第99話 水曜日の音楽鑑賞 その2

 中盤の『Addicted To You 』は、僕の最も好きな歌の一つだ。

 勿論宇多田ヒカルは全部好きだけど、ランクや差が付くのはしょうがない。

 この歌の時、僕は奈緒美の苦しそうな横顔を見た。


『♪だけどそれじゃ苦しくて 毎日会いたくて♪』


 丁度その時だったから、奈緒美の感情が、詩の内容とリンクしていたのかも知れない。

 そう考えた時、毎日会いたい人は絶対に僕じゃないと思った。

 同時に、今僕以外の人が居るとも思えなかった。

 苦しそうな顔の奈緒美が、毎日会いたかった人は誰だろうか。



 次の歌を聴く奈緒美は、もっと集中していた。

 僕も好きだが、奈緒美もこれが好きなのか。


「セカンドの中で、これが一番好きかも。

 シングルヒットだし」


「私は、あんまり好きじゃないかな」


 奈緒美の答が、僕の予期したものと正反対だったので驚いてしまった。


『For You』のどこが嫌いなんだろう。

 メロディも詩も、こんなに心に沁み渡るのに……小説を書こうとする僕から見ると、この歌は詩の始まりからして凄い。


『ヘッドフォンをして ひとごみの中に隠れると もう自分は消えてしまったんじゃないかと思うの』


 他の誰にも、こんな詩はきっと書けないんじゃないかな。

 書くというより、「描く」という字を使おう。

 机の上で考えて書くのじゃなくて、経験しないと描けない詩なんだ。

 しかしながら、経験しないと描けないとしたら、小説なんて危なっかしくてしょうがない。

 考えは少し脱線してしまったが、奈緒美の反応について、僕はかなり気に掛かった。



 三つ後の『タイム・リミット』で、奈緒美は軽口を利いた。


「この歌みたいに、智也にもっと焦りを感じさせた方が良かったかもね」


「焦りどころか、賞味期限が過ぎる前の恋の味だったら、冷める前にあつあつのところをおいしくいただきました」


「トモヤのいけず~」


 ジョークを言い合って、僕たちは一緒に笑ったが、どこか引っ掛かるものがあった。

 奈緒美は付け足しの様に言った。


「セカンドだと、私は『Can You Keep A Secret?』が一番好きかな。

 二日目では復活の歌だったし、『Hit it off like this』って何度も繰り返すから、唯一口ずさめたしね。

 コンサート行くまでの私は、まだホントのヒカルファンじゃなかったから、全然歌詞なんて覚えてなかったんだ」


 それまでヒカルファンじゃなかったことは、以前にも聞いた。


「どうする。

 続けてサードアルバム行ってみる」


「待って。お茶入れてくる」


「OK」


 クッキーを食べながら、僕たちはサードアルバム、『ディープリバー』を聴き始めたが、これは大失敗だった。

 ぼりぼりと、頭骨の中に響き渡る不快なノイズ。

 ながら作業で聴く時なら良いにしても、宇多田鑑賞がメインイベントであるこの日、やってはならないことだった。


「ちょっと止めて」


 奈緒美の言葉と同時に、ストップボタンを押した。

 僕は苦笑いしながら、口中に残るクッキーを大急ぎで噛み砕き、コーヒーで胃の腑へと流し込んだ。

 奈緒美は、僕の顔を見て大笑いしたが、奈緒美の口の動きも、かなりユーモラスだった。


「見ちゃダメぇ」


 目を伏せた振りをして、上目遣いで見ていると、奈緒美は、口を極力動かさないようにクッキーを噛み砕いている。

 喉仏の辺りが大きく上下動した時、僕は思わず噴出した。


「ああん、やっぱり見てたー」


 軽く僕の頭をこずいた奈緒美も、我慢し切れず噴き出した。

 口の中の僅かな残りものが、少し飛び散った。


「汚ねぇ~」


 僕は、ティッシュで辺りの床を拭き取った。


「やめてよ。私がやるから」


 奈緒美は、僕の手に飛び付いて、ティッシュを奪い、部屋を出て行った。

 雑巾を絞って戻って来た奈緒美は、丁寧に周辺を拭き直す。

 くびれた腰の動きがとてもセクシーだ。

 僕が見下ろしていることにも気付かず、奈緒美は真剣な目で、仕上がりを確認していた。

 思わずその背中を抱き締め、白い首筋にキスをした。


「だめ」


 そう言いながら、奈緒美は、僕の手がそれ以上進まない様に手で押さえたが、暫くの間そのままでいてくれた。

 それだけで十分満足だった。

 ほんの少し触れ合うだけで、幸せを感じた。

