第98話 水曜日の音楽鑑賞 その1

【註: 9/14の近況ノートで予告しました通り、本話、次話では、宇多田ヒカルの話、詩がたくさん出てきて、修正し切れませんので、2006年に書いた当時のまま記載いたします。

 もちろんこれまでの作中、アーティスト名を灯火としていた部分も、当然ながら宇多田ヒカルと表示いたします】



 そぼ降る雨は、奈緒美の家で過ごすにはかえって好都合だったし、和解した二人には悪くない環境だった。

 もちろん性的欲求や、怪しい魂胆こんたんからじゃなく、奈緒美と同じ空間で、一緒の時間を過ごすことだけが重要だった。

 あの時はたまたま、そんなムードになってしまっただけなのだ。



 奈緒美は、先々週この部屋で撮った写真を僕に見せた。

 A4サイズのプリントが三枚。

 深い陰影が刻まれた被写体は、いずれも自分の裸身とは思えなかった。


「結構綺麗に撮れたでしょ」


「そうだね。自分じゃないみたいだ」


「写真の講義を取ってるからね。

 成績も良いんだ」


「まさかこれ、作品提出とかしてないよね」


「いけなかった」


 奈緒美の狙い通り、僕は引きった顔を見せてしまった。


「ウソ、ウソ」


 奈緒美が笑うと、大粒の目が線の様に細くなった。


 この笑顔が見られるなら、多少意地の悪いジョークを言われても我慢できるし、奈緒美が、先週のわだかまりを引き摺ってないことも確認できて嬉しかった。



 それから僕たちは、奈緒美のiPodプレーヤーで、宇多田ヒカルのCDを聴くことにした。


 奈緒美は、いずみさんから借りたCDを、iTunesに取り込んだだけで、宇多田ヒカルのCDを一枚も所有してなかった。


 宇多田ヒカルファンになった奈緒美なら、ゆっくりとヒカルの詩を鑑賞したい筈だ。

 そう思った僕は、全CDアルバムの歌詞カードと、コピープリントを持って来た。

 奈緒美の為に、スキャナーで作ったコピーだが、彼女には原本の方をあげた。


 中古CDを見つけたら、これは必ず返すからね、と約束した奈緒美は、

歌詞カードのブックレットを嬉しそうにシャッフルした。

 いずれの表紙にも、ヒカルの魅惑的な表情が大写しされている。



「全部聴こうよ」


「アルバム五枚も聴いたら、五時間は掛かるぜ」


「英語のアルバムはいいや、歌詞分らないから」


「それでも四時間」


「何か他に、し・た・い・ことでもあるの」


 奈緒美が意地悪そうに微笑する。

 僕は慌てて否定した。

 始めに魂胆が無いと言ったが、それだけのやりとりで、局部的に硬くなり始め、自分が嫌になった。


「とにかく聴こうか」


 僕はプレーヤーを操作して、ファーストアルバムを選択した。


「小さいのに、割と良い音が出るね」


「充電もできるし、リモコンも便利だよ」


 僕らは、壁際に大きなビーンズクッションを並べ、反対側の壁際に置いたプレーヤーに顔を向けて、二人並んで座った。

 音量調節など、リモコン操作を一通り覚えた僕は、『ファーストラブ』を再スタートさせた。



 デビュー曲『オートマチック』

いつ聴いても名曲だ。

 このメロディが流れ始めると、僕はソッコーで、宇多田ヒカルの世界に入り込むことができるが、今日は奈緒美を意識していた。


「智也から電話来ると、最近オートマチックになりつつある」


「マジ?」


 僕は思わず、嬉しそうな声をあげた。


「そんな訳ないでしょ」


「ウソかよ」


「ウソのウソでホントかも」


「わかんねえ」


 目を合わせず、同じ方向を見て、そんな会話をした。

 今、奈緒美は、どんな顔をしてるんだろう。

 でも僕は見なかった。

 このまま、ぬるい会話が続けば良いと思った。


 八曲目の『B&C』を聴き終わった時、奈緒美から質問された僕は、リモコンでポーズをかけた。


「アメリカの古い映画で見たことがある。

 確か『俺たちに明日はない』と云うタイトルだったかな。

 ボニー&クライドは、男と女の二人組銀行強盗で、実在したみたいだ。

 ラストでは、二人共撃ち殺されたんじゃないかな。

 随分前に借りたDVDだし『明日に向って撃て』ともごっちゃになってるから、あまり自信ない。

 アメリカでは伝説的な強盗みたいだよ」


 タイトルも知らないノスタルジックムービーに、奈緒美は全く興味を示さなかったが、この歌の詩は好きだと言った。


「『何があっても後悔しない』か、これは無理だよね。

 ここから後の方が好き」


 奈緒美が指した、歌詞カードの箇所には、

『今の気持ちを言葉にしたら 魔法とけちゃう』とあった。


 僕はその先の詩が何となく気になった。

『傷つけたって傷ついたって ずっとボニー&クライドみたいに』


 僕は奈緒美の目を見たが、ぼんやりした疑問に対する答えは、おぼろにも見つからなかった。


 ファーストアルバムの最後には、『オートマチック』のリミックスバージョンが入っている。

 アップテンポのオートマチックも悪くない。


 奈緒美は、その前の歌を途中から口ずさんでいた。

『Give Me A Reason』は、メロディが地味で、僕は注目してなかったから、こういうのが好きなのかと少し意外に思った。


 十時半にスタートした、ファーストアルバムが終了すると、もう十一時半近くになっていた。

 やはり、一枚当り一時間近く掛かりそうだ。

 このまま四枚続けて聴くと、午後二時半になるかも。

 ローサンは四時からの勤務だから、二人の時間はそれだけで終りそうだった。

 心地好い時間ではあるが、何かしら物足りないような気がした。


 奈緒美も、セカンドアルバムの方が気に入っているようだ。

 いきなり三曲続く名曲。

 中でも僕は、アルバムタイトルにもなった三曲目の、『DISTANCE』が好きだ。

 奈緒美は、『FINAL DISTANCE』の方が好きだと応酬した。

 詩も旋律も同じだが、確かに二つは違う歌の様に感じる。

 奈緒美の好きなスローバラードは、サードアルバムに収録されている。

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