第103話 痣
「あの先はどこへ繋がってるの」
「海底トンネルの終点は、多分羽田空港とか川崎大師の近くだと思うけど、高速料金が高過ぎてまだ一度も行った事が無いんだ」
「お大師さんへも行ってみる」
「千葉県人としては、成田山が先じゃないの」
「変なことに拘るんだね」
奈緒美は屈託無く笑った。
これで富士山の雄姿まで見えたら最高だが、その方向には雲が掛かっていた。
中段より高く上がった所で、奈緒美は約束通り鼻にキスをしてくれた。
軽いキスのつもりが最高点近くではディープキスになった。
知らず知らず僕の右手は奈緒美の乳房を揉み解していた。
押しのけられて初めて、自分の大胆過ぎる行為に気がついた。
「ごめん」
奈緒美は僕の目を凝っと見ている。
恥じらいを含む表情と視線が妖しい。
奈緒美がとてもセクシーに見えた。
「この後、ホテル行く?」
「いいのか」
「いいよ」
「キャンセルは受け付けないぜ」
「うん」
僕もきっと今の奈緒美と同じ様に、熱い視線を送り続けていたのだろう。
初めての時と同じ、これも自然の成り行きだ。
湾岸道路を戻る途中、最初に見つけたラブホテルに入り、二人は生理的欲求に対し素直に従った。
なれきってはいなかったが、僕たちの二度目のセックスは、ぎこちなさが消えて全てが滑らかなものになった。
何度も鼻にキスをされて、鈍い痛みは段々と快感に変わって行く。
Mの気持ちが少しだけ理解できた。
「これ、気になる?」
行為が終った後もふざけっこが続いた。
腫れた鼻を触ろうとした、奈緒美の右手首を押さえつけた時、そこに目が留まった。
前腕の肘の内側に近い部分だ。
その黒ずみは内出血による
「いや、別に」
「うそ」
「少し気になるかな」
本当は気になって仕方が無かった。
痣が注射痕の様に思えたからだ。
もしかして……
「注射の痕だよ」
「風邪でもひいたのか」
「病気じゃないよ」
「じゃあ献血?」
「違う」
「まさか」
「それも違う。
覚醒剤なんて絶対やらない」
明確な否定を聞いて緊張が解けた。
音楽教師の小川と別れた後で、麻薬に走ったんじゃないか、と僕は少しだけ疑っていた。
それ以外にも、四浪時代の強いストレスに負けたんじゃないかとか、思ったような作品が出来ないとか、奈緒美が薬に頼りたくなる原因は、幾らでも見つかりそうな気がして怖かった。
注射の痕と云う言葉は、奈緒美の悪いジョークだったんだ。
多分。そうであって欲しい。
「じゃあ何の注射なの」
「採血したんだよ」
「何だ健康診断の採血か。
あんまり脅かすなよ」
「それも違う」
「じゃあ何だよ」
「血の儀式かな」
奈緒美は、仰向けに天井の一点を見詰めている。
ホラーコミックの、黒魔術なんかに出て来そうな不気味な言葉。
やっぱりこれはブラックジョークに違いない。
「怪しいな、それ。
もし新興宗教にでも嵌ってるんだったら、考え直した方が良いんじゃないか」
「宗教じゃない」
「これは謎々かい」
「誓いの為の儀式だよ」
「誓いって、何の」
「二人は、絶対裏切らないという誓い」
苦いものが込上げて来た。
これ以上無い位嫌な気分だ。
奈緒美が誓い合ったと云う男は、一体誰なんだ。
自分の中心部から、あらゆる物を破壊したい、凶暴な何かが姿を現そうとしていた。
こんなものが、自分の中にも潜んでいたのか。
自分の顔を見られるのが恐ろしかった。
奈緒美から顔を背けたまま、押し殺した声を出した。
「誰と」
「坂野小雪と」
胸の中に生まれかかった何かが消滅し、代わって大きなもやもやが広がった。
坂野小雪。
彼女は、本八幡美術学院時代の奈緒美の浪人仲間で、講師の栗田から聞いた話では、奈緒美の親友だった女。
奈緒美が藝大受験を諦めて、多摩美に入学して以来、二人はずっと
そしてどういう
あの時は奈緒美が苦しそうで、何も訊けなかったのだが……
「モトビの浪人仲間だっけ」
「そう」
「女の子だよね」
「もちろんだよ」
「まさか愛の誓いとかじゃないよね」
「そんな訳無いじゃん!」
緊張が解けて、奈緒美は苦笑いした。
おかしいかも知れないが、僕は、二人が同性愛なんじゃないかとマジで疑った。
そうじゃないとしたら、二人の誓いというのは……
「友情の誓いなのか」
「少し違う」
「一体何なの」
そう吐き捨てた。
血の儀式と云う、悪魔的な響きが、再び頭の中で
「同志の誓いかな」
「この前は訊かなかったけど、二人がどういう関係なのか訊いても良いか」
「うん」
奈緒美は話してくれた。
あの時の様な、苦しそうな表情はもう無かった。
漸く吹っ切れたと云うことなのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます