第58話 あさっぷ

 木曜日の朝からと言うよりは夜中から、僕はただベッドの上に横たわるだけで、外には何一つしなかった。


 朝、母親から声を掛けられた時も、昼まで寝かしてくれと返事しただけだ。

 本当はそれすらも面倒だったが、部屋に入られて話し掛けられるのはもっと嫌だった。


 僕は天井の中に見える筈の無い絵を探してみた。

 何かが見え始めた瞬間、ふっと焦点がぼけ目が閉じる。

 瞬間的に眠っていた。


 日曜日の日中と夜に纏まった睡眠を取って以来、毎日三時間とは寝ていない。

 どうやら僕は軽い不眠症に掛かってしまったようだ。


 午後三時になって、漸く僕はバイトへ出かける為の準備を始めた。


 唯一の楽しみだったのに、明菜ちゃんとバイト先で会う事はもう無いのだ。

 僕の何かがいけなかったのなら、僕の方がバイトを止めても良かったのに。

 どうして明菜ちゃんは何も言ってくれなかったのか。


 見つからない答を求め続け、遂には神にまで答を求めて祈ってみたが、無神論者の祈りなどそうそう通じる筈も無かった。



 金曜日の僕も、バイトの終る夜まで前日とそう大差の無い一日を過ごしたが、帰宅直後の午後十一時半きっかりに携帯メールが着信した。


 驚いたことにと言うべきか、遅過ぎる返信と言うべきか、それは明菜ちゃんからのもので、さらに驚いたのはメールの意味が全く分らないことだった。


 返信メールでその意味を訊いてみたが、昨日、一昨日と同じ一方通行で、電話も勿論繋がらない。

 現象から帰納法きのうほう的に考えるならば、明菜ちゃんはこのメールを送る為に携帯をONにして、送信直後OFFにしたに違いない。


 こうなると今のところ僕に打つ手は一つも無いようだ。

 明菜ちゃんの交友関係どころか、自宅すらも津田沼駅からバスということ以外は何も知らなかったし、日曜日のシフトを代わった女の子にも訊いてみたが、個人的付き合いは全く無いとのこと。


 携帯があればいつでも連絡を取れる筈が、それが繋がらないとなると、外の連絡手段が全く無いことに僕はやっと気が付いた。


 僕は、わらにもすがる思いで、キャベジンさんにメールしてみた。

 彼とのメールのやりとりは、僕が書いた灯火のコンサート記事に絡むたった一回きりだったが、この時湧いたインスピレーションが彼を相談相手に選んだのだ。



『 キャベジン様


 すみません、灯火のこと以外でメールするつもりは無かったのですが、何となくキャベジンさんなら答を知っているような気がしたので……

 詳しい事情は話せないのですが、僕の女友達から携帯メールが来て、その文面がナゾナゾみたいで、僕にはその意味が全く分らないのです。


 彼女はメールを送信した後、携帯をずっと切っているらしく、メール文の意味を直接訊く事ができません。

 おかしいと思うかも知れませんが、そのメールはとても重要なメッセージのような気がするのです。


 そのメール文は次のようなものです……

「A.S.A.P. ST.T.」

こんなことでメールして本当にすみません。


           トモヤン      』



 幸いな事に、メールの返信は十分後に来た。



『 トモヤン様


 恋人からの謎のメールなんてロマンチックですね。

 でもそんなこと言ってる場合じゃないのかな。

 メールの解読は僕にはできませんが、ヒント位なら教えられるかな。

 でも僕が教えなくても分りませんか?

 だって「A.S.A.P.」って灯火の歌の題名ですよ。

 サードアルバム「RIVER&SEA」に収録されてますよ。

 意味は、as soon as possibleです。


         キャベジンより    』



 なるほど! 灯火の歌に関係があったのか。

 だから僕は直感的にキャベジンさんを相談相手に選んだのか。


 彼のお陰であの暗号の意味が漸く解けた。

 念の為アルバムの歌詞カードを探して確認してみる。

 意味も知らずに聞き流していたが、確かにあれはキャベジンさんの言う通りの意味で間違い無い。


 僕は彼に対するお礼のメールを後回しにして、バイクをガレージから引き出した。

 時計の針は十二時二十分を指している。

 もう間に合わないかも知れないが、高速と一般道を目一杯飛ばしてST.T=津田沼駅へ!


 事故を起さなかったのが奇跡みたいに飛ばしたのに、あの日待ち合わせた駅のロータリーへ僕が辿り着いた時には、十二時三十分を大きく回っていた。

 明菜ちゃんの姿はどこにも見つからない。

 タクシーを待つ小さな列の中にも、明菜ちゃんは居なかった。

 放心した僕はバイクを降りて、あの夜明菜ちゃんが待っていたポール脇まで、敷き詰められたタイルの、幾何学きかがく模様だけを見つめながら、ギブスで固められた様な両足をひきずるようにして歩んだ。


 明菜ちゃんはもう帰ってしまったに違いないが、先ほどまでここに居た筈なのだ。

 知らず知らず唇を噛みしめていた僕は漸く顔を上げた。


 目の前でグレーの何かが風にそよいでいる。

 細いポールに蒔きつけられた布切れをほどいてみた。

 見覚えのある男物のハンカチだ。

 あのコンサートの帰りに寄った居酒屋で、僕がうっかり倒したコップから、僅かに残っていたチューハイが明菜ちゃんのジーンズに引っ掛かり、慌ててハンカチを手渡したのだ。

 明菜ちゃんはそれを持ち帰り洗濯して返すよと言ったっけ。


 吹きっさらしのハンカチには、アイロンを掛けた跡があった。

 そしてルージュの文字が『さようなら』を告げていた……



''''''''''''''''''''' 第4章 完了 '''''''''''''''''''''''


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