第53話 奇跡

 斜め上を見ていた顔は、すっと正面を見せた。

 澄み切った目は、明菜ちゃんではなく僕に向けられている。

 渡瀬さんは口を開いた。


「チェロ演奏の時、前の日も灯火ちゃんは苦しんでいた。

 高い音が一部聞こえないし、だったら途中から声を一オクターブ下げてしまえば良かったのにと、そう私は思った……」


 渡瀬さんはそこで少し間を取った。


 いずみさんの表情に曇りが見えた。


「二日目のチェロの時は、

前日下げることのなかった高音パートで、ついに下げてしまった。

 私は寧ろホッと安心した」


 渡瀬さんは、一つため息をつく。


「灯火ちゃんは、

『私に時間を下さい』

 そう宣言した。

 奥へ引っ込んだ灯火ちゃんは中々出て来なかった。

 このまま中止になるかと思ったし、それでも良いと思った。

 その間、私の連れは酷いことを言ってたけれど、最初からアイツの話なんか聞いてなかったから、その時も全然気にならなかった」


 再び間を取った渡瀬さんは、僕から視線を外した。


「でも左の席の人は、拳を固く握り締めていた」


 僕のことだった。

 明菜ちゃんもいずみさんも僕を見た。

 誠くんの視線は色々な所を彷徨さまよっていた。


「この人は私の連れの男に対して、ひどく怒っていると思った。

 その時はただそう思っただけで、何かしなくちゃ行けないとまでは思わなかった」


「あの悪口を止めてくれたら良かったのに」


 明菜ちゃんは、隣に居ても中々聞き取れない位小さな声でそう言った。


「灯火ちゃんは到頭出て来た。

 なんでそんなにも頑張れるのって思った」


 この時、渡瀬さんは眉間に深く皺を寄せていた。

 いずみさんは下を向いた。


「それからの灯火ちゃんは凄かった。

 どうしてあんなに歌えたんだろう。

 本当にびっくりしたよ」


 笑って見せた渡瀬さんの顔に、悲しいものが見えた。


「そして段々と嬉しくなって来た。

 アンコールの時には、灯火ちゃんが晴れ晴れとした顔をしているように見えた。

 本当は遠くて見えなかったけれど、そんな風に見えた。

 光が燦燦さんさんと照らしていた。

 あの光と紙吹雪の中で、灯火ちゃんが神々こうごうしく輝いていた」


「僕もあの時、

 灯火が、神の祝福を受けているように見えたんだ。

 キリスト教徒でもないのにね」


 気持ちを抑え切れず、僕はとうとう口を開いてしまった。


 渡瀬さんの視線が僕に戻って来た。

 僅かだが、あの時の目に似たものが見えた。


「自分が目にした奇跡を共有する人が、他に居ないかと私は周囲を探した。

 それでまた左を見たの」


 僕の脳裏に、あの光に満ちたステージと、水色と黄色の紙吹雪の中で、何かを成し遂げて、晴れ晴れと満足感に輝く灯火の笑顔が鮮やかに蘇った。

 その笑顔は、僕が直に見た記憶なのだろうか。

 それとも僕が想像したものなのだろうか……


「その人は涙を浮かべていた。

 私と同じ奇跡を見ていると思った。

 そして、ただハンカチを渡そうと思っただけなのに、気が付いたら、私はその人の手に触れていた」


 僕にはその気持ちが理解できたが、誰も何も言わなかった。


 理由も何となく分る。

 僕だって文学的表現のつもりだったから書くことができたが、同じことを友人や知人の前で、真面目に口にすることはできないだろう。

 恐らく笑われるか、気味悪く思われるだけだから。

 この現代日本で、奇跡の話をまともに信じる人なんて居やしない。


 渡瀬さんに見つめられ、僕も見つめ返していた。

 この瞬間の二人は、誰にも理解されないと云う点で周囲から阻害されていた。


 明菜ちゃんはうつむいて、何も言わなかった。


 結局、渡瀬さんの自己紹介は、気まずい雰囲気のまま終了し、奇跡をテーマとする短い雑談の後で、フリートークが暫く続いた。


「じゃあ次は、灯火ちゃんクイズをやってみませんか」


 いずみさんが、用意していたプリントを配った。


 よどんだ空気が一掃される訳も無かったが、灯火のクイズが始まると、皆で盛り上げようというムードになった。

 不思議なことに、その時一番はしゃいだのは、明菜ちゃんと渡瀬さんだった。


 「灯火ファンの集い」は、

和気あいあいとした感じで終了したが、いずみさんの本当の目的は何だったんだろう。


 駅までの帰り道、明菜ちゃんはどうでも良いことを喋り続け、僕は曖昧に相槌あいづちを打っていた……




 第3章 完


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