第97話 迷路

 恋焦こいこがれる僕は、九月十八、十九の、月曜、火曜も市川駅で奈緒美に逢い、馬喰町で別れた。

 そして漸く水曜日が来たと思ったのに、その日の朝になって、奈緒美から突然キャンセルの電話があった。

 奈緒美が誰か女の人と会うらしいことは分ったが、その話題を避けたい様子を電話越しに強く感じた。


 追求はしなかったが不満だった。

 何でも見せると言った癖に、心の内は見せないつもりなのか。

 それとも、内側は見せられないと言っていたっけ。

 いずれにしても、奈緒美に対して、僕は急加速度的に我侭わがままになっている。

 自己分析はできても、自制は巧くできなかった。


 多少意地になっていた僕は、木曜も金曜も市川駅に行くことを止めた。

 こちらから電話もしなかった。

 時間を掛けて奈緒美を理解し、心の内に接近しようと思っていた筈だったのに。



 今度こそ、電話して和解しようと思っていた金曜日の夜、奈緒美が突然現れた。


 大学の五限が終ったその足で、市川を通り越し、この稲毛までやって来たのだろう。

 時刻は午後八時半近くだった。


 僕は、同僚の松尾君に断ってから、店の裏口を出た所で奈緒美と十分程話した。



 奈緒美は、約束をキャンセルした水曜日に、友人の坂野小雪と会っていたと話してくれた。

 坂野は、モトビ時代の浪人仲間で、今春漸く藝大に入学した、勇気と信念の人だと言う。

 僕はあのヌードクロッキー会の時、講師の栗田から聴いた話を思い出し、奈緒美がこの話題を避けていた理由に思い当たった。


「久し振りに会ったんだ。小雪に……」


 それを言うだけで、奈緒美は、胸が一杯になってしまったようだ。

 僕は坂野小雪との経緯いきさつや、再会して和解出来たのかどうか知りたかったが、奈緒美にとってはまだ心の整理が必要なのだろう。

 それに、僕が栗田から聴いた話は、奈緒美には内緒にしておく約束だった。


「水曜日のことは分った。

 俺、つまらないことで意地を張っちゃってごめん。

 奈緒美の浪人時代のことはもちろん知りたいけど、もっと後で良いよ。

 無理させて悪かった」


「ありがとう……」


「十一時半過ぎると思うけど、仕事終ってから電話するよ」


「うん」


 奈緒美は、硬い笑顔を見せて駅の方へ向った。



 ポジションに戻った時、松尾君は批判的な目を見せた。

 後になって考えてみれば、彼は私用による仕事の中断より、明菜ちゃんのことで、僕を許せなかったのかも知れない。

 彼は、明菜ちゃんと僕の接近に気付いていた。

 そのせいで、明菜ちゃんが店を辞めたと推論した。

 柄の悪い木村次郎が店にやって来て、僕のことを訊ねた時、明菜ちゃんファンだった松尾君が、何か起こる事を期待して、わざわざ僕のシフトまで親切に教えてやった。

 これは僕の考え過ぎだろうか。

 当っていたとしても、僕に非があることに変わりは無いから、松尾君を怨むつもりはない。

 むしろ、こんなに短期間で忘れ掛けていた、罪の意識を思い出させてくれた、松尾君に感謝するべきだろう。



 土曜日の早朝、六時から二時間、僕はJR津田沼駅北口の、バスロータリーを見下ろせる歩道橋デッキの上で、次々に到着するバスから降りて来る、女性客を観察していた。


 バイトしていた頃の明菜ちゃんは、土日の午前七時から、午前中一杯のシフトに入っていた。

 同じ時間帯に、今もどこかで働いているかも知れない。

 小さな可能性だが、僕は明菜ちゃんを探し出して、心から謝罪したかった。


 正午からの二時間は、バスから降りる客ではなく、バスロータリーで、駅を始発とするバスを待つ人波を観察した。


 実はその間の四時間も、僕は遊び回ったり家に帰っていた訳じゃない。

 バイクで駅周辺の道路を走り回り、コンビニやファストフード店を見つけては、淡い期待を持って中を覗いてみた。


 翌日の日曜日も、同じことを繰り返したが、明菜ちゃんの姿を見つけることはできなかった。

 それでも僕の心は幾分いくぶんか軽くなった。


 結局僕は、罪の意識を少しでも減じようとして、行動しただけかも知れない。

 それでも良かった。

 都合の良過ぎる考え方かも知れないが、明菜ちゃんは、もっと素晴らしい男性と出会う為に僕と別れたのだ。

 そう思うことにした。



 その土日とも、奈緒美には電話したが、僕の行動については一切話さなかった。

 それでも、水曜日に二人で会う約束だけは、しっかりと取り付けていた。


 誰にでも、人に話したくない、あるいは話せない事情があるのだ。

 奈緒美にも、僕にも、親父にも、ひょっとするとお袋にも、そして明菜ちゃんにも……

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