第94話 修羅場の伝聞
木村を解放してから、誠くんと話し合ったものを総合すると、木村から訊き出した話はおよそ次の通りだ……
教師の名が小川であること。
自分と奥さんのどちらを選ぶのかと、奈緒美が小川に詰め寄ったらしいこと。
小川が、妻に言い訳の為、その場しのぎの嘘を吐き、それに切れた奈緒美が、小川の息子に手を出したか、罵ったらしいこと。
争った場所が悪く、小川の妻が、石階段から落ちて怪我したらしいこと。
この怪我には、こどもをかばった小川の妻が、誤って階段を踏み外して落ちたと云う事故説と、
向って来た妻を、奈緒美が、階段に突き飛ばしたと云う故意説があること。
怪我自体にも、大怪我説と、かすり傷説があること。
怪我に関しては、示談が成立したらしいこと。
学校関係者の中には、当時の現場を見ていた人が、一人も居なかったこと。
小さな町だから、悪い噂は直ぐ伝わり、学校中のみんなが知っていたこと。
本件に関し、学校で査問会が開かれた様子はなかったこと。
生徒たる奈緒美に対しても、教師たる小川に対しても、学校から特に処分などは無かったこと。
中学卒業前の半年間、奈緒美はクラスから、殆どハブ状態にされ孤立していたこと。
最後に、木村が毒づいた言葉だけは、その時の口調までよく覚えている。
「これで分っただろ。
俺は渡瀬と同じやり方をしただけさ。
西田、あんな女と付き合うのは、やめておいた方が良いんじゃないか。
今に痛い目にあわされるぜ」
はっきりしたのは、木村が語ったことの殆どが、伝聞か噂の類であることだ。
小さなムラ社会の、噂話にしか過ぎないのだ。
「西田さんは、どう思います」
「奈緒美さんが、そんなことをするとは思えないし、僕は信じたくない」
「俺だって信じられませんよ。
でも木村に、俺達を騙す余裕は無かった筈だ」
「そうだな。
でも誠くん、悪い噂話を、奈緒美さんに確認するなんて僕にはできないよ」
「ですよね。
じゃあ二人で、当時の事実を調べてみますか」
「調べ方も思い付かないし、調べたくはないな。
暫くは様子をみるだけさ」
「やっぱ、そんなとこですか」
「僕は、奈緒美さんを傷付けたくないんだ」
「分りました。
西田さんに全部任せますよ。
俺は聞かなかったことにします」
「そうしてくれると助かる」
話し合う内、誠くんの口の利き方に、変化が生じたことに気がついていた。
誠くんは思ったより素直で、気性も真っ直ぐな男だ。
ここにやって来た理由も、彼の口から教えてもらった。
暗い話に一区切りが付いたせいか、誠くんは僕に快活な表情を見せた。
「西田さん、さっきの動き、良かったですよ。
俺、西田さんの事見直しましたよ」
誠くんは左半身へのステップから、何かを抱え込む動作と、左右にパンチを振るう仕草を見せた。
「ありがとう。
自分でも木村に勝って驚いているんだ」
「何かやってたんですか」
「前に話したように、格闘技は見るだけさ。
得意なスポーツも、これといったものは無いね」
「でも、あの横に開いたステップから、寝技に持ち込むタイミングなんか、最高だったっすよ」
「アドレナリンが出たみたいで、相手の動きがスローに見えた」
「タイミングは確かに良かったけれど、西田さんの動きが、そこまで早かったとは思いませんがね」
「ケンカなんてしたことないから、自分の動きもスローだったってことかな」
「みたいですね。
でもホント見直しました。
渡瀬さんを大切にしてやって下さい」
さっぱりと、彼女を諦めたような口振りに、僕の方が驚いた。
「君も、奈緒美さんから手を引いてくれるのか」
「好かれてもないのに、木村みたいな真似したらカッコ悪い。
見てて良く分りました」
「そうか、そうだね」
僕も誠くんを見直した。
若くて、これほど情熱的なのに、見事な引き際じゃないか。
「でも、渡瀬さんを泣かせるようなことをしたら、その時はただじゃおきませんよ。
俺は、木村みたいなヤワじゃないですからね」
「誠くんが、こんなに喋るとは思わなかった」
「俺もですよ」
「そうか」
僕が笑うと、誠くんも笑った。
僕はジャンプスーツの汚れを、両手で数度に渡り叩き落した。
これが別れの合図と、誠くんは受け止めたようだ。
「じゃあ、気を付けて」
「君はこれからどうするの。
終電は過ぎたと思うよ」
「え、それは困ったな」
「バイクの後ろで良ければ、家まで送って行こうか」
「じゃあ、すみません。
よろしくお願いします」
助かったと云う彼の表情が、漸く年齢相応に見えて、僕は嬉しかった。
「お安いご用さ。
確か、下総中山だっけ」
「良く知ってますね」
「いずみさんにからかわれたんだ。
『私は下総中山、奈緒ちゃんは市川の真間』ってね」
「姉は、口悪い所ありますからね。
でも根は良い人なんだ。
付き合うのは姉の方にしたらどうです。
そうすれば万事巧く行くのに」
家までの足を確保した気安さで、誠くんは軽口を叩いた。
彼とはこの先、仲良くなれそうな気がした。
「奈緒美さんを誠くんに譲って、僕がいずみさんと付き合うのか。
いずみさんも美人だし。
それもおもしろいかも知れないな。
あ、こんなこと、いずみさんには絶対言わないでくれよ」
「承知!」
下総中山駅南側に位置する、小さな住宅地の一角でバイクを停めた。
街灯が薄暗いせいか、円城寺家は周辺によく溶け込んだ、特徴の無い、普通の二階家に見えた。
誠くんは静かに小さな門扉を開き、足音を忍ばせながら玄関まで行き着くと、そっと鍵を開け内側に消えた。
玄関の灯りは点かなかった。
高校一年生の男の子が、午前一時過ぎに帰宅して、親に対して、どういう良い訳をするつもりだろう。
彼の困惑顔が瞼に浮かび、僕は何故か嬉しくなった。
''''''''''''''''''''''''''' 第12章 完了 ''''''''''''''''''''''''''''
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