第51話 渡瀬奈緒美の自己紹介
「『灯火の間』って」
その声は僕の右隣からだった。
「灯火ファンの、キャベジンさんが書いているブログです」
誠くんが答えた。
「おもしろそう、今度それも観てみようかな」
明菜ちゃんがテーブル越しに美少年を見つめると、
彼は瞬きを幾つか繰り返してから、直ぐ右の姉と、その隣の渡瀬さんに目をやって、最後に対角線上にある、僕の方へと視線を逸らした。
「トモヤン、つまり西田さんのブログにもリンクがあるから、そこから跳べば簡単に観れますよ」
明菜ちゃんが確かめるような目をするので、僕は曖昧に頷いた。
「帰ったら見てみるね」
明菜ちゃんは、もう一度僕を見て笑った。
僕は彼に問い掛けた。
やや強引な話題転換だ。
「誠くんは、何かスポーツとかやってるの」
筋肉質の美少年は、僕を見て指をぽきぽきと鳴らした。
人前で話すのも、年上の女と話すのも苦手そうに見えた彼は、落ち着きを取り戻したようだ。
「ええ、ブラジリアン格闘技を少々ね」
「何年位」
「四年になるかな。結構強いっすよ俺」
挑発しているつもりなのか。
強い視線を送って来る。
「凄く強そうに見えるよ。
K1は観るけど、僕は争いごとは苦手なんだ。
だからあまり脅かさないでくれ」
横目で見ていた、いずみさんが口を挟む。
「もう良いよ、まこちゃんは」
「へいへい姉貴」
渋々引き下がったように見せていたが、彼は苦手な挨拶が終ってほっとしたようだ。
僕が笑い掛けると、彼もにやりと笑い返した。
さっきのパフォーマンスは、彼の照れ隠しに過ぎなかったようだ。
「最後は奈緒ちゃんね」
渡瀬さんは既に普通の感じに戻っていた。
彼女も椅子を引いてすっと立ち上がった。
「渡瀬奈緒美、二三歳。
渡ると云う字に、瀬戸内の瀬で渡瀬、ナオミは奈良の奈に、糸偏に者と書く緒と、美大の美の三文字で奈緒美です。
私は皆さんと較べたら、大した灯火ファンとは言えません。
CDもその内買いたいと思ってますが、今は一枚も持ってませんし。
いずみが熱心なファンだから、最近になって、私も灯火ファンの仲間入りさせてもらいました」
話が長くなっても、彼女の声から受けた印象はさっきと変わらない。
できるものなら、ずっとその声を聴いていたい。
急に喉が渇いた。
テーブルの冷水ポットから、僕はコップに水を注いだ。
渡瀬さんが隣を振り返ると、いずみさんが口を開いた。
「実は私、先週の埼玉スーパーアリーナ初日に行く予定だったんですが、検査入院で行けなくなって、奈緒ちゃんに代わりに行ってもらったんだ」
「あのコンサートで、本当の灯火ファンになりました」
いずみさんの話に、渡瀬さんはそう続けた。
僕は口に含んだばかりの水を、危うく吐き出す所だった。
渡瀬さんも僕と同じく、埼玉初日と二日目をレンチャンしていたなんて。
「私たちも、埼玉の二日目に行ったよ」
明菜ちゃんの発言だった。
「私はあそこへ、二日連続で行きました」
その言葉を聞いた明菜ちゃんは、はっとしたように目を見開き、渡瀬さんの顔をまじまじと見詰めた。
「渡瀬さん、ひょっとして最近髪を切りましたか」
「ええ。先週末に自分で少し切ってみたら変になっちゃったから。
思い切ってベリーショートにしようと思って、次の日、美容院に行きました。
美容師さんに任せたら、ベリーショートとは少し違ったみたいだけどね」
ショートヘアで、毛先を少し跳ねる感じにカールを利かせているから、細いうなじと、なだらかな肩への曲線が
そのせいだった。
あの人のイメージと、目の前に居る渡瀬さんが違って見えた理由は。
今にして思えば、あの時の渡瀬さんは肩まで髪がかかっていた。
明菜ちゃんがどうしてそんなことを訊いてみたか、僕は一瞬で理解した。
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