 僕の気が済むと、奈緒美は雑巾を持って再び出て行った。


 戻って来た奈緒美が隣に座り直して、

「ヒカルちゃん、聴こう」と言った。

 僕は、改めてスタートボタンを押し直した。



 CDアルバムを、三枚立て続けに聴くなんて初めてかも知れない。

 でも奈緒美と一緒に聴いた、これまでの二時間は、長過ぎるとは全く感じなかった。


 このサードアルバムでは、タイトルにもなった四曲目の、『Deep River』が一番好きだ。

 この意見は奈緒美とも一致した。


 詩の中で、僕の好きな箇所は、

『全てを受け入れるなんてしなくていいよ』で、

奈緒美は、

『やがてみんな海に辿り着き ひとつになるから怖くないけれど』と云う所が好きだった。


 結局、この歌の詩の全てが良いし、メロディも最高だと言う点で、二人は完全に一致した。


「でも『FINAL DISTANCE』も好きだな」


 これも確かに同意できた。



 八曲目に『A.S.A.P.』が掛かると、知らず知らず聴き入ってしまった。

 明菜ちゃんからのラストメール。

 別れ。

 思い出したくないが、彼女には酷いことをした……


「A.S.A.P.ってどういう意味なんだろ」


 そう訊かれた時、とっさに返事ができなかった。

 ずっと前を向いていたが、奈緒美が僕の横顔を見ているのが分った。

 以前はこの歌を聴いても、特別な感情は湧かなかったのに、今はどうしてこんな気分になるのだろう。

 歌って、本当に不思議な力を持っている。


 十曲目に、奈緒美の大好きな、

『FINAL DISTANCE』がプレイされ、次いで『Bridge (Interlude)』と云う、曲と曲の間を繋ぐインストルメンタルが流れる。

 その間、少し話をした。


「やっぱり、『DISTANCE』より『FINAL DISTANCE』の方が深いかもしれないな」


「でしょ、やっぱりファイナルだよ。

 ファイナルと云う言葉も好きなんだ。

 最後のって意味もあるけど、究極のって言う意味もあるでしょ。

 深いなぁ」


「究極の距離、隔たり。

 二人の間にある溝、いや壁かな。うん、深いね」


「さっきのA.S.A.P.って、意味が分らないんだけど、知ってる」


 僕は、あっさりと答えた。


「A.S.A.P.は、as soon as possibleの略で、アサップとも言うらしいよ。

 できるだけ早くと云うことだよね」


 奈緒美はその説明に、ああ と納得した。


「好きなの?」


 僕は、突然の問いに戸惑った。


「誰を」


「だから、『A.S.A.P.』っていう歌」


「うん」


 奈緒美は、ふうんと言って引き下がったが、何かしら感づいた様子があった。



 ラストの『光』が始まった。

 僕たちは二人して、この歌に聴き入った。


「♪君という光が私をみつける♪」


 二度目のこのフレーズに差し掛かった時、右手に懐かしい温もりを感じた。

 涙は浮かべてなかったが、あの時に近い気持ちになったかも知れない。

 あの日と同じく、奈緒美は右側に居て、あの日と違って、明るみの中で僕を見詰めた。

 僕は重ねられた左手に、自身の左手を重ねた。


「やっぱり『光』が最高だね」


 奈緒美も大きく頷いた。


 何と言っても『光』は、僕たちの出会いの歌だから。

 『光』は特別で、スペシャルな、邂逅記念歌だった。

 同義語を幾つ重ねても足りない位、二人にとっては特別で意味のある歌なのだ。



 僕たちは『光』だけをもう一度聴いた。

「あの時は、『君という光が』僕を見つけてくれたけれど、今度は僕が、君の光になれたら良いな」


 自分で吐いたセリフが照れ臭くて、奈緒美の方へ顔を向けられない。

 それでも奈緒美が、僕の横顔を見詰めているのが分った。


「ありがとう」


 奈緒美は小さな声を出した。

 僕が右に目をやった時、奈緒美は横顔に戻っていた。



 僕は黙って、四番目のアルバム、『ULTRA BLUE』をセットした。


 四曲目の『日曜の朝』を聴いた時、次にデートする時は、水族館に行こうと奈緒美が提案した。

 僕は、奈緒美と一緒に居られさえすればどこでも良かったし、水族館に行くにしても、平日の午後だろうと、週末の午前だろうと一切関係なかった。


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