格。

 ちなみに、一次デッサンはA評価だった。


「奈緒の着彩力があれば、現役合格できたのに。

 ああくやしいな。

 来年こそ二人揃って絶対合格しようね」


「一次で不合格になった私は、小雪みたいな自信は持てないな。

 二次へ進む為に、小雪のデッサン力に近づきたいよ」


「二次試験へ進みさえすれば、奈緒は間違い無く合格するよ。

 私の試験会場は、大きい教室だったけれど、奈緒レベルの受験者は一人も居なかったもん」


「本当?」


「本当だよ」


 奈緒美と坂野小雪が、初めて儀式を行ったのは、この藝大二次試験の合格発表直後だったと言う。


 普通に考えれば、気色きしょく悪い行為だったろうが、二人にとっては神聖な行為だったそうだ。

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