第4章 別れ

第54話 父の外泊

 昼のまだ長い季節は、五時を過ぎても一向に暮れる気配を見せなかったが、二人のおしゃべりは徐々に途絶え、空よりも早く黄昏たそがれていた。


 用事を思い出した女は津田沼駅で降りた。

 快速電車のドアが閉じて、ゆっくりと動き始める。

 男は電車の中で女の後姿を目で追い続けた。


 行かせたくなくて、頭の中で女の残像を抱きしめた。

 女は振り向こうとせず、僕の手をすり抜けて行った。

 現実の僕は、明菜ちゃんの後姿にただ小さく手を振っただけ。


 抜け殻は次の駅で降りた。

 稲毛駅構内の書店へ立ち寄り、次いで生涯二度目のパチンコ屋へと流れた。

 始めに運良く球が出て、無くなるまでいたずらに時間を費消した。


 身体は一段と重くなった。

 取り込み忘れて、雨を吸い切った布団の様だ。

 他人の身体を引き摺る様な感覚で、僕は漸く慣れ親しんだ住みかへ辿り着いた。


 何もしたくなかった。

 ベッドにこの身を投げ出したかった。

 こんな夜に限って僕の帰りをひたすら待ち詫びる人がいた。


 母は自分のことだけで精一杯の様子だった。

 僕の背負っている重さは何も伝わらない。

 それでも気遣われて、根掘り葉掘り訊かれるよりは幾らかマシだった……


「随分遅いじゃないの、智也」


 その瞬間覚悟した。

 予想通り母の話は長かった……


 父は月に二回の定例会と称して、今朝も早くから埼玉県北部のゴルフ場へと出掛けたらしい。


 父に言わせれば、ゴルフ接待は仕事上必要不可欠なもので、そのお陰で大口不動産登記業務を獲得できるそうだ。


 ゴルフ定例会の行き先は、津田沼から日帰り圏内のゴルフ場に限られていた。

 参加者は銀行の融資担当や、大手不動産会社のやり手営業マンと、彼らの主要な取引先で、定例会ではその誰かが会員権を持つゴルフ場を順番に回って行くらしい。


 父を含めて殆どの人が家庭を持っており、泊まりになったことはこれまで一度も無いと母は言う。

 それが今日に限って、遅くなったから今夜は泊まると電話して来たらしい。


 あの白昼の目撃が、ほんの昨日のことだったと思い出した僕は、思わず口に出そうとして思い止まった。


 今この話を母に伝えれば、今夜の外泊と直に結び付きかねない。

 ひょっとしたら父は、取引先の人達とついつい盛り上がり過ぎただけなのかも知れないのだ。

 父に確かめる方が先決だ。

 母に先に話すのは密告と変わらぬ卑劣な行為だ。

 それでも僕の心中では疑惑が大きな渦を巻いていた。


 母と自分自身をあざむくように、僕はもっともらしい宿泊理由を幾つか考え出して父を弁護した。

 母はおさまらなかった。


「いつもいつも週末に一人だけ、抜けぬけとゴルフ三昧ざんまい、もう我慢できない!」


「一人じゃないよ、接待なんだから」


 結局、僕の作り出した理由は気休めにもならなくて、最後はこんな単純なことしか言えなかった。


 週末ゴルフ問題は切っ掛けに過ぎなかった。

 夫に対して積もり積もらせた日頃の鬱憤うっぷんと不満について、母はぶちまけ続け僕はただ聞き役に徹した。

 一つ屋根の下に暮らして来た親子なのに、この日まで母の父に対する気持ちを僕は全く知らなかったのだ。

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