第57話 母の追求と明菜の退職

 とんぼ返りに帰宅してすぐ眠りに落ちた僕は、母の呼び声で昼過ぎに目を覚ました。


 朝飯なのか昼飯なのか分らないが、用意された食事を済ませると母は僕をなじった。


『こんな時に、あなたまで夜中に出て行って朝帰りするなんて』と言うのが僕を責める理由だった。

 母にしてみれば確かにそうだろう。

 しかし僕には僕なりの事情がある。

 でもそれを説明することなどできなかった。

 父は昼前に帰宅したらしい。

 話し合おうとしたのに、疲れたと言ったきり寝室に入ってしまったそうだ。

 今の僕にはそれがどういうことか痛い程分る。

 父も宿泊先ではあまり眠らなかったに違いない。


 不審に思った母は、父の衣服などを綿密に調べて、上等な香水の残り香を上着とシャツから見つけたらしい。

 口惜しくてならないようだ。

 昨夜とは違う母の取り乱し様に、ただ黙って聴いているしかなかった。


 僕の態度を母は責めた。

 おまえが娘だったら私の気持ちがよく分るだろうにと。

 父の外泊のとばっちりを受けて、僕は夜中の行動を追求された。

 本当のことなんか言える筈も無いから、僕は友人に呼び出されたと言い訳した。

 夜中に緊急呼び出しされる程の相談事は、男女のいざこざ位しか思いつかなくて、咄嗟とっさにそんな作り話をしてみたが、今や猜疑心さいぎしんが海よりも深くなっていた母は、容易には信じようとしなかった。


 僕への追及が飽きると、父の話へと逆戻りし、母の話が何時になったら終るのか見当が付かなかった。

 母の激情に翻弄ほんろうされた僕はいつの間にか金曜日の目撃を暴露していた。


 秘密を明らかにしてしまった以上、ここからさらに長くなるだろうと覚悟したが、母の話は突然終った。

 暫くの間、父の様子を観察してみると、母は静かに宣言した。


 あのことは父に先ず確認してみるつもりだったのに、どうして漏らしてしまったのだろう。

 しかしながら、それを確認しても無駄かも知れない、との思いが僕を支配していたのも事実だ。

 日帰りゴルフを急に宿泊へと変更し、衣服には香水の甘い香りをうつされて、いくら眠いからとは言え、話をしようと待ち受けていた母をさえぎって、寝室へと逃げ込んだ父に対し、一体どう弁護してやったら良いのだろうか。

 この一件は愛人説以外では説明できないように思えた。

 そして僕の行為が卑劣だったかどうかは別として、この日から始まった半月ほどの監視的観察が愛人説を証明した……



 月曜日にはネットで予約した通り、ジャパンネットバンクから母の指定口座へ、僕の百万円が振り込まれた。


 西田司法書士事務所で働く数人の人々に対して、この融資がきっと役に立ってくれることだろう。

 その自己満足も今となっては虚しかった。



 その日の明菜ちゃんは沈んでいた。

 恋人同士なのに声も掛け辛い雰囲気だ。

 明菜ちゃんの仕事が上がった後、僕はバックルームで電話とメールを試みたがいずれも返事は無かった。


 翌日確かめると、携帯を持って来るのを忘れていたと言う。

 嘘ではなかったようだが、仕事でも普段の明菜ちゃんでは考えられないような凡ミスが続いたし、傍に居て気が気じゃなかった。

 家でも外でも、僕の気が休まる所は無いみたいだ。



 水曜日の明菜ちゃんにはすっかり落ち着きが戻り、僕はやっと一安心できた。

 店内では業務会話の外に、ラブラブ会話も幾つかできたしね。

 やっぱり僕の気の回し過ぎで、明菜ちゃんはただ戸惑っていただけなのだ。


 所がその夜、広岡オーナーの話を聴いて僕は愕然がくぜんとした。

 中島さんは家の都合によって、今日一杯でバイトを止めることになった。

 土曜日からは明菜ちゃんの代わりの人が来ると言う。

 何が何だか分らず、僕は広岡さんに事情を問いただしたが、彼も個人的事情については何も聞いてないらしく、次に来る人は経験者だし、バイトシフトの変更も必要無いし、西田君が心配するようなことは何も無いよと言うばかりだ。



 店を出た直後、携帯の発信履歴ボタンを押した。

 何度も何度も繰り返し掛けてみるが、電源が切れているか電波の届かない所に居ると云う、あの聴きなれた器械音声が虚しく耳元で木霊こだまするだけだった。


 帰宅してからの電話も同じだった。

 淡い期待を込めたメールも一つも届かなかったらしく、午前二時を指す寝室の時計を見て僕は漸く諦めた。

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