第50話 渡瀬さんの肉声

 場の雰囲気に慣れて来たのか、渡瀬さんが、明菜ちゃんの話に、軽い突っ込みを入れた。


 笑い声以外で渡瀬さんの肉声を初めて聴いた。

 その声は澄み切った音質で癖が無い。

 多分聞きなれてないから、そう感じたと思う。

 聴き分けができた時には、個人の音質傾向や発音の癖を、整理して記憶している筈だ。

 理屈を言わなければ、渡瀬さんの声はとても心地好ここちよかった。

 こんな声をしていたのか……


「あの、西田さん」

 いずみさんが僕に声をかけた。


「え」


 自己紹介の順番が、僕に回って来ていたらしい。

 真向かいで動く口許を、迂闊うかつにも見詰め過ぎた。

 渡瀬さんは心なしか顔を赤らめているようだし、誠君の強い視線も感じた。

 二人の真ん中で、いずみさんは薄笑いしている。

 右隣の明菜ちゃんには、僕の視線がどこにあるか分らなかったと思う。それだけがせめてもの救いだったが、かなり焦っていた。


「ぼ、ぼくは西田智也です。

 二四歳です。し、仕事は二年前に辞めて、今はアルバイトと株式投資をしてます。

 バイト先は地元のセ、セブンスです。ええと、あ、後は何でしたっけ」


 いずみさんは口許を隠し、小刻みに顔を震わせているし、明菜ちゃんからは

「と、灯火ファン歴よ、て、店長代理!」

と冷やかされた。


 一つ深呼吸してみた。

そう、落ち着いてゆっくり話そう……


「僕が灯火ファンになった切っ掛けは、自宅の近所にある書店で立ち読みしていた時です。

 僕の知らない歌が流れて来ました。

 歌っている女の人も全く知りませんでした。

 メロディの初っ端から一発で気に入りました」

 どもって失敗した失点を、取り返そうと思った訳ではなかったが、僕は小さな声で歌った……


「♪七回コールで 繋がった〰♪」


 皆が呆気に取られたように僕を見る。

 直ぐそこで止めた。


「その歌が『オートマモード』でした。

 凄く良い歌だった。

 僕は高校二年生だったけど、灯火が自分より年下の女の子と知った時は、またびっくりしました。

 負けちゃいられないなって」


「西田さんも歌手になろうと思ってたの?

 歌うまかったよ」


 いずみさんからの冷やかし……

 彼女は恐らく、僕がなりたかったものが何か分っていて訊いている。


「小説家になろうと思ってました」


「すごい! 高二で小説家の夢ですか」

 知ってるくせに、いずみさんは驚いてみせた。


「中学生の頃から思ってました」


 恥ずかしくて声が小さくなった。


 思いがけず、トイメンの渡瀬さんから質問が出た。


「西田さんは、今も小説家を目指しているんですか」


 顔から火が出そうになると云う状態を、僕は身を持って初めて知った。

 暫く休んでいたが、最近また書き始めていると答えた。

 渡瀬さんの視線が遠くなって行くのが分った。

 いずみさんの顔に影が差した。


 いずみさんは手をぱんと叩いて、左側の少年の手を触った。


「じゃあ次は、まこちゃんね」


 少年は、僕は良いよと慌てて手を振った。


「ダメ! 順番なんだからね」


 いずみさんは、嫌がる少年の腕を肘で突付いた。


 少年は肘鉄ひじてつを避けるように腕を引き、渋々立ち上がった。

 起立して自己紹介するのは彼が初めてだ。


「俺、いや僕は円城寺誠。

 十六歳、高一。身長一八三、体重七五。

 灯火ファンの姉貴の影響で、いつもCD聴いてます。

 灯火のホームページや『灯火の間』もチェックしてます……終わり」


 誠君も人前で話すのは苦手のようだ。

 普段優しい低音がやや上ずっている。


 確か、いずみさんは『灯火の間』を観ていた筈だが、誠君もあそこの常連なのか。

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