第13章 交際の進行

第95話 ヌードモデル

 トラブルにも巻き込まれたが、今の僕は奈緒美のことで一杯だ。


 稀に見せる、あの光に満ちた目に夢中になった。

 ブラックホールの如き、光の無い奈緒美の目を発見して、恐怖に怯えた事がある。

 冷静に考えれば、単に自分の気分が反映されただけなのだろうが、奈緒美への思いを整理する意味で、少し時計を巻き戻してみよう……



 九月十三日水曜日、あの日僕は約束に従って、午前十一時前に奈緒美の家を訪ねた。


 約束とは言え、僕は奈緒美の前で衣服を脱ぐことを躊躇した。

 家の人が、突然帰って来たらどう思うだろう。

 まさか急に、この部屋のドアを開けることは無いと思うが、気になって仕方がなかった。


 そんなことよりも、奈緒美の前で、僕一人だけが全裸になると云う、普通ならありえないシチュエーションを、どう受け入れれば良いか、まだ覚悟できていなかったと言うのが本当の理由だ。


 僕がもじもじと躊躇ためらっていると、外に出てようかと奈緒美は言った。

 僕はそれでも動かなかった。


「母のことだったら心配ないよ。

 六時までは帰って来ないから」


 保険会社のパートをしている、奈緒美の母親は、買い物が無い日でも、午後六時前に帰宅することはないようだ。

 県庁勤めの父親も、今は富津の小さな支所勤務で、真っ直ぐ帰って来たとしても、午後七時近くになると言う。


 この家で、専属ヌードモデルの契約が終了する午後二時までは、僕の身の安全は保証されるらしい。


 奈緒美は、自分だけが裸を見せて不公平だと言った。

 本質は、不公平と言うより羞恥心しゅうちしんの問題だ。


 あの時僕は、心の用意も無しに、モトビ(本八幡美術学院)のクロッキー会で、ヌードの奈緒美を、他の参加者と一緒に、絵の対象として見ることになった。

 他の男性参加者に対する、怒りとか嫉妬の嵐が一旦収まると、うら若き乙女が、人前で全裸をさらすことを、奈緒美自身が、どう考えているのかと猜疑心さいぎしんが湧いて来た。

 何故恥ずかしくないのか、良識と言うか感情と言うか、奈緒美の考え方自体を疑って戸惑った。

 それから、僕には分らない、何か深い理由があるに違いない、と自分を納得させたのだ。

 ヌードモデルをする理由について、奈緒美からは一応聞いたが、僕はそれが全てだとは信じていない。

 それでも、彼女が恥ずかしいと感じてくれたことを嬉しく思った。

 それが僕の理解できる感情だったからだ。


 あの時あの場に僕が居て、彼女が羞恥心を覚えたのであれば、僕にはそれを軽減してやる義務があるのかも知れない。


 アンダーパンツには、身体にフィットした、黒いボクサーパンツを履いて来た。

 僕の裸体が、絵になるかどうかと云う問題は、この際棚上げしておこう。

 全裸の男より、醜い一物が露出しない分、この方が絵になり易いだろう、と思ってのことだ。


 奈緒美には背を向けていたが、僕は潔く服を脱いで行った。

 その最後の一枚に手を掛けた時、

「今はそこまで」

 僕の狙い通り、最後の一枚は猶予された。


 イーゼルの向こうの奈緒美から、時折ポーズの変更を求められたが、僕は、意外にも堂々とヌードモデルの役割をこなし続けた。


 奈緒美のクロッキーは結構早い。

 セミヌード状態に違和感が薄れた頃、奈緒美の口から出た言葉に、僕は凍り付いた。


「デジカメで写真撮っても良いよね」


「何の為に」


「後で絵に描きたいの」


「今だって描いてるじゃないか」


「クロッキーじゃなくて、きちんとした智也の絵を描きたいから。

 それとも、その為にまたヌードモデルになってくれる」


 結局、僕は写真の方を承知した。

 遮光しゃこうカーテンで光量を調節しながら、一眼レフのデジカメで、恐らく十ポーズ近く撮られたと思う。

 これで終わりならそれでも良いか。

 と思ったのは甘過ぎた。


 写真を撮り終わった奈緒美は、

「そのパンツも脱いで」と僕に通告した。


 僕は唖然として、その場に立ち尽くした。


「あそこの写真は撮らないから」


 元々、フルヌードになると云う約束だった。

 観念した僕は、クロッキーの為に、さらに数ポーズをとらされたのだ。


 羞恥心から、僕のアレは萎え切っていた。


 パンツがあった時は、堂々とポーズできていたのに、身体全体も、あそこも、同じ様に縮こまっていた。


 布切れ一枚の持つ、安心感の大きさが嫌と言うほど分った。

 しかしながら、これで奈緒美の、僕に対する羞恥心の一切が無くなって、不公平感を完全に払拭できるのであれば、この犠牲にも十分な意味があると言うものだ。

 そう自分を納得させていた。


 健気けなげな僕の気持ちにも気付かず、奈緒美は、あの時のお返しのつもりなのか、僕の下腹部を凝視した。

 僕に凝っと見詰められた奈緒美も、こんな気持ちだったのだろうか。

 そんな風に逆観察していると、欲求している訳でもないのに勃起ぼっきして来た。


 止めなきゃ。

 そう思うほど、僕のアレは、勝手に屹立きつりつして行く。

 奈緒美の顔が、ぽっと赤らんで行くのが分った。


 僕は決して、そんなつもりじゃなかったし、奈緒美にもそんな気持ちは無かった筈だ。

 それでも自然の成り行きで、それからの時間を、僕たちは初めてのセックスに使った。

 豊かな自然光の中で、僕らはお互いを隅々まで知り尽くした。

 この時僕は、奈緒美の光に満ちた目を見つけた。

 灯火のコンサート以来、求め続けていた目だった。

 喜びに溢れた時間の中で、何か気に掛かるものを見たような気がしたが、行為に夢中だった僕は、そのことをすっかり忘れてしまった。


 二人の恋は、スピードオーバーだろうか。

 僕自身も、恐らくは奈緒美も、接近の速度超過が、既に危険領域へと入っていたことに、まだ気付いていなかった。




 毎日、少しでもいいから会いたかったが、深夜まで勤務がある僕は、学校帰りの奈緒美と会うことができなかった。


 翌日の木曜日も金曜日も、僕は早起きして、JR市川駅で奈緒美と待ち合わせた。

 七時十分発の、総武線快速東京行きの電車を待つ間、ホームで数分間立ち話をして、乗り換え駅の、馬喰町ばくろうちょうまでの二駅区間を、満員電車の中で見詰め合った。


 馬喰町駅で降りた奈緒美は、ホームを進行方向へ走り、僕はその後姿を見送った後で、ゆっくりと反対側ホームへ移動した。


 奈緒美は、都営新宿線に乗り換える為、馬喰横山ばくろうよこやま駅へ急いだのだ。

 うまく行けば、そこから暫くの間座われるかも知れない。

 橋本駅まで、ずっと立ちっ放しはきついだろう。

 多摩美の一限は、午前九時に始まるから朝が早い。

 市川から八王子に通うのは、かなりきつそうだが、中には、千葉駅から通って来る生徒もいるそうだ。


 学生は帰りが早いからまだ良いが、遠距離通勤の会社員は帰宅も深夜だ。

 稲毛にとんぼ返りする車中で、会社員にならなくて良かった。

 負け惜しみではなく、そう思った。



 十六日の土曜日は、奈緒美に用事があって、日曜日は僕に用事ができた。

